安全と安心の価値
2005/09/10(Sat) Category : 世相・社会
(この項の最終)
民営化されるということの結果を、私は事実として見てきた。体験してきた。
民営化する=サービスの向上 ではない。
民営化する=利潤を追求する である。
利潤を得るために、その“手段として”サービスが向上する場合もある。が、
利潤を生まなければ、撤退する。
それが、「慈善事業じゃない」が口癖の、民間の冷徹な経済法則だ。
「民間でできることは民間で」と言えるのは、ある一定以上のサービスについてである。
ライフラインや弱者救済にかかわることについては、国は手放してはいけない。
なぜなら、
コストにかかわらず、やらなければいけないことだからだ。
コストがかかるからといって、撤退してはいけないことだからだ。
この国に生まれた人は、老若男女、貧富の差を問わず、安全にかつ安心して暮らす権利を持つ。全員が等しくその権利を享受するために、私は税金を払っている。
もう少し突っ込んでみよう。
レールは、いわば血管だ。
血管は全身を巡る。それが寸断されることに何のメリットもない。
まして、血管がなくなれば、細胞(街)は壊死する。私のふるさとのように。
そして、壊死はだんだんと広がっていく…。
郵便局も、実は安全と安心をつかさどる社会的インフラだ。
「おらが町の交番」が安全を提供したように、地域を熟知し日中走り回っている赤いバイクは安心を提供している。
「レレレのおじさん」がいつも通りに居て箒で掃きながら、「お出かけですか~」と声をかける地域に犯罪が発生し得ないように、日中、通りに男性がいる地域に犯罪は起こらない。
日中、私が子どもたちと通りで遊んでいると、近所の子どもたちも安心して出てきたものだ。
郵便やさんには、そういう安心&防犯効果があるのである。
各戸を周るかんぽのおばちゃんにもそういう効果がある。
そういう人たちが居なくなることが、コスト削減につながるのだろうか。
その分、監視カメラを町中に設置してコストアップになるのではないか。
しかも、それは地域の力をますます弱め、疑心暗鬼の監視社会を生み出すだけではないのか。
安全と安心にコストがかかる、それは常識である。
日本はそれを単なるコストとはせず、交番や郵便局という形で実現してきた。
交番や郵便局は単なるコストではなく、安全と安心を地供する貴重な社会的インフラであり、世界に冠たるすぐれた社会システムなのである。
安全と安心、そして相互信頼の上にはじめて経済は成り立つ。
日本が高度成長を遂げることができたのも、安心して経済にまい進することのできる社会的インフラがあったからだ。
誰だって心配することにエネルギーを割きながら、全力投球することはできない。
家庭や地域に心配事を抱えながら、会社で全力投球できない。
「マズローの欲求5段階説」というのがある。
生理>安全>所属>認知>自己実現。
下層の欲求が満たされると順に上位に欲求が移っていくというものだ。
この内、最下層の生理欲求は親が、その次の安全欲求は国が保証していた。だからこそこのクニは、会社に所属し、そこで認知されることにまい進できたのだ。後顧の憂いなく経済成長にまい進できる体制をクニが整えていたのである。
(このことと家庭や地域の問題をおろそかにするのは別次元の問題)
全国どこにでも、それがある―そのことのもつ本当の意味、そして隠れた経済効果を見直してみるべきだと思う。
民間になってしまうと上記のメリットが全て失われるだけではなく、本当に国民のためになることには手を出さなくなるだろう。
たとえば、ラジオ体操。
ラジオ体操は、国民の健康の維持・増進のため、昭和3年に当時の逓信省簡易保険局(今の、かんぽ)が始めたものだという。
健康が経済を支えた。
私もラジオ体操を覚えていてよかったと思うことが多々ある。 しかし民間になれば、こういうことの普及活動にお金を使うなど思いもしないだろう。
簡保のお金は、小・中学校や学校のプール、高等学校、幼稚園、博物館などの文教関連施設の建設等に活用されているらしい。国民から預かったお金だから、公共性の高いものに投資しているわけだ。
また、学資保険などの場合、保険契約者(例えば、お父さん)が死亡したとき、保険料の払込みが不要となって継続される。ここには弱者救済の思想が貫かれている。
つまり、基本理念に問題はないのだ。
だから、国民は支持し、ネットワークは広がった。郵貯は増えた。
問題になったのは、その郵貯の使い方だ。
そこをザルにしたまま、これまで積み上げてきたインフラをなし崩し的に破壊してしまうというやり方に、私は納得できないでいる。
壊すのはカンタンだが、再構築には莫大なエネルギーがかかる。
私はいつも再構築ばかりをやってきた。
だから、つくづく思うのだ。
今やろうとしていることを、じっくりと腰をすえて、感情論に流されず、やるべきこととやってはいけないことをきちんと切り分けて考えてほしい。
では、整理した上でどう判断するか。
私の判断基準は、その社会になって自分の子どもが将来幸せかというただ一点である。
私は、子どもが健やかに育つ環境を地域に残したい。
なぜなら、子育ては環境の問題。親の力及ばない部分があるからだ。豊かな環境を残すことが、親としての私の使命である。
