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「心のコップ」のメカニズム

2008/11/03(Mon) Category : 心と感情
以下は、カウンセリング事例で体験したものです。

自分の中に感情が湧いてくる「心のコップ」があるとします。それは人の気持ちを受け止めるコップでもあります。

不眠
気持ちを出すことができず、そのコップに溜まっていくとだんだん息苦しくなり、溜まっている感情が外に出せと騒ぎ立てますから眠れなくなってきます。
気持ちを吐き出すと、よく眠れるという体験は多くの人が持っているでしょう。


身体反応
そのうち、感情を吐き出す代わりに嘔吐したり下痢したり、じんま疹が出たりアトピーになったり、ひどい咳が出たり喘息になったり、あるいはチック症状が出てきたりと、体が代償行為をするようになります。
自分の気持ちに気づき、自分の人生を歩き始めて原因不明のじんま疹が治った方がいます。


凝る
筋肉は感情を抑え込む働きがあります。感情を抑え込むために常に緊張しているので、首、肩、背中がバリバリ凝ります。慢性的に抑え込んでいると、疲労から常に全身がだるいということもあります。
感情を吐き出した翌朝、長年にわたって患わされ、どんな治療でも刃が立たなかった背中の凝りがなくなっていた方がいます。


体型変化
筋肉の鎧で硬い体になるか、水太りします。前者は大きな怒りを抑え込んでいる人、後者は受け皿として生きている人に多いようです。
気持ちを受け止めてもらうと体が柔らかくなり、体つきもほっそりしてきます。


集中力の欠如、注意散漫、気力低下
常に出てこようとする感情と内側で闘っているわけですから、外のことに対する集中力も続かず、注意も働かなくなっていきます。感情をあふれさせないよう抑えることにエネルギーを消費してしまいますので気力も萎えてきます。


イライラ
心のコップに余裕がなくなってくると、ふとしたことで溜め込んでいる感情が出てきそうになってイライラします。
イライラするのは、溜まっている感情が一斉に出てこようとして感情の特定ができないため、その感情を表現できないことにあるようです。


癇癪・ヒステリー
上記より、さらに心のコップが一杯になった状態です。
余裕があるときには受け止められる言動でも、心の余裕がないときには受け止められずにパンと弾き返してしまいます。この時、出たがっている怒りが同時に爆発します。
怒りっぽい人、癇癪持ち、ヒステリー―そういう“性格”があるわけではありません。その人の心コップは一杯であることを表しているのです。ですから、吐き出してしまえば、その人本来の性格が表れてきます。


キレる
さらに、表面張力で何とかこぼれないくらいのギリギリ状態で過ごすようになると、もはやヒリヒリした緊張状態の中で平静を保つことが難しくなります。
そこに何か一滴ポツンと落ちてくるとこれまで溜まっていた感情も一挙にあふれ出ますので理性では止められません。それがキレたという状態です。
実際、「頭でプツンと音がした」とか、「頭が真っ白になった」と聞いたことがありますが、心のダムが決壊して感情の津波に襲われたと言ってもいいでしょう。津波を抑えられる人間はいません。


対人トラブル
人は誰でも感情を持っています。すると、相手の感情に共鳴して溜め込んでいた自分の感情が抑えられなくなったり、過剰反応したりするため人間関係のトラブルも増え、仕事が続かず転職を繰り返したり、トラブルメーカーになったりします。


人嫌い・引きこもり・対人恐怖
人間関係は、気持ちの受け止め合いがその基本ですが、心のコップが満杯では、人の気持ちを受け止める余裕はありません。そのため、人が煩わしく人を避けるようになります。
“人嫌い”という性格があるわけではありません。心のコップの状態がその人を人から遠ざけているのです。心のコップが満杯になればなるほど、人と接することができなくなり、引きこもっていきます。


活字中毒
会話は感情が交じるためにメールやチャットの方に走りがちになります。
また、閉塞状況の中でパンパンになっている自分を救うために、本の世界に救いの道を見出そうとする場合があります。
もはや感情丸ごとは心のコップに入らないために、感情を言葉で解体し細かくして押し込めようとでもしているかのような苦しい作業をしている場合もあります。この苦しさ…。


アニメ、コミック、ゲーム、テレビ、パチンコ三昧
ともかくクールダウンをしなければヒートアップした頭がどうにもならない状態で寝ることもできません。
単純作業で脳のごく一部を動かすことにより、他の脳の機能を強制的にリラックスさせるわけです。活字は重たくて読めません。
アニメもコミックもゲームも、ジグソーパズルや縫い物や編み物などと同様にパターン化していて、強制的なリラックス効果があるわけです。
編み物を一定時間したらなんだかスッキリしたという方もいらっしゃるでしょう。ゲームに長時間かかりきりになればなるほど、ストレスを溜め込んでいるというサインでもあります。


体が動かない
心が重たいため行動ができません。何事も面倒くさく億劫になります。何かやろうとしてもインナーチャイルド(溜め込んだ感情達)が、こっちが先と足を引っ張るので、動く気になれません。そこまで感情が爆発しかかっているのです。


感覚鈍麻、健忘
集中力の低下、注意力散漫などの状態がさらに進んだ状態です。外側の現実よりも内的現実の方が危機的状況にあるので、外側に対する感覚は鈍くなっています。
まるで夢遊病のように、ボーッとした現実をさまよいます。


