親の7つの呪いからの解放
2008/08/16(Sat) Category : 親の諸相
【親の呪いからの解放】2
1,「生まれたとき、女の子だったのでがっかりした」「男の子がほしかった」
2,「もういらないから、名前を○○と付けた」「二番目だから○○と名付けた」
3,「おまえは、○○の生まれ変わりだと思った」
4,「おまえは、養子(養女)に出されるところだった」
5,「おまえは、大病して死ぬところだった」
6,誕生日を祝われたことがない
7,「お前は、橋の下から拾ってきた」
なぜ、親はこういうことを言うのでしょうか?
まず、自分がそう言われたとしたらどうかを考えてみましょう。
人はこの背負わされたものの重みに一人で耐えることができません。
誰かに一緒に分け持ってもらわなければつぶれてしまいそうです。
しかし、この言葉を背負わせることができるとすればわが子しかいません。
そして、ある時あるきっかけをつかんでこの言葉を言います。
たとえば笑いながら冗談めかして、
たとえば寛いでいるときに不意を突くように、
たとえば大喧嘩した売り言葉に買い言葉の中で…
状況は様々ですが、結局言ってしまいます。
そして、
それを聞かされたわが子も、
親と同じ不安と不信の中を歩くことになるわけです。
こうして愛情飢餓と怒りの連鎖が受け継がれていくことになります。
もう少し突っ込んでみてみましょう。
人は大まかに言えば、「母親のための人生脚本」と「存在不安からの逃走」の2本立てで生きています。配偶者や我が子は、その2つのための道具として脚本人生劇場の舞台に登場させられます。
まず、存在不安が同程度の人で互いの脚本の役割ががっちりかみ合う人同士が結婚します。たとえば、家事も仕事もこなすことが生きがいである母親の元に育つと、その母親の出番を作るために何も出来ない人になる場合があります。そういう人は、「なにもせずにそこにいる」人生脚本になりますので、「なんでもしてくれる」配偶者を探します。そして、相手から「あなたは(おまえ)は何も出来ないな」と愚痴を言われることが、自分がその脚本を生きていることの「証拠」となります(だから、そのように言われることが「脚本ちゃん」は嬉しいのです)。
このように、夫婦喧嘩が絶えない場合でも、そこで飛び交っている言葉はほとんどが、それぞれの脳内親にぶつけたい怒り(代償行為)か、あるいはそれぞれの脚本ちゃんが聞きたい言葉(脚本証明)です。そのきっかけがほしいわけですから、なんにでも喧嘩のネタにしようとしますし、喧嘩が維持されているわけです。
そこに生まれてきた子供は、次のような役割を背負わされます。
1.親の脚本人生の観客役
2.親の脳内親に見せるための手駒
3.親自身の代理親
4.親自身の意識が不安に向かないようにするための意識の向け先
上2つが人生脚本に関わること、下2つが存在不安に関わることとお考えください。つまり、このような親が我が子に向かっているときは「親の親のため」と「自分のため」であって、目の前の子は見ていないということです。
例えば前記事で見ましたように、我が子の誕生日を祝わないのは我が子が嫌いなのではなく、その親が、「自分はいつまでも“親の子”であって、“子の親”にはならい。つながるのは自分の母親だけであって、現家族とはつながらない」―そういう姿を脳内親に見せるためでした。つまり、常に見ているのは脳内親であって、目の前の家族ではないということです。
ということは、あなたを見て親が言ったとしても、それは「あなたという個人」に言っているわけではありませんから、あなたに問題があるわけでもありませんし、あなたがその言葉を背負う必要もありません。
背負うということは、親に囚われるということです。あなたがその言葉に囚われていること自体が、親にとっては、あなたの中に自分が棲んでいることの証明になります。囚われたあなたは、自律出来ずに親に心配をかける人生を送るかもしれません。親に心配をかけたり問題のネタを与え続けること―これは、親の意識を自分に向けさせ続けようとすることであり、親が自身の不安から逃げられるように人生を投げ打って手助けしているということです。
冒頭の7つの言葉を言われたあなたは悲しいと思うでしょう。それは、あなたという個性がそう言われる対象となったから悲しいと思っていると思います。けれど、親の目には、あなただけではなく現家族の誰も目に入っていません。その親の在り方が悲しいのです。そして、その親の目が自分の脳内親を見続けて、自分を見てくれることが永遠にないことが悲しいのです。
「親はなぜ、私にそんなことを言ったのだろう?」―もはや、その謎は解けました。もう、「なぜ?」のためにゲーム人生を送るのはやめましょう。そして、本当の悲しみに到達し、「悲しい」と声に出しましょう。それが許可となって、悲しかった小さいちゃん達が出てくるはずです。
言っている間に、他のいろんな気持ちも出てくると思います。それもまた、言葉にして声に出してください。
そして、いつしか気づくでしょう。
自分が自分の気持ちを受け止めればそ9れでいいことに。
自分が不安と孤独を受け止めれば、もう怖いものがないことに。
そして、親はあれで幸せだったことに気づいたとき、あなたは解放されます。
もう、親をおんぶする必要はありません。
長いこと重荷を背負って、苦しかったですね…。
さぁ、親から背負わされた重荷を下におろしましょう。
重荷を下ろしても、あなたはあなたです。
ちゃんと、そこに存在しています。
ゆっくりと一息ついて、自分の存在を労ってください。
そして、自分の人生に向けて歩き出しましょう。
・なぜ、唐突に「サラ金から金を借りるな」と親が言うのか (親の呪い事例)
1,「生まれたとき、女の子だったのでがっかりした」「男の子がほしかった」
2,「もういらないから、名前を○○と付けた」「二番目だから○○と名付けた」
3,「おまえは、○○の生まれ変わりだと思った」
4,「おまえは、養子(養女)に出されるところだった」
5,「おまえは、大病して死ぬところだった」
6,誕生日を祝われたことがない
7,「お前は、橋の下から拾ってきた」
なぜ、親はこういうことを言うのでしょうか?