全ての問題を、この一点から判断していきたい。
民営化されるということの結果を、私は事実として見てきた。体験してきた。
民営化する=サービスの向上 ではない。
民営化する=利潤を追求する である。
利潤を得るために、その“手段として”サービスが向上する場合もある。が、
利潤を生まなければ、撤退する。
それが、「慈善事業じゃない」が口癖の、民間の冷徹な経済法則だ。
「民間でできることは民間で」と言えるのは、ある一定以上のサービスについてである。
ライフラインや弱者救済にかかわることについては、国は手放してはいけない。
なぜなら、
コストにかかわらず、やらなければいけないことだからだ。
コストがかかるからといって、撤退してはいけないことだからだ。
この国に生まれた人は、老若男女、貧富の差を問わず、安全にかつ安心して暮らす権利を持つ。全員が等しくその権利を享受するために、私は税金を払っている。
もう少し突っ込んでみよう。
レールは、いわば血管だ。
血管は全身を巡る。それが寸断されることに何のメリットもない。
まして、血管がなくなれば、細胞(街)は壊死する。私のふるさとのように。
そして、壊死はだんだんと広がっていく…。
郵便局も、実は安全と安心をつかさどる社会的インフラだ。
「おらが町の交番」が安全を提供したように、地域を熟知し日中走り回っている赤いバイクは安心を提供している。
「レレレのおじさん」がいつも通りに居て箒で掃きながら、「お出かけですか~」と声をかける地域に犯罪が発生し得ないように、日中、通りに男性がいる地域に犯罪は起こらない。
日中、私が子どもたちと通りで遊んでいると、近所の子どもたちも安心して出てきたものだ。
郵便やさんには、そういう安心&防犯効果があるのである。
各戸を周るかんぽのおばちゃんにもそういう効果がある。
そういう人たちが居なくなることが、コスト削減につながるのだろうか。
その分、監視カメラを町中に設置してコストアップになるのではないか。
しかも、それは地域の力をますます弱め、疑心暗鬼の監視社会を生み出すだけではないのか。
安全と安心にコストがかかる、それは常識である。
日本はそれを単なるコストとはせず、交番や郵便局という形で実現してきた。
交番や郵便局は単なるコストではなく、安全と安心を地供する貴重な社会的インフラであり、世界に冠たるすぐれた社会システムなのである。
安全と安心、そして相互信頼の上にはじめて経済は成り立つ。
日本が高度成長を遂げることができたのも、安心して経済にまい進することのできる社会的インフラがあったからだ。
誰だって心配することにエネルギーを割きながら、全力投球することはできない。
家庭や地域に心配事を抱えながら、会社で全力投球できない。
「マズローの欲求5段階説」というのがある。
生理>安全>所属>認知>自己実現。
下層の欲求が満たされると順に上位に欲求が移っていくというものだ。
この内、最下層の生理欲求は親が、その次の安全欲求は国が保証していた。だからこそこのクニは、会社に所属し、そこで認知されることにまい進できたのだ。後顧の憂いなく経済成長にまい進できる体制をクニが整えていたのである。
(このことと家庭や地域の問題をおろそかにするのは別次元の問題)
全国どこにでも、それがある―そのことのもつ本当の意味、そして隠れた経済効果を見直してみるべきだと思う。
民間になってしまうと上記のメリットが全て失われるだけではなく、本当に国民のためになることには手を出さなくなるだろう。
たとえば、ラジオ体操。
ラジオ体操は、国民の健康の維持・増進のため、昭和3年に当時の逓信省簡易保険局(今の、かんぽ)が始めたものだという。
健康が経済を支えた。
私もラジオ体操を覚えていてよかったと思うことが多々ある。 しかし民間になれば、こういうことの普及活動にお金を使うなど思いもしないだろう。
簡保のお金は、小・中学校や学校のプール、高等学校、幼稚園、博物館などの文教関連施設の建設等に活用されているらしい。国民から預かったお金だから、公共性の高いものに投資しているわけだ。
また、学資保険などの場合、保険契約者(例えば、お父さん)が死亡したとき、保険料の払込みが不要となって継続される。ここには弱者救済の思想が貫かれている。
つまり、基本理念に問題はないのだ。
だから、国民は支持し、ネットワークは広がった。郵貯は増えた。
問題になったのは、その郵貯の使い方だ。
そこをザルにしたまま、これまで積み上げてきたインフラをなし崩し的に破壊してしまうというやり方に、私は納得できないでいる。
壊すのはカンタンだが、再構築には莫大なエネルギーがかかる。
私はいつも再構築ばかりをやってきた。
だから、つくづく思うのだ。
今やろうとしていることを、じっくりと腰をすえて、感情論に流されず、やるべきこととやってはいけないことをきちんと切り分けて考えてほしい。
では、整理した上でどう判断するか。
私の判断基準は、その社会になって自分の子どもが将来幸せかというただ一点である。
私は、子どもが健やかに育つ環境を地域に残したい。
なぜなら、子育ては環境の問題。親の力及ばない部分があるからだ。豊かな環境を残すことが、親としての私の使命である。
全ての問題を、この一点から判断していきたい。