崩壊した最後の砦-家庭
■崩壊した最後の砦-家庭
昭和一桁(第一世代)、五十代(第二世代)ともに、子どもの気持ちを受け止めずに価値の押しつけをするという子育てをするのだが、その家族を取り巻く環境は大きく変化した。
五十代の小さい頃には子ども社会があった。
しかしその後、家族が地域から分離された結果、子に対する親の影響力が圧倒的に大きくなった。
完璧な人間などどこにもいないからこそ、親の影響を相対化するために家が地域に開放されている必要があったのだが、今や家は価値閉塞空間になってしまった。密室の中で価値が暴走し、事件にまで至るようになってしまったのである。

そして、世を震撼させた酒鬼薔薇事件(九七年)が起きる。
心を疎外し続ける中で、ついに第三世代から殺人ゲームが起きてしまった。
自分の存在を無視され続けている人間はストローク飢餓に陥る。
ストロークとは、相手の存在を認める働きかけのことで、目を見たり、傾聴したり、抱きしめたりすることもストロークである。
人がストロークを求めて仕掛けるものをゲームという。
ところが、日本社会はここで間違った方向に転換した。
ゆとりとは名ばかりで、規制緩和(九八年)による仁義なき競争戦争へと突入したのである。
「自己責任」という言葉と相まって「だまされるほうが悪い」という風潮ができていく。心理学的に言えば、政治がモラルをなくす「許可」を与えたのである。
九八年を期に、以降十年に渡って自殺者数が三万人を超え続けていることは、この政策が人間を追い詰めていることを示している。
無条件に相手を認め合う最後の砦であるはずの家族。
信じるものを失ってネットカフェに漂白する五十代と二十代―心のコップが一杯で、誰も受け止め手がいないことを示している。
親子世代がともに漂白するこの事実は、日本の家庭が崩壊しつつあるのではなく、既に崩壊してしまっていることを示しているのではないだろうか。
もはや仁義なき競争戦争を終わらせなければならない。
社会がモラルを取り戻さなければならない。
心の通い合うペースで生活しなければならない。
成長を追うのはやめよう。
幸福を取り戻そう。
【叉葉 賢 「また、派遣」】