まず、自分がそう言われたとしたらどうかを考えてみましょう。
人はこの背負わされたものの重みに一人で耐えることができません。
誰かに一緒に分け持ってもらわなければつぶれてしまいそうです。
しかし、この言葉を背負わせることができるとすればわが子しかいません。
そして、ある時あるきっかけをつかんでこの言葉を言います。
たとえば笑いながら冗談めかして、
たとえば寛いでいるときに不意を突くように、
たとえば大喧嘩した売り言葉に買い言葉の中で…
状況は様々ですが、結局言ってしまいます。
そして、
それを聞かされたわが子も、
親と同じ不安と不信の中を歩くことになるわけです。
こうして愛情飢餓と怒りの連鎖が受け継がれていくことになります。
もう少し突っ込んでみてみましょう。
人は大まかに言えば、「母親のための人生脚本」と「存在不安からの逃走」の2本立てで生きています。配偶者や我が子は、その2つのための道具として脚本人生劇場の舞台に登場させられます。
まず、存在不安が同程度の人で互いの脚本の役割ががっちりかみ合う人同士が結婚します。たとえば、家事も仕事もこなすことが生きがいである母親の元に育つと、その母親の出番を作るために何も出来ない人になる場合があります。そういう人は、「なにもせずにそこにいる」人生脚本になりますので、「なんでもしてくれる」配偶者を探します。そして、相手から「あなたは(おまえ)は何も出来ないな」と愚痴を言われることが、自分がその脚本を生きていることの「証拠」となります(だから、そのように言われることが「脚本ちゃん」は嬉しいのです)。
このように、夫婦喧嘩が絶えない場合でも、そこで飛び交っている言葉はほとんどが、それぞれの脳内親にぶつけたい怒り(代償行為)か、あるいはそれぞれの脚本ちゃんが聞きたい言葉(脚本証明)です。そのきっかけがほしいわけですから、なんにでも喧嘩のネタにしようとしますし、喧嘩が維持されているわけです。
そこに生まれてきた子供は、次のような役割を背負わされます。
1.親の脚本人生の観客役
2.親の脳内親に見せるための手駒
3.親自身の代理親
4.親自身の意識が不安に向かないようにするための意識の向け先
上2つが人生脚本に関わること、下2つが存在不安に関わることとお考えください。つまり、このような親が我が子に向かっているときは「親の親のため」と「自分のため」であって、目の前の子は見ていないということです。
例えば前記事で見ましたように、我が子の誕生日を祝わないのは我が子が嫌いなのではなく、その親が、「自分はいつまでも“親の子”であって、“子の親”にはならい。つながるのは自分の母親だけであって、現家族とはつながらない」―そういう姿を脳内親に見せるためでした。つまり、常に見ているのは脳内親であって、目の前の家族ではないということです。
ということは、あなたを見て親が言ったとしても、それは「あなたという個人」に言っているわけではありませんから、あなたに問題があるわけでもありませんし、あなたがその言葉を背負う必要もありません。
背負うということは、親に囚われるということです。あなたがその言葉に囚われていること自体が、親にとっては、あなたの中に自分が棲んでいることの証明になります。囚われたあなたは、自律出来ずに親に心配をかける人生を送るかもしれません。親に心配をかけたり問題のネタを与え続けること―これは、親の意識を自分に向けさせ続けようとすることであり、親が自身の不安から逃げられるように人生を投げ打って手助けしているということです。
冒頭の7つの言葉を言われたあなたは悲しいと思うでしょう。それは、あなたという個性がそう言われる対象となったから悲しいと思っていると思います。けれど、親の目には、あなただけではなく現家族の誰も目に入っていません。その親の在り方が悲しいのです。そして、その親の目が自分の脳内親を見続けて、自分を見てくれることが永遠にないことが悲しいのです。
「親はなぜ、私にそんなことを言ったのだろう?」―もはや、その謎は解けました。もう、「なぜ?」のためにゲーム人生を送るのはやめましょう。そして、本当の悲しみに到達し、「悲しい」と声に出しましょう。それが許可となって、悲しかった小さいちゃん達が出てくるはずです。
言っている間に、他のいろんな気持ちも出てくると思います。それもまた、言葉にして声に出してください。
そして、いつしか気づくでしょう。
自分が自分の気持ちを受け止めればそ9れでいいことに。
自分が不安と孤独を受け止めれば、もう怖いものがないことに。
そして、親はあれで幸せだったことに気づいたとき、あなたは解放されます。
もう、親をおんぶする必要はありません。
長いこと重荷を背負って、苦しかったですね…。
さぁ、親から背負わされた重荷を下におろしましょう。
重荷を下ろしても、あなたはあなたです。
ちゃんと、そこに存在しています。
ゆっくりと一息ついて、自分の存在を労ってください。
そして、自分の人生に向けて歩き出しましょう。
・なぜ、唐突に「サラ金から金を借りるな」と親が言うのか (親の呪い事例)