家族の変容と危機介入
2008/07/29(Tue) Category : 私の姿勢
【私の姿勢4-家族の変容と危機介入】
私は、人が内的現実で生きていることを踏まえているため、常に目の前にいる人の「現実」と向き合う。
夫は夫。
妻は妻。
子は子。
そして、親は親。
それぞれの話す「現実」をきちんと受け止める。
何世代かにわたる家族カウンセリングを行う場合、第二世代の話を聴いた後で第一世代を伺う場合、私は白紙に戻る(もちろん、事実関係は踏まえているが)。
もっといえば、継続してカウンセリングしているとき、常にその時のその人と向き合う(もちろん、過去の経緯をふまえてはいるが)。
さらには、霊体験やスピリチュアル体験や異能体験、幻覚、幻聴も含めてその人の現実であり、またちゃんと意味がある。
さらに世代を見通せば、もう亡くなったご先祖の人生が、その人生を通じて「連鎖を断つ」第一歩だったりするのが見えてくる。もちろん、当人はそのように意識もしていなければ評価もされていない(断つのは世間的に見て悪いことのように思われているからね…)。
このように、目の前の感情レベルから、一生を通した魂レベルでの人生の意味に至るまでを見るのが世代間連鎖のカウンセリングである。
さらに両家をあわせみれば、両家が実は合わせ鏡であることにも気がつくだろう。不思議に思われるかもしれないが、子が親の鏡であるように、両家が互いの鏡にもなっていることが多い。
ここまで見えてくると、自分が何をしなければならないのかは自分で見えてくる。見えてくると力が宿るのだ。
ところで、このように悠長に家族の変容を待っていられない場合がある。
本人もしくは子どもが危機的状況にある場合だ。
中にいる人は、その危機が分かっていないことが多い。
そして、事件が起こってしまうのだ。
その場合は、「危機介入」をする。
それは、事故や事件を起こさないために、自分たちが甘く見ている現実に「直面化」してもらうのである。この時は、自分を健康診断書のように見る。
健診でガンとわかったらショックを受けるだろう。
告知すべきかせざるべきか。
しかし、告知しなければその子が救われないとき、私は告げる。
全ての心身の病は生活習慣病だ。
生活習慣を変えてもらわなければならない。
事件を起こしてしまったご家族は、やはり否が応でも直面化しなければならない。逃げ続けてきた結果、内外に犠牲者を出してしまったのだから、もはや逃げてはいけないのである。でなければ、気づかないままに同じ過ちを繰り返してしまうこともあるからだ。
私は、人が内的現実で生きていることを踏まえているため、常に目の前にいる人の「現実」と向き合う。
夫は夫。
妻は妻。
子は子。
そして、親は親。
それぞれの話す「現実」をきちんと受け止める。
何世代かにわたる家族カウンセリングを行う場合、第二世代の話を聴いた後で第一世代を伺う場合、私は白紙に戻る(もちろん、事実関係は踏まえているが)。
もっといえば、継続してカウンセリングしているとき、常にその時のその人と向き合う(もちろん、過去の経緯をふまえてはいるが)。
さらには、霊体験やスピリチュアル体験や異能体験、幻覚、幻聴も含めてその人の現実であり、またちゃんと意味がある。
さらに世代を見通せば、もう亡くなったご先祖の人生が、その人生を通じて「連鎖を断つ」第一歩だったりするのが見えてくる。もちろん、当人はそのように意識もしていなければ評価もされていない(断つのは世間的に見て悪いことのように思われているからね…)。
このように、目の前の感情レベルから、一生を通した魂レベルでの人生の意味に至るまでを見るのが世代間連鎖のカウンセリングである。
さらに両家をあわせみれば、両家が実は合わせ鏡であることにも気がつくだろう。不思議に思われるかもしれないが、子が親の鏡であるように、両家が互いの鏡にもなっていることが多い。
ここまで見えてくると、自分が何をしなければならないのかは自分で見えてくる。見えてくると力が宿るのだ。
ところで、このように悠長に家族の変容を待っていられない場合がある。
本人もしくは子どもが危機的状況にある場合だ。
中にいる人は、その危機が分かっていないことが多い。
そして、事件が起こってしまうのだ。
その場合は、「危機介入」をする。
それは、事故や事件を起こさないために、自分たちが甘く見ている現実に「直面化」してもらうのである。この時は、自分を健康診断書のように見る。
健診でガンとわかったらショックを受けるだろう。
告知すべきかせざるべきか。
しかし、告知しなければその子が救われないとき、私は告げる。
全ての心身の病は生活習慣病だ。
生活習慣を変えてもらわなければならない。
事件を起こしてしまったご家族は、やはり否が応でも直面化しなければならない。逃げ続けてきた結果、内外に犠牲者を出してしまったのだから、もはや逃げてはいけないのである。でなければ、気づかないままに同じ過ちを繰り返してしまうこともあるからだ。