第5部-7、閉ざされた「人」への道
■7、閉ざされた「人」への道-------------------------------
冬はスキーのインストラクター、自宅では音楽三昧。いずれもストローク飢餓を満たす、諒君にとっての命綱でした。が、心をなくして形で生きているりょう先生は、その行為が意味している「心」の叫びを感じることができません。その「形」を苛立ちを持ってみていたりょう先生は、『今のままだと単位が取れないじゃないか』と注意するだけです。
諒青年は『おれは、やろうと思えばいつでもできるから任せておけ』と答えるものの、スキー仲間と麻雀三昧。友人も『卒業する気ねえのかよぉ』と聞くと、『“やんなきゃあ”と答えるけれど、授業には出ない。“出なきゃなあ”と言って、けっして投げた言い方はしたことがないんです』と言っています。
頭では分っていながら、マージャンに明け暮れてやる気が出ない…私は、諒君の言葉に言い表せない心情がわかる気がします。
仮に今、自分がやろうと思っていることがあるとしましょう。
そこに、親が「“それ”をやれよ」と言ったとします。
この時、あなたはどういう気持ちになりますか?
自分が選び、自分が行動したいと思っていたことに対して、いきなり横からサッとレールが敷かれるわけです。すると、そこを行くことは親が敷いたレールの上を、ただ歩くことになってしまうのです。
この悔しさが分かるでしょうか。
何やってくれてんだてめぇ!自分の意志でやろうとしているのに、これじゃお前の操り人形だろう!こんなもん、やりたくてもやれねぇじゃねえか! と、本当はやりたくて仕方がないのに、親に対する反発のあまり、ついには断念することさえあるのです。この時のジレンマと悔しさと怒りはいかばかりか。
(私の相談者の中にも、親に大学に行けと言われたばかりに、本当は行きたかったにもかかわらず、大学進学自体をやめてしまった方もいました)
そう、授業に向かいたくても向かえなくしているのは、りょう先生のチェックなのです。実は、会社でも同じ。部下の仕事を妨げ、やる気を最もなくさせるのは「上司の声がけ(チェック)」であることが統計的に証明されています。『第5部-5、看守が奪う「生きる力」』で見た、節目の都度になされていたりょう先生の干渉が、ことごとく自律の道を奪っていたのです。
りょう先生はシナリオが破綻して自分が不安に直面することを避けたい思いで一杯なのです。自分が不安を見たくないためだけに言っているので、それがわが子の人生そのものを奪っていることなど気づきもしません。それどころか、子を思う親心とさえ思いこんでいるのです。
諒君は、人生に介入されました。
もはや自分の人生ではなくなってしまいました。
せっかく行こうとしていた道を父親によって閉ざされたのです。
彼は中退せざるをえませんでした。
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振り返ってみましょう。
幼い諒君は、おとなしい赤ん坊、引っ込み思案の幼児という形でサインを表しました。感情を出せなかったわけです。小2の時、その感情を表しました。すると鉄拳制裁が待っており、母親からも見放されました。
思春期に入ると愛情遮断性低身長症を訴えました。間接的な形で、実は母親になぜ愛情をくれないのか、と訴えていたのです。すると、祖父が、いい加減にしろ、とそれに蓋をしました。
道具として生まれて以降ディスカウントされ続けている諒君は、自分が人として認められているんだという強烈なものがなければ自分を支えることができません。そこで、中学時代は成績ナンバー1となりましたが、その世界はつまらないものと悟り、高校から音楽に道を求めます。が、親はそれをぶらぶらしているとして認めませんでした。
高校にけりをつけたのは、留年という汚点を残したくなかった父親でした。そして、あくまでも大学を目指させます。この時は諒君はバイトを通じて進学意欲に目覚め、自らの意志で大学に入ります。そこで親に介入されないスキーの道でナンバーワンとなり、新たな支えを見つけます。が、これも道楽としか見ない親に勉強を押し付けられ、それに反発するように諒青年は麻雀に逃げ、やがて中退してしまいます。
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いかがでしょうか。
感情を禁じられ、愛情を禁じられ、音楽という自己表現も認められず、スキーという支えも封じられ……、諒君は人として生きる道を次々と両親+祖父母の4人から叩き潰されていきました。
存在不安の強いこの4人は、身を寄せ合って身のうちに潜む不安を見ないですむための帝国を作っていたのです。不安を見たくない=自分の気持ちから逃げ続けるための帝国です。ですから、この帝国で感情表現は御法度=人として生きることは御法度、ロボットとして生きることしか許されない帝国でした。そのため、全員がこの虚構の帝国を支えるための「道具」として生きているのです。
「道具」ではなく「人」として生きようとする諒君は、帝国の住人から見れば、帝国の安定を脅かす“敵”だったのです。
彼は「心」を求めました。しかし、心を封印し「形」で生きている帝国の住人にとって、それは刃を突きつけられているのと同じなのです。なぜなら、背骨(内骨格)がないからこそ甲羅(外骨格)で生きているわけです。諒君の存在は、その甲羅をはぐって心を見せろ、と突きつけています。が、甲羅をはぐった途端、背骨のない帝国の住人は死んでしまうのです。自分の生死がかかっていますから、諒君を徹底して拒絶しなければなりませんでした。
ことの本質は、まさにここなのです。
住む世界が違う―ただ、それだけのことなのです。
諒君は、甲殻類の住む帝国を去り、人の住む世界へと向かうべきでした。ただ去るだけのこと―これで、双方が救われたことでしょう。
わたしが、「正しく親に絶望せよ」というのは、ここのところなのです。
帝国の住人は、そこを出ることはできません。そこを維持するだけで精一杯。それ以上望むことは酷なことなのです。
が、背骨を持つ「人」はどこへも自由に行けるのです。将来、再び帝国を訪問することもできるのです。帝国と闘う(レジスタンスする)のではなく、帝国から去る―それが“道”なのです。
が、わが子を自分の枠の一部にしようとしている父親。
また、親に自分のことを分かってほしいと思っている子供。
この確執が、対立をエスカレートさせていきます。
ですから、この構造を明らかにし、自分の気持ち(インナーチャイルド)を自分で救い自律へと向かう。そこには苦しい自分との闘いがあります。そこを導き見守るのが、世代間連鎖を軸にした私の役割です。世代間連鎖を見ることのできるカウンセラーが増えることを願っています。
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