奥様、業者にご用心!(3)-振り込め詐欺助長の風潮
2005/07/30(Sat) Category : 世相・社会
前回(2)書いた手口の分析は、ここに書くか書くまいか迷った。
よく読んで応用すれば、人を騙すことができる。
しかし、同じように騙される人が増えるのは阻止したい。
また、ここを訪れる人の善意のネットワークに期待したい。
そういう思いから書くことにした。
また、これは個別の業者の問題ではない。
社会に風潮が蔓延している。
一つの業者を叩いても、この風潮が蔓延している限り、違う形で業者が現れ続ける。だから、私たち一人ひとりがこの風潮に「NO!」と言っていかなければならない。
その風潮とは…
テレビで、「振り込め詐欺」の若者グループが、
「俺たちは能力がある。凡人とは違う」と言って自分たちのやっている行為を肯定していたのを聞いて、自由競争の悪しき側面が行き着くところまでいった感を受けた。
「振り込め詐欺」は瞬く間に激増したが、はびこるものの背景にはそれを後押しする価値観とそれを容認する社会がある。
自由競争は能力主義を生み、それに成果主義が拍車をかけた。
「力を持つ者は行使してよい」「能力ある者はすべてを得てよい」という考えを肯定した。
さらには、「騙される方が悪い」「いじめられる方にも問題がある」という考えも容認するようになりかけている。
契約を取り付けた業者は、おそらく会社では「営業の優等生」として処遇されるのだろう。
評価されるのであれば、心の痛みも、罪の意識も消えてなくなる。
そして、「会社のため」と言いつつ組織犯罪に走る。
投獄された者の共通点―それは、罪の意識が希薄なこと。
会社犯罪にかかわったサラリーマンたちは、むしろ被害者意識が強いという。
自我が育っておらず一人にされると弱いため自供率は高い。
が、心から反省する人は少ないと言う。
自分は「会社のため」にやったんだ、自分は会社にやらされたんだ、という言い訳が心の中にある。
だから、自分がやったことなのに罪の意識を感じない。
罪の意識を感じなければ…そう、また繰り返す。
自分のやったことに責任を感じることができない人間を、あなたは信じることが出来るだろうか。
子どもでさえ、心の痛みを感じるだろう。
自分の行動に責任を持てない人間は大人ではない。まして、子どもでもない。
では、ナニ?
「お国のため」と戦ったかつての日本。
幹部においてさえ、戦争責任を感じるものは少なかった。
それから60年。
同じ過ちを繰り返して、ついには人を殺してしまった自動車会社を私たちは知っている。
そして、鉄道会社も知っている。
もしかすると、航空会社も加わるかもしれない…
この国の体質は変わっただろうか?
その自動車会社を私たちは信用しなくなった。
同様に、あなたは、大事故から復帰した鉄道会社を信じることが出来るだろうか。
そして、“心からの反省”を見せずに、あらぬことを口走る政治家を居続けさせる日本という国を、もしあなたが近隣の国に生まれていたとすれば安心して見ていられるだろうか。
組織との母子カプセル状態になった個人は、そのカプセルの中にいて分をわきまえ逸脱しない限りにおいて、無責任に安易に過ごすことができる。
しかし、上から下までを貫くこの無責任こそが、国を戦争へと向かわせ、会社を犯罪へと向かわせたのではないだろうか。
恐ろしい事は、
無責任であるがゆえに犯した犯罪について、
無責任であるがゆえに責任を痛感できないということだ。
かつて日本は、国全体がサティアンとなり、戦後は会社がサティアン化した。
その土壌の中にオウムが現れた。
オウムは、他でもない私達の住むこの社会から生まれた。
そして、今やその風潮が社会の隅々にまで染み渡りつつあるように思う。
だから言う。
「ブルータスよ、おまえもか」
(続く)
よく読んで応用すれば、人を騙すことができる。
しかし、同じように騙される人が増えるのは阻止したい。
また、ここを訪れる人の善意のネットワークに期待したい。
そういう思いから書くことにした。
また、これは個別の業者の問題ではない。
社会に風潮が蔓延している。
一つの業者を叩いても、この風潮が蔓延している限り、違う形で業者が現れ続ける。だから、私たち一人ひとりがこの風潮に「NO!」と言っていかなければならない。
その風潮とは…
テレビで、「振り込め詐欺」の若者グループが、
「俺たちは能力がある。凡人とは違う」と言って自分たちのやっている行為を肯定していたのを聞いて、自由競争の悪しき側面が行き着くところまでいった感を受けた。
「振り込め詐欺」は瞬く間に激増したが、はびこるものの背景にはそれを後押しする価値観とそれを容認する社会がある。
自由競争は能力主義を生み、それに成果主義が拍車をかけた。
「力を持つ者は行使してよい」「能力ある者はすべてを得てよい」という考えを肯定した。
さらには、「騙される方が悪い」「いじめられる方にも問題がある」という考えも容認するようになりかけている。
契約を取り付けた業者は、おそらく会社では「営業の優等生」として処遇されるのだろう。
評価されるのであれば、心の痛みも、罪の意識も消えてなくなる。
そして、「会社のため」と言いつつ組織犯罪に走る。
投獄された者の共通点―それは、罪の意識が希薄なこと。
会社犯罪にかかわったサラリーマンたちは、むしろ被害者意識が強いという。
自我が育っておらず一人にされると弱いため自供率は高い。
が、心から反省する人は少ないと言う。
自分は「会社のため」にやったんだ、自分は会社にやらされたんだ、という言い訳が心の中にある。
だから、自分がやったことなのに罪の意識を感じない。
罪の意識を感じなければ…そう、また繰り返す。
自分のやったことに責任を感じることができない人間を、あなたは信じることが出来るだろうか。
子どもでさえ、心の痛みを感じるだろう。
自分の行動に責任を持てない人間は大人ではない。まして、子どもでもない。
では、ナニ?
「お国のため」と戦ったかつての日本。
幹部においてさえ、戦争責任を感じるものは少なかった。
それから60年。
同じ過ちを繰り返して、ついには人を殺してしまった自動車会社を私たちは知っている。
そして、鉄道会社も知っている。
もしかすると、航空会社も加わるかもしれない…
この国の体質は変わっただろうか?
その自動車会社を私たちは信用しなくなった。
同様に、あなたは、大事故から復帰した鉄道会社を信じることが出来るだろうか。
そして、“心からの反省”を見せずに、あらぬことを口走る政治家を居続けさせる日本という国を、もしあなたが近隣の国に生まれていたとすれば安心して見ていられるだろうか。
組織との母子カプセル状態になった個人は、そのカプセルの中にいて分をわきまえ逸脱しない限りにおいて、無責任に安易に過ごすことができる。
しかし、上から下までを貫くこの無責任こそが、国を戦争へと向かわせ、会社を犯罪へと向かわせたのではないだろうか。
恐ろしい事は、
無責任であるがゆえに犯した犯罪について、
無責任であるがゆえに責任を痛感できないということだ。
かつて日本は、国全体がサティアンとなり、戦後は会社がサティアン化した。
その土壌の中にオウムが現れた。
オウムは、他でもない私達の住むこの社会から生まれた。
そして、今やその風潮が社会の隅々にまで染み渡りつつあるように思う。
だから言う。
「ブルータスよ、おまえもか」
(続く)