あなたの子どもを加害者にしないために
全国のご家庭を訪問カウンセリングしている家族カウンセラー(家族相談士)のモノログ―家族のこと、気になる出来事を感じたままに率直に
沖縄戦終戦日 雑感〜語り継ぐこと
2008年06月23日 (月) 22:16 | 編集
ひめゆり平和祈念資料館は次世代プロジェクトに取り組んでいるらしい。
『89年の開館当時27人いた証言員は今、15人』【6月17日毎日】人になる中で、ようやく戦争を知らない世代から2名の説明員(語り部)が加わった。

『ポーランドの国立アウシュビッツ博物館には、試験で採用された公式ガイドが日本人も含めて220人いる。「歴史の語り手」はとうに戦後の世代に移っている』【6月22日朝日】のに、日本は語り継ぐことについての重要性の認識が薄い。

6.23「沖縄慰霊の日」Live & Talk 〜映画『ひめゆり』を観て語る〜
2008年06月22日 (日) 11:27 | 編集
今朝、ご案内を頂いた。

明日、6月23日、銀座ポレポレ座でひめゆり部隊にいらっしゃった方を交えたライブ&トークがあるらしい。ただし、映画『ひめゆり』をご覧になった方が対象とのこと。

6月23日は、「沖縄戦」が終わった日。
「ひめゆり」は、ひめゆり学徒の生存者が自らカメラの前に立ち、語った、本格的なドキュメンタリー作品とのこと。13年間にわたって記録した証言は、22人。
http://www.himeyuri.info/index.html

ひめゆり
黙して語る真実
2007年12月21日 (金) 18:44 | 編集
たまたまちょっと遅めにテレビを見ていたら、スーパーモーニング(テレ朝)で9時から「時空ミステリー」と「告発の行方」というのをやっていて、つい見てしまった。

「時空ミステリー」は、歴史の検証もの。
「告発の行方」は、事件その後の追跡ものである。
いずれも短いけれど、よい番組構成だと思った。


ロバート・A・シーボルドという人は、第2次大戦の米国の関わり方を調査した人らしい。彼によれば、当時のルーズベルト大統領は、「米国を参戦させるためには日本からの“最初の一撃”が必要だ」と、考えていたようだ。
(その他にも、当時参戦に反対していた米国民を戦争にひっぱりだすために、いろいろな画策がなされていたことは、いろいろなところで語られているようですね)

戦争は終わっていない
2007年11月14日 (水) 23:14 | 編集
戦争後遺症が今の20代に現れている
以前そう書いた

自分の母親の両親、父親の両親、
配偶者の母親の両親、父親の両親、
その全ての人が戦争で亡くなっていたとしたら、
一体どういう事になるか

少し考えてみてほしい


つくづくと思う

戦争の苦しみは
むしろ「今」現れている

政治家は思い知らなければならない



日常の隣にある戦争
2007年08月11日 (土) 21:52 | 編集
『私は写真のコピーを見せた。一九四五年六月一五日の大阪空襲の写真のコピーだ。(略)B=29[超空の要塞]爆撃から取った大阪市街の写真である。地図状に拡がる市街の上をさらに黒煙、白煙が覆って拡がる。「私はここにいた」とその黒煙の広がりのなかの一点を指して言った。

それは事実だった。写真で見ればただの黒煙の広がりだが、広がりのなかは火炎が燃え上がり、つむじ風が起こり、風のなかを火の巨大な木切れや金属片が飛ぶ、そこで人が倒れて死ぬ―まさに生き地獄だった』


ヒロシマナガサキ
2007年08月11日 (土) 15:37 | 編集
今朝のニュースで、ドキュメンタリー映画「ヒロシマナガサキ」のことが出ていた。

「原爆は戦争終結のために必要だった」と後悔なく語るエノラゲイのパイロット。その体験談を聞いて、
「原爆が投下されず本土で決戦となっていたら、日米ともにもっと多くの犠牲者が出ていた」
と話す子どもたち。

落とした側と
落とされた側とで
こんなにも受け止め方が違う

以前もテレビのドキュメンタリーを見て感じたが、
任務を任され、役割を果たした−ただそこにのみすがりつき他を見ようとしない役割ロボット
そこに、人の感情はない。

「戦争体験の継承」の難しさと大切さ
2007年08月07日 (火) 23:55 | 編集
小田実の「何でも見てやろう」という分厚い本を読みふけったのは高校生くらいだったか。
再び彼の名を聞いたのは、胃ガンと闘っていることを報じた7/5日の朝日朝刊だった。
「えっ、胃ガン? それにもう75なの。親父と同じ年なんだ…」−なんだか一挙にワープして実感がなかった。

そのときの新聞では、『33年の『全権委任法』で、ナチスがワイマール憲法をなし崩しにした過程にそっくりだ。最低投票率制がない国民投票法は、20%ぐらいの投票率であっても改憲可能になる。少数独裁民主主義になるのではないか』と、病床にあっても、国民投票法の成立など政治の動きを心配していることが伝えられていた。



原爆が落ちた日
2007年08月07日 (火) 00:46 | 編集
被爆の図


『「夢千代日記」早坂暁さん、原爆絵日記を出版へ』という記事を読んだ。

「絵でも見たくない」−被爆者の方は、そういう思いを持っておられるのだ。
『ためらいもあったが、「虫けらのように殺された同級生らが『僕らのことを描いて』と言う夢を見た。目に見えない力が後押ししてくれる」と絵筆を握る』

