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存在不安の世代間連鎖

2008/10/17(Fri) Category : 世代間連鎖
子どもを追い詰める価値の押しつけ】-2/4

■存在不安の世代間連鎖

五十代の親である昭和一桁世代は、お国のための道具として戦死に向かって生きた世代である。「産めよ増やせよ」の時代で兄弟も多く、自分のことを十分親に受け止めてもらえなかった。国からも親からも愛情をもらえなかった昭和一桁は、無重力空間に放り出されたかのように孤独に漂って不安で心許ない。(→受け止められ体験がなければ存在不安が強くなる)

そのため、時間的にも空間的にも、どこかに“自分を位置づけたい”という衝動が働く。だから制度やルールなど形の整備、年功序列などは心の安定のためにも必須だった。

元々曖昧な時間を生きていた日本民族が、世界に冠たるパンクチュアルな鉄道網をつくり上げることができたのも、時刻通りであれば安心するけれど、時刻に違えばイライラするという存在不安の裏返しであった。

昭和一桁としらけ世代


自分が安心するために緊密な社会システムをつくり上げた昭和一桁は、わが子をそのレールに乗せようと圧力をかけた。自分の中にある不安を見たくないために、生活以上にシステムの維持が第一優先なのである。

押しつけられた子どもは選択の自由を失う。
人生は選択の連続であるから、その自由を失うということは人生を奪われるのと同じことである。

押しつけられたレールの上を歩くことは操り人形でしかない。
自分の人生を歩めない五十代が「無気力、無関心、無責任」の三無主義に陥るのも無理はなかった。

また、親に気持ちを受け止めてもらっていない昭和一桁は、心のコップの中に吐き出せない感情をパンパンに溜め込んでいる。そのため、子どもの気持ちを受け止める余地がない。そのため、しらけ世代もまた親に受け止めてもらえない不安を持つこととなった。ここに存在不安が世代間連鎖することになる。





存在不安がある人の時間の構造化の仕方

昭和一桁世代への鎮魂歌
(1)-70代の背景
(2)-時間のモノサシ化

父の話
(1)-親と兄弟
(2)-継ぐべきこと


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私の昭和ひとけた生まれの母親に関して、「その一族の連鎖」という見方をしがちだったのですが、
(「その世代」という見方もしないわけではなかったのですが)
この記事を読ませて頂いて、「その世代」の抑圧された哀しみが、はっきりイメージできた気がします。
ありがとうございました。m(__)m

 

txtさん!

一番大事な「自分の気持ち」を、正しく捉えているようですね!!

言葉化は重要だと私は思いました…。

そして、気持ちは他人に否定されるものではないですね!!

そこを理解なさっていることは、素晴らしいことですよね!!

私は、言う相手を間違えて、鬱が悪化したものです…。

周りには、差こそあれ、共依存的な方だらけでした…。

そして私は、連鎖した家族の共依存言動の激しさが、厄介でした。

周りを巻き込んで、悪化させましたからね…。

ですから、その家族への怒りは、まだ整理がつきません。

鬱病は、身体も悪くさせます。その現実も、まだ受け入れられずにいます…。

様々な体験を聴いていると、やはり、親以外の家族への怒りを持つ方も、沢山いらっしゃいます。(夫や妻、兄弟姉妹、おじおば…)

それと、自分自身への怒りも、まだあります…。

自律は難しいですね…。

 

txtさま

<幸いなことに僕はそこまで歪んではいないようです>
そう言える、あなたが嬉しい。

 

大正生まれの祖母は私の名前を正しく書いてくれませんでした。名前を呼ばれた記憶を探してみたのですが今の所ハッキリしたものはありません。たった二人の子供。たった四人の孫なのに。

祖父も自ら関わろうとはしませんでした。そして与えられる愛にしか反応しないのか私のことを忘れていました。それから厳しい人だったようです。長子だから私の親が一番厳しく育てられたのかもしれません。私も祖父に確か箸の持ち方だったと思いますが手を叩かれたような記憶が微かにあります。

もう過去のことです。幼き頃のことです。ただ書かれているようなことに最近気付いたのです。戦争体験や環境の影響で祖父母は似ていたのかな?と…

なんだか虚しいというか悲しいというか…なんでしょう?思っていたよりも私の傷も深いのかもしれませんね…例え戦争が原因であれ名前ですし…孫ですし…

彼らの傷も相当深いのでしょうが…亡くなる前に愛を与える努力をしてほしかったと最近凄く痛感してしまっているのかもしれません。(秋の気候がそうさせるのかな?)

