光市母子殺害事件死刑判決に思う
虐待している人も虐待された人も、いじめる側もいじめられた人も、ハラッサーもハラッシーもいる。
思想・信条・主義・主張・趣味・宗教…一切関係ない。
全ての人が「犠牲者」だ。
(本村洋氏も、「私の妻と娘、そして被告人の3人の命が奪われる結果」という言い方をされていた-その通りだと思う)
私が支援するのは、ただ一つ―その人達の「自律」だ。
「自律」とは、自分と向き合う覚悟をし、自分の辛い過去に目を背けることなく直面してその事実を見据え、受け入れ、赦した者にのみ訪れる「静かな決意を伴った囚われからの解放」である。
アルコール依存症の患者は、たった一人で禁断症状の壮絶な苦しみと闘い、死ぬ思いをするからこそ酒を断つ決意ができる。そして、決意して以降一生涯、お酒を飲まないという静かな闘いが続く。1日、1日、今日も飲まなかったという日々を積み上げていくこと-それが依存を断つと言うことであり、それが依存からの解放なのである。
解放とは、日々闘い続けることなのだ。
親からの自律も、配偶者からの自律も、いろいろな衝動からの自律また同じ。
「静かな決意を伴った(酒、薬、リスカなどの衝動、親、配偶者、子供への)囚われからの解放」なのである。
闘い続けることは苦しいことのように見えて、実は「とらわれのない自由な地点」に立つことができる。
しかし、多くの人は自分と闘う苦しさを避けて、不自由な中で暮らしている。
私が、昨年6月に「光市母子殺害事件」について書いたのは、弁護団の動きが被告福田孝行の自律を妨げると感じたからだ。
被告は、自分と向き合う可能性もあったはずだ。
が、弁護団は死刑廃止の道具にするためにこの事件を利用した。「18歳1ヶ月」という犯行年齢を利用しようとしたのだと思う。そして、被告も弁護団の口車に乗ってしまったのだろう。
相手を道具にし合う人間関係を「共依存」という。
共依存の関係になってしまった時点で、人は成長が止まる。互いの道具として生きるようになるからだ。
この関係ができてしまうとラクになる。
だから、この時点で人は自分の内面と向き合うことをやめる。
事実、裁判で次のように述べられたとおり、あまりにも不自然に被告は供述を変えた。
『「犯した罪の深刻さと向き合うことを放棄し、死刑を免れようと懸命になっているだけ」。22日の広島高裁判決は、上告審で弁論期日が指定されて「死刑」の可能性が高まった後で、起訴から6年半もたって全面的に争う姿勢に転じた元少年の態度をそう評価した。「反社会性の増進を物語っている」とまで言い切り、「反省心を欠いている」と断じた』
【2008年04月22日朝日新聞】
共依存の関係の中で、人は決して「自律」はできないのである。
弁護団は、被告の魂の成長のチャンスを永遠に奪ってしまった。
日本社会が問わなければいけないのは次の3点である。
1,一つ一つの事件に真摯に取り組むこと
2,このような不幸が起こった心理メカニズムを真摯に解き明かしていくこと
3,犠牲者(加害者も被害者も)が自律に向かえるプログラムを構築すること
1については、本村氏が評価していたとおり、いわゆる「永山基準」によらず、個別に判断した裁判所の姿勢を評価したい。全く基準なしというわけにはいかないと思うが、基準にとらわれると、得てして基準ありきの判断になって問題への取り組みが浅くなってしまい、そこから社会が学ぼうとしなくなるからだ。
*永山基準(83年に示された死刑適用の指標)
(1)犯行の性質(2)犯行の態様(残虐性など)(3)結果の重大性、特に被害者の数(4)遺族の被害感情(5)犯行時の年齢――などの9項目のどれかを満たさなければ死刑を回避するという死刑回避基準。
2については、人がどのように心理的に成長するのか、という発達のメカニズムに日が当たってしかるべきである。すると、家族の機能や家庭がどうあるべきかがわかってきて、その家庭をサポートするために地域社会はどうあるべきなのか、政治は何をなすべきかが見えてくる。
つまり、全ての問題は、社会健全化のためのヒントとなるのだ。
にもかかわらず、理屈を労してその問題から一切学ぼうとしないから問題が起こり続けている。
3については、犠牲者が自分の内面と向き合えるような施設とアプローチが必要である。特に、家族療法を学んだ優れたカウンセラーなどを犯罪者の更生に当たらせるのが望ましい。
本村氏が次のように述べていたが、その通りだと思う。
『どうすれば犯罪の被害者も加害者も生まない社会を作るのか、どうすればこういう死刑という残虐な、残酷な判決を下さない社会ができるのかを考える契機にならなければ、私の妻と娘も、そして被告人も犬死だと思っています』
尚、下記に加害者の父親のテレビインタビュー抜粋が掲載されていた。
http://trashnote.com/dnb/archives/2006/06/25-0047.php
『あの、息子がね、したことだから、息子が責任とるのが当たり前ですから・・・その、親の責任って・・・親、責任とってやりようがないんですよ。僕はそういう主義ですから』
自分とは無関係-この姿勢が、今の日本に蔓延していると思う。
【追記】
加害者心理が分からなければ被害者は人生を再スタートできない