サナギを経て背骨を得た奥菜恵
2008/04/08(Tue) Category : 人物
「これだけ買い与えて不自由ない生活をさせてるじゃないか!」
「私は、お金と結婚したんじゃない!」
「形」の維持の中に棲む人と
「心」の交流に喜びを見出す人
これだけ住む世界が違えば、別れるしかなかっただろう。
高校時代に孤独感から自殺もよぎったことがあるという奥菜恵さん。
社長らしからぬ素朴さを感じさせる藤田氏に“居場所”を感じたのかもしれない。
しかし、そこは高級な監獄だった。
「何もしなくていい」-彼女は「生き人形」となった。
孤独から逃れようとして辿り着いたところは独房だった。
酒に溺れるしかなかっただろう。
奥菜夫妻がそうであるかどうかは知らないので、以下は、私の知る事例の話である。
ある夫は、土日でも、時に帰宅後の夜間でも会社に行く。
前項でも書いたが、会社が彼の「子宮」なのだ。
そここそが、存在不安を持つ彼にとっての安住の地。だから24時間頭から離れない。
その居場所を維持することこそが、彼の人生そのものなのである。
家庭は?
天然の雨露と、世間体という雨露から身を守るための「器」である。それ以上の意味はない。
だから、器にいる妻子は放置される。
存在不安は、全ての感情を凌駕する。
存在不安から逃れるためには、感情生活は犠牲にしてもよいくらいに。
というか、感情があれば存在不安も感じるので、むしろ淡々としている方が楽なのだ。
そういう人に、「心」を求めることは「酷」なことなのである。
彼は彼で、一瞬一瞬が存在不安を見ないための闘いなのだ。
「存在不安からの逃走」-自分から逃げ続けること。それで精一杯。
だから、それ以上を求めることはできない。
逆に、「心」を求める人にとって、その夫の存在そのものが独房の壁となる。
その壁をどんなに拳で叩いても壊れることはない。
「心の追求」をしてもしても、相手は逃げる以外の方法論を知らない。
求めても求めても得られない。そして、心を病んでいく……
「これだけ買い与えて不自由ない生活をさせてるじゃないか!」というのは、逃走者の悲鳴
「私は、お金と結婚したんじゃない!」というのは、追求者の悲鳴
ではなかったか…
ではなぜ、一緒になるか?
互いの中に自分と同じ孤独を感じるからだ。
町でばったり、元囚人が出逢ったと思えばよい。
一瞬のうちに、互いが監獄生活の経験者だとわかるだろう。
相手の孤独の中に自分を見る。
だから、相手を救いたいと思ってしまう。
しかし、それは相手の中に見た自分を救おうとしているのだ(自己投影)。
「情けは人のためならず」-結局、自分のために相手を利用しようとしている。
ここに、相手を自分が生きるための道具として扱う人間関係(共依存)が成立する。
しかし、「人生はあざなえる縄」-独房に入ることによって転機が訪れる。
なぜなら、全ての「依存症」の治療はアルコール依存の治療と同じ。
独房に入り、禁断症状の苦しみとたった一人で闘って初めて、「もう依存するのはやめよう」と決意できるからだ。その決意から、自分の人生が始まる。
残念ながら、その苦しみを経なければ、自律には向かえない。
奥菜さんは七転八倒した。だからこそ、這い上がれたのだ。
奥菜さんは、自分と向き合うサナギの時期を過ごした。
そういう意味では、藤田さんという存在は、外からの情報を一切遮断する「繭」の役割を果たした。
そして、自分の背骨を得て、これから蝶として羽ばたこうとしている。
喜怒哀楽こそが人生。
そのような人生を歩いてほしい。
【スーパーモーニングを見て感じたこと】
「私は、お金と結婚したんじゃない!」
「形」の維持の中に棲む人と
「心」の交流に喜びを見出す人
これだけ住む世界が違えば、別れるしかなかっただろう。
高校時代に孤独感から自殺もよぎったことがあるという奥菜恵さん。
社長らしからぬ素朴さを感じさせる藤田氏に“居場所”を感じたのかもしれない。
しかし、そこは高級な監獄だった。
「何もしなくていい」-彼女は「生き人形」となった。
孤独から逃れようとして辿り着いたところは独房だった。
酒に溺れるしかなかっただろう。
奥菜夫妻がそうであるかどうかは知らないので、以下は、私の知る事例の話である。
ある夫は、土日でも、時に帰宅後の夜間でも会社に行く。
前項でも書いたが、会社が彼の「子宮」なのだ。
そここそが、存在不安を持つ彼にとっての安住の地。だから24時間頭から離れない。
その居場所を維持することこそが、彼の人生そのものなのである。
家庭は?
天然の雨露と、世間体という雨露から身を守るための「器」である。それ以上の意味はない。
だから、器にいる妻子は放置される。
存在不安は、全ての感情を凌駕する。
存在不安から逃れるためには、感情生活は犠牲にしてもよいくらいに。
というか、感情があれば存在不安も感じるので、むしろ淡々としている方が楽なのだ。
そういう人に、「心」を求めることは「酷」なことなのである。
彼は彼で、一瞬一瞬が存在不安を見ないための闘いなのだ。
「存在不安からの逃走」-自分から逃げ続けること。それで精一杯。
だから、それ以上を求めることはできない。
逆に、「心」を求める人にとって、その夫の存在そのものが独房の壁となる。
その壁をどんなに拳で叩いても壊れることはない。
「心の追求」をしてもしても、相手は逃げる以外の方法論を知らない。
求めても求めても得られない。そして、心を病んでいく……
「これだけ買い与えて不自由ない生活をさせてるじゃないか!」というのは、逃走者の悲鳴
「私は、お金と結婚したんじゃない!」というのは、追求者の悲鳴
ではなかったか…
ではなぜ、一緒になるか?
互いの中に自分と同じ孤独を感じるからだ。
町でばったり、元囚人が出逢ったと思えばよい。
一瞬のうちに、互いが監獄生活の経験者だとわかるだろう。
相手の孤独の中に自分を見る。
だから、相手を救いたいと思ってしまう。
しかし、それは相手の中に見た自分を救おうとしているのだ(自己投影)。
「情けは人のためならず」-結局、自分のために相手を利用しようとしている。
ここに、相手を自分が生きるための道具として扱う人間関係(共依存)が成立する。
しかし、「人生はあざなえる縄」-独房に入ることによって転機が訪れる。
なぜなら、全ての「依存症」の治療はアルコール依存の治療と同じ。
独房に入り、禁断症状の苦しみとたった一人で闘って初めて、「もう依存するのはやめよう」と決意できるからだ。その決意から、自分の人生が始まる。
残念ながら、その苦しみを経なければ、自律には向かえない。
奥菜さんは七転八倒した。だからこそ、這い上がれたのだ。
奥菜さんは、自分と向き合うサナギの時期を過ごした。
そういう意味では、藤田さんという存在は、外からの情報を一切遮断する「繭」の役割を果たした。
そして、自分の背骨を得て、これから蝶として羽ばたこうとしている。
喜怒哀楽こそが人生。
そのような人生を歩いてほしい。
【スーパーモーニングを見て感じたこと】