環境としての父親
絵に上手下手はない。
全てのアートは、いや、全ての人の行為は感情を表現するものであるから、そもそも上手下手など関係ないのだ。
自分が何を描いたのか分からなくていい。
表現された時点で、その感情は救われている。
それに、絵を見ながら話を伺っている内に、そこに見事に自分と親との関係が表現されていることが分かる。人の心は凄いな、と思う。
が、悪しき教育やそれに毒された親の指導のおかげ(--;)で、上手く書かなければと気にしたり、ヘタだからと恥ずかしがったりする方もいる。
繰り返し言うが、絵とは心の表現だ。
決まりもルールもへったくれもない。
とあるインナーペアレンツの強いお母さんが描くのを躊躇していると、元気復活の子ども達が
「中尾先生ならいいんじゃない?」
「先生なら、下手とか言わんと思うよ。」
「うん、思っても言わんよ、きっと。」(笑)
と言いあっていたそうだ。私がそんなに接していないお子さん達なのだが、嬉しい(^^)。
しかし、子どもさん達が見ているのは、実は私と言うよりもお母さんなのである。
お母さんが変わった。
厳しくなくなった。
受け入れてくれるようになった。
子どもたちは、喜びとともに母親の変化をその肌身で実感している。
それは、恐らくお母さんが受け止めてもらっているからだと子どもは感じているのだ。それがカウンセリングを始めて以降のことであるから、私が受け止めていると想像できるのだろう。
このことは、父親の立場を考える上で示唆的だ。
子どもは常に母親を見ている。
母親が大好きだ。
そのお母さんが活き活きしていれば、活き活きさせてくれているお父さんを好きになる。
が、お母さんが暗く沈んでいれば、そうさせているお父さんを憎む。
と書いて、じゃあ父親とはそういう二番煎じ的な存在かとガックリ来ているお父さん。
ガックリ来ないでほしい。
その通りだ(笑)。
まぁ、母子を守り遊ばせる「環境」的存在と思えばよい。
環境はものを言わない。
が、そこに「在る」
それでよい。
お父さんが晴れたら、こんなにいいよ♪
【DREAMS COME TRUE 「晴れたらいいね」歌詞】
・環境としての親