勉誠出版というところから、来年夏に出版されるらしい。


早坂さんが、原爆にこだわる理由が毎日新聞2007年7月30日大阪夕刊に出ていた。


連鎖を断つために過去と向き合う
2007年08月07日 (火) 00:40 | 編集
家族カウンセリングに来ている旅先でニュースを見た。
「夢千代日記」の脚本家、早坂暁さん(77)が、被爆者に絵を描いてもらうよう依頼して回っているドキュメントだった。

被爆者の平均年齢は74歳。
その方々が後世に伝えることなく逝ってしまえば、日本は一挙にタガが外れそうな気がする。

しかし、彼らにしてみれば思い出したくない過去なのだ。

ある女性は、焼け野原で見た死体が目に焼き付いて忘れられない。
原爆による急激な気圧の変化で、まるで釣り上げられた深海魚のように、その肉体は全身が膨れあがり、そして…眼球や脳みそ、内臓などが飛び出していた。


父の話(2)−継ぐべきこと
2007年06月18日 (月) 22:51 | 編集
六男(父)もまた、実家の苦労を見ていた。
避妊が禁じられていた「産めよ増やせよ」の時代である。後から後から子は生まれ、その子がまた子を産み…食い扶持はどんどん増えていった。
戦争のために人を作り、そのために個々人の人生は苦しいものとなり…そういう時代だ。何しろ、長男の子どもの四男と父は同級生である。いかに重複して子が生まれていたのかがわかる。

癌死した長男の苦労も見ており、小中を通じて家業の手伝いもしてきた。親にラクをさせたいという思いもあった。
囲炉裏端で大人が話す噂話などを聞いていると、高学歴だからといって人間が上等ではないこともわかった。


父の話(1)−親と兄弟
2007年06月18日 (月) 22:48 | 編集
山間の田んぼ数百枚をあわせると1町半を越えた。あぜ道の草刈だけでさえ気の遠くなる量があった。
使役として牛も二頭飼っていた。鋤を引かせたり、農作物を背負わせたり…。生まれた子牛は臨時収入になった。「ドナドナ」の世界である。
その牛の世話も一仕事だった。冬用のえさとしての干草も蓄えなければならなかった。

戦前は、家を追われた次男、三男、女性が働き手として来ていた。男は力仕事。女は藁仕事。
亡くなると中尾家の墓地に一緒に葬られた。
墓地にはそういう無縁仏が幾つもあった。

食べて手を合わせる
2007年01月19日 (金) 09:27 | 編集
ホテルの前にバンが止まった。
ドアを開けると、すっかり潮焼けした元気そうな叔父(母の弟)の顔。助手席に座ると叔父さんから汐の香りがした。
孫たちから魚臭いと言われるという。自分では気づかないそうだ。悪い匂いではない。

叔父宅には桃、びわ、みかん、梅、金柑等々様々な果樹が植わっていた。
戦災で焼けた宮崎の実家には、リンゴとバナナ以外の全ての果物が植わっていたそうだ。
その庭にあるビニールハウスの中。クーラーボックスの中にエアポンプを引き入れ、なんとアジが2匹泳いでいた。毎日天草の方に釣りに出かけるという。このあたりでは釣り好きで有名なご夫婦のようだ。

おばさんの語り部人生
2006年07月09日 (日) 17:35 | 編集
おばさんは小学校の先生だった。
万引きした少年がいた。親に言ってくれるな、という少年におばさんは大人としての責任をかけた。少年は泣いた。以降、ピタッと万引きはやんだ。おばさんは、一人の人間の人生を救った。その少年は、市民を守る職業の要職に就いた。
凄いと思う。おばさんは一人の人間を救っただけではなく、多くの人を救ったのだ。

今、おばさんは語り部をされている。童話などの読み聞かせで、そういうサークルの交流会が全国であるらしい。
またも、響いてしまった(笑)。私も「語り」を重視している。
神話の国 宮崎にて
2006年07月08日 (土) 10:58 | 編集
セミナーの翌日、宮崎の母方の親戚宅へ寄った。
mizoさんに宮崎駅まで車で送っていただく。わざわざありがとう!

盆地から平野へ。空が広い。
駅でおじさんに拾ってもらい、サービス精神旺盛に車であちこちとご案内いただきながら、いろいろとお話しを伺う。

国民小学校最後の卒業生であり、新制中学最初の入学生であるおじさん。戦争と同時に配給制。米を求めて連なる行列。食事は見る間に貧しくなった。学童疎開など小学校まるまるを戦争とともに過ごし、撃墜された米軍パイロットがよってたかって突き殺されるところも見たという。

写真の威容は、「八紘一宇の塔」。
小学校当時、塔作りのために勤労動員されているのを見たそうだ。現在は、「平和の塔」と改称。この塔がある高台は「平和台公園」と呼ばれている。
歴史を正しく見るためのモニュメントの一つとして冷静に見たい。
八紘一宇の塔


小沢昭一的こころ
2006年04月23日 (日) 21:54 | 編集
車に乗って、ラジオをつけた。
大竹まことの「少年ラジオ」という番組で小沢昭一(1929生)が語っていた。

「僕らの小さいころに似てきましたね。怖い怖い」

戦争を実体験し、『その日その日を生きて行くのに必死』な戦後を体験した彼は、『朝床屋に行って、馴染みの蕎麦屋で蕎麦を食べて、機嫌よくラジオの仕事をする』日常をこよなく愛している。
平和の大切さを身をもって知っているからだ。

世界全体がギクシャクしていることを感じている小沢は、「戦争以外ならなんだっていいいですよ」とまでいう。

「戦争だけはいけない。人殺し大会だから」

Powered by 1GB!FC2ブログ(blog). / Template by sukechan.