【禁止令の怖さ①】 最近、自画像を描くときに無意識のうちに自分の手を描き忘れる子供が増えています。中には「手はどうやって描くの?」と訊く子さえいます。子どもの世界に何が起こっているのでしょうか。
あまりにもよく見られる事例ですので、以下に一つの事例を想定してケーススタディしてみましょう(物語風に ^^)。
【禁止令の怖さ②】
「いい子でお休み」するはずだったのに、目がさえて眠れない。 独りぽっちの部屋は小2の女の子には淋しい。
迷いに迷った挙げ句、部屋を忍び足で出る。 抜き足差し足、階段を下りる。
途中で足がすくむ。 「見つかったらどうしよう…」
だけど、せめて顔を見たい。 意を決して階段を下り、寝ている両親の顔を遠くからそっと覗く。
「礼儀正しく挨拶する子だったのに…」 「反抗期もなくいい子だったあの子が…」
事件が起きたときに、こういう言葉がご家族や近所の人から聞かれることがあります。なぜ、「いい子」が事件を起こすのか?
結論から言えば、子供がいい子でいると言うことは 親が親ではないからです。
親が親ではない… 一体どういうことでしょうか?
ある子供は、お母さんが帰宅すると悪さをしました。 お母さんは、イライラと怒りとばします。
「いっつもこうなんだから!」-もはや日課です。 毎日のように怒り、毎日のように怒られ…それが、改善もされずに続いているわけです。
なぜ?
そのお母さんは、怒りを溜め込んでいる人でした。本人も無意識の親に対する根源的怒りがありました。日常的に何かのきっかけをつかんで吐き出さなければ身が持ちません。
子供は、母親が怒りを吐き出さなければ持たないことを知っていました。 しかし、何かきっかけがなければ怒ることは出来ません。 そこで…悪さをしたのです。
下の子が生まれると、上の子がイタズラをするようになるのはよく見られるところです。
上の子だって、母親が赤ちゃんの世話をしなければならないのは見てわかります。でも、わかっても心は寂しいのです。
だから、怒られるのがわかっていてもイタズラをします。怒られるというカタチであっても、そこに親との間に接点(コミュニケーション)が生まれるからです。
難しく言えば、怒られるというマイナスのストローク(相手の存在を認める働きかけ)であっても、ストロークゼロよりはいいのです。
保育園や幼稚園など、家から出すまでが一苦労。時には泣いてしがみつく… 最近学校に行きたがらず、自分にくっついて離れようとしない…。
このようなときに、母親が考えること。 「幼稚園で嫌なことがあったのかしら」 「学校でいじめにでも遭ったのかしら」
そして、「こっちだって朝忙しいのに!」と思いつつ、なだめ、すかし、励まし、ついには怒ってたたき出す。 その後、「なぜこんなに引っ込み思案で弱いんだろう」などと頭を抱えたりする。
ついでに、訳のわかっていない夫が口を出す。 「もっと厳しくしろ。甘やかすからそうなるんだ」
時に強烈な女性蔑視の父親がいる。
妻を名で呼ばず 暴力で支配し、 男女で食べるものも食べる場所も異なり、
「女は馬鹿でいい」と、 学歴差別を公然と行って 娘が知恵をつけることを拒み
家庭内で猥褻なことを公言し、 アダルトビデオの内容などを露悪的に話して 性への嫌悪感を植え付け
これまで見たように、親が家庭の中でも外でも子どもの問題に介入し、自我代行をし続けるとどのようになるでしょう。 体だけは大きくなっていくので、誰もが普通に成長していると錯覚しますが、その子の内部では何が起こっているでしょうか。(原文の構成を生かしつつ2015.2.4に修正)
■1,規範や体験が身につかない------------------------------
生物は自分のやった行動の結果を得て自己修正していきます。人もまた、自分の言動に対する他人からのフィードバックを受けて学び、成長していきます。つまり、健全に成長するためには自分のやったことに対する正しいフィードバックが必要だということです。
考えるということも「症状」の一つだと言えば、驚かれるかもしれない。
しかし、存在不安を持つ子ども達は否応なく考え始める。
親はなぜ、 私の気持ちを聴こうとしないのか。 私を受け止めようとしないのか。 私を見ようとしないのか。
親はなぜ、 一方的に自分を押しつけてくるのか。 怒りばかりぶつけてくるのか。 私を蔑むのか。
「知・情・意」と言う。 意(意識)が、知(思考)の方を向いているときは、情(感情)は出てこない。 意を情に向けたときに、気持ちはわき出してくる。
つまり、皮肉なことに、考えている間は自分の気持ちは置きざられている。だから、考えるのをやめて、意識を五感や気持ちに向けよう 「下手な考え休むに似たり」
そして、気持ちで行動することが自分を育てることになる
|