子供がいたら違っていたのかもしれませんね…しかし今の私は子供どころか結婚すら未来に描けません…子供は正直重たいです…自分すら自分で支えることが困難ですからね…

 

リサさんへ

怒りを手放すことを決意できるリサさんには脱帽します。以前コメントをくださった方もそうでしたが、「これからは無関心でいこうと思う」「復讐をしたら同類。親以外の人に愛をもらって欲しい」「復讐してやりたいが、親への憎悪の中、子に毒を渡さない努力を続けている」「親を許すことで浄化された」等、皆一線を越えるという選択肢を拒絶し、つまり、破滅を回避し幸福を手に入れる未来を信じようと努力しているようです。(努力という表現は失礼かもしれません。命懸けの闘争というべきでしょうか。)正直、どれもこれも、僕には出来ないことです。ハラッサーによってもたらされた理不尽な仕打ちに報復するだけの正当な理由は誰もが持っているものと思いますが、報復の正当性をもって尚、皆、その正統性ある行為を放棄しています。憎悪を憐れみに転化することで超越した者、憎悪に縛られること自体が屈辱だと、発想の転換により解放された者、そういった方々の存在を僕は知ってはいますが、そういった一種の境地を、僕はイメージできない。しかし、だからこそ、脱帽します。(「許せる程度の憎悪なら楽なもの」「法による裁きを恐れる臆病者」そういった解釈を用いて、彼等の境地を一蹴することは可能なのでしょうが、幸いなことに僕はそこまで歪んではいないようです。)親以外の愛によって存在不安を解消した結果の境地か、あるいは信じる他者を持てない中、自身を信じぬく覚悟を決めた結果の境地か、それとも他の理由か、いずれにせよどれも全て勝利と呼ぶべきものであるように思えます。(僕にはできませんがね。)リサさん、あなたの勝利を願っています。

 

42才のとき、カウンセラーの方にACという言葉を教えてもらって、やっと自分に気づく事ができました。と、言われて、ぱっと変われるものでもなく。とてもとても難しいのですが、この2年ほど、どうにか心の立て直しをしようと自分なりに生きています。自分が自分の親になればいいのよね!っと心に何度も言い聞かせてみます。
ここまでも遠かったけれど、これから先も遠そうで絶望しそうなため息が出ます。
でも、実は、私のような人は世界中にたくさんいると思うのです。
どうか、どうか皆さん、あきらめないで生きて。
私も、怒りを手放します。
愛情を知らなかっただけなのですから、必ず学べると信じています。
私もまだ、自分と会えていないけれど、世代間連鎖だけはしないですみました。自分のために生きれなかった事は悲しいけれど、いつか、真の自律を得て安定した心で、できる限り周りの人達を愛せる様になるのが現在の私の夢です。

いつも、このサイトには支えられています。中尾さん、ありがとう。
今日は、txt #wkmK6b.Mさんの熱の入ったコメントにすごく共感出来て、怒りの一片が消えてゆく気がしています。ありがとう。

 

れーる

一つ分かりました。
親鸞が何故、南無阿弥陀仏を教えたのか。
そして、日本人で何故親鸞の浄土真宗が過半を占めているのか。

貴方は「決め付けない事」と仰ってましたね。

浄土真宗はレールである戒律が無い!!

へ?それじゃ人生この先不安じゃん?恐怖に耐えれないよ?どーしてくれるの?

親鸞:そういう時は念仏を唱えれば極楽浄土へいけるのでノープロブレム☆さあ、わが道を行きたまへ!!

糸冬。(゚∀゚)bグッドラック

 

解決策は?

存在不安の世代間連鎖、万人が最も直視する必要性のあるテーマでありながら、万人が最も直視することを嫌悪する厄介極まりないテーマだと思います。自己という存在を作製した「親」という存在に受容されなかったという現実は、作製された側の人間にとってどのような意味と重さを持つのか、そして作製する側の人間にとって、「子」を受容出来なかった、あるいは意図的に受容しなかったという現実はどんな意味と理由を持つのか、僕は日々考え続けてきました。緻密な思考力を持たない作製された直後の人間にとって、自我の形成が一定のポイントへ進行するまでの期間に出来ることは「感じる」ことのみですが、その僅かな期間に感じ取ったモノの中に自己の存在を肯定する他者の愛が存在しなかったかもしくは希薄であったという現実が、本来健全に進行するはずだった自我の形成にどれほどの歪みを与えるのか、それを与えた側は自覚していません。そしてまた、歪んだ自我を修正出来ずに成長を続けた個が、危険性を認識することも覚悟を持つこともなく命を作製し新たに作製された自己を汚染する連鎖を引き起こす可能性を、汚染された側も自覚していないように思えます。このテーマを解決する為に自己との対峙は回避不可能なことですが、しかし自己と対峙するということは受容されなかったという過去を肯定することと、それにより生じた存在不安に「現在も自分は拘束されている」という現実を認識することを意味します。そしてその現実を認識するということは、少なくとも顕在的にはアイデンティティーであった緊密な社会システムの構築や、子の未来を想ってのレール製作、学歴、社会的成功といったステータスが、所詮は釈迦の掌で踊らされていたに過ぎなかったという屈辱を味わうことを決定付け、更には、現在までそういった真実を認識することを忌避してきたという自己の脆弱さに絶望することを意味しています。(その圧倒的恐怖を自己防衛の為に隔離した結果が、今日のハラッサーの蔓延と、それによる被害者の大量生産という現実を生み出したわけではありますが。)世代間連鎖に決着をつける為には誰かしらが、自身の全人生の否定と、そこから生じる屈辱と絶望を一度体験する以外ありません。が、当然誰にとってもそんな地獄を見るのは御免ですから、結果役回りは次世代へと引き継がれ、ここに闇の無限連鎖が確定することになります。自己と対峙できるだけの強靭な精神が無いのなら、サポートとして他者の愛によって癒やしを得る、という手段も十分ありますが、歪んだハラッサーに無償の愛を注げるだけの人格者の絶対数は絶望的ですし、そういった人格者に出逢えたと仮定しても当のハラッサーに内在する「他人を根本的に信用出来ない」という性質が障壁となってスムーズなコミュニケーションが阻害される可能性も十分にあります。(こうした「歪んだ人間ほど愛が必要なのに歪んだ人間ほど愛されない」という皮肉な現実が、無限連鎖の決着をより一層困難なものにしている要因の一つであるのかもしれません。)癒しとは異なるアプローチとして、怒りと憎悪の発散という手段も存在しますが、発散という手段は自己との対峙を前提に成立するものですから、役回りを次世代に引き継がせた人間は除外するとして、対峙した人間を想定するなら、自己との対峙によって親の呪縛の中で数十年の時を生きてきた真実に気付いた時、彼等の胸中に発生する憎悪は殺意を喚起するに十分なものであろうことは容易に推測できます。一般的にストレスや怒りの発散法として「音楽を聴く、好物を食べる」「騒音を考慮した上で満足のいくまで叫ぶ」「運動をする」等の手段はよく耳にしますが、殺害レベルの怒り、「敵」の人生を破壊したいレベルの憎悪が、この程度の陳腐な手法で浄化されると本気で考えるのはあまりに滑稽だし、当の親に憎悪をぶつけることが妥当な手法であると解ってはいても、合法的なラインで実行するならば「満足いくまで罵倒する」程度の行為が関の山でしょう。結果、憎悪を十分に発散する為には、非合法な手法を用いざるを得ない、つまり一線を越えねばならない、しかしそれが同時に自身の人生の破滅をも意味する以上、迂闊には実行できません。全てを覚悟した上での決断であるならば問題がないとはいえ、世代間連鎖の決着の本来の意味が「親の呪縛から解放されて、本当の自分と幸福な人生を手に入れること」である以上、非合法な手法での発散は空虚な自爆にしかなりえず、「親の存在に振り回された結果の破滅」という呪縛の中での悲劇的最期という屈辱的な意味しか持つことはなくなります。しかし、ではどうすればいいのか?無条件の受容、無償且つ永遠の愛が病んだ精神を救済するとしても、基本的に「持ちつ持たれつ、ギブアンドテイク」である他人の愛に、「無条件」を要求することは甚だ無謀であると言わざるを得ないし、それが可能な他人が一定数存在するとしても、出逢える確率は果てしなく皆無に近い。世代間連鎖の被害者(真の加害者、あるいは原因を連鎖の開始地点まで遡って特定するのであれば、現代に生きるほぼ全ての加害者は被害者と呼べるでしょうが)は、ある意味では全員、親という無償の愛を得られるはずだったたった一度のチャンスを失っています。そして無償の愛が他人からは得られないものである以上、全ての人間は、その虚無感を抱えて生きるしかない。(勿論、友人や恋人といった存在によって、ある程度の癒しは得られるかもしれませんが、虚無感の消滅は起こりえないと僕は推測します)完全に癒されることもない、合法的なラインを守る以上、完全な発散もできない、かと言って、自己との対峙という地獄と向き合う精神力もない、そんな八方塞がりの絶望の中、一体どうやって解放への希望を持てばいいのか?世代間連鎖、本当に厄介なテーマですよ。

 

納得!!

私の父と照らし合わせて見ました。まさしくその通りですね・・・
昔ならではの『頑固親父の教育法』の影に そんな背景があったのですね(><)

 
    
 
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