五感喪失
臭いも感じない、味も分からない、距離感がつかめないため電柱にぶつかり、階段を踏み外す。皮膚感覚が鈍っていて火傷に気づかない。音が曇る、風景に奥行きがない…等々。破裂せんばかりの感情に蓋をするために全エネルギーを使い、五感に回っていないかのような状態です。


感覚遮断
最近、痛みを感じない子供が増えているようですが、押し付けられてばかりいて感情を吐き出せない状況にあると、感情を感じることが苦しいので感情を感じる回路を切断したかのような状態になります。
自分は感じていないのですが、心のコップに気持ちは湧いており溜まっていますので、気づかないままに爆発限界にまで達していき、息苦しくなります。


乖離(乖離性同一性障害)
ついに抑え込んでいた人格が現れたりします。
ある方は、幼少時の少女(インナーチャイルド)が現れました。ある方は、怒れる自分が現れました。いずれも、現れている間の本人の記憶はありません。






*日常の中でまま見られることから病的に見えることまで、およそ全てのことが、心のコップの状態からきていることが分かると思います。つまりは、健常者と心の病を持っている方との間になんらの差はないと言うことです。

あるのはただ、「心のコップ」の状態の差だけ。
その差をもたらしているのは、気持ちを受け止める環境があるかないかということのみです。その人の側から言えば、受け止められ体験があるかないかと言うこと。気持ちは人に受け止めてもらわなければなりませんから、それはその人のせいではないと言うこと-つまりは、その人をその状況に追い込んでいる環境を探る必要があります。

そして、もし皆の「心のコップ」に余裕があれば、そこにあるのは「個性」だけなのです。

一人一人が個性を発揮して生きられる時代が来れば、どんなにか素晴らしいことでしょう。
それは、決して難しいことではありません。
とてもシンプル。

気持ちを溜め込まず、気持ちを表現して生きることです。

気持ちを大事に生きていきましょう!






感情エントロピー
自分を、この手に―

自分を受け止められない自分

「怒り」とは自分を取り戻すこと
人はどのように怒りを吐き出そうとするか?
「いじめ」って何?(1)-感情吐き出しのバケツリレー
さらば!キレる大人(1)-定年退職後、突然キレだした理由
さらば!キレる大人(2)-感情でものを言われるとキレる理由

気持ちを大事にする仕方
“口に出して”相手に伝えよう



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txtさんへ

綾さんへのtxtさんのコメントで、txtさんの言う「復讐」の意味がわかりました。
以前に復讐否定のコメントをした私ですが、この文章はとてもよくわかり共感すら覚えます。
ここまで自分をよく解り相手との関係性も理解しているtxtさんはすばらしいと思いました。
こんなに苦しくともtxtさんはこんなにやさしい・・・。なんて人間らしい心を持っているのでしょう。自分の中でいっぱいいっぱい苦しみながら今日までtxtさんが生きてくれたことに私は感謝したい気持ちです。おこがましいですがtxtさんに共感する人、txtさんの文に救われる人たちがいると強く感じました。

以前私が書いた「赦し」は、txtさんの今の戦いのその先にあることなのです。
もしかしたら今のtxtさんは自分の中に「赦し」を感じているのじゃないだろうかと、私は今回の文章から感じました。
私の勝手な希望的憶測かもしれないけれど。

赦しては憤り、私もまだその繰り返しの中にいます。ずっとそうなのかもしれません。

気がついてしまった自分の罪もあります。子として苦しみ妻として苦しみ被害者だと思っていた私は、つい最近ですが加害者でもあったことに気がつきました。私を支えようとしたわが子の苦しみ、私が苦しい苦しいと思っていた時間は我が子を不安にさせてきたその罪深さ。それに気がついた時、驚愕に近い慄きの後に哀しくて切なくて号泣せずにおれませんでした。そして我が子への愛おしさと申し訳なさで気が狂いそうでした。取り返すことの出来ない時間です。謝罪して赦されようなんて思えません。何百回何千回の「ごめんね」を言ったところで自分の気が済むことではないし、その言葉で我が子のやさしさが自分の中でたとえば憤りが沸き起こったときにそれを封じ込めたらその方が辛いことです。
罪は背負っていきます。
子どもたちは気がついてないかもしれないし、気がついたある日怒りを持つのか赦すのかわかりません。彼らの心の問題(こういう言い方は冷たい気がしていやなのですが誰が主体かという意味で彼らの問題)で私にぶつけられたら受け止めたいと思います。
このことで私は自分を一生赦さないし赦されようと思いません。親としてこういう復讐だったら受け止める気持ちです。子としても親としてもtxtさんのいう「復讐」を受け入れられます。

 

txtさんへ

確かに人間へ戻す作業は重要ですよね。ハラッサーは餓鬼であり人間では無いと思います。病だと認めることは大切ですからね。

私もハラッサーによって精神的に追い詰められた人間ですからある程度は分かります。小学生の時には私という存在の消滅を望んでいました。

逃避はエスカレートするものですよね…そしてその逃避癖はなかなか治らない…向き合わない…周りを巻き添えにする…何よりごまかしだと認めないものですね。

私はごまかせない人間です。常識とか宗教とかステータスとか恋愛とか仕事とかを生きる糧には出来ませんでした。欺瞞を見つけてしまうからです。だからこの社会は凄い苦痛です。

それらで元気になれるのが逆に羨ましいくらいに私には欺瞞が見えてしまうのです。阿呆になりたいとさえ思いましたよ。

ただ私は疑問を感じない人々やハラッサーを蔑まないように「気付けない弱さは幼いからなんだ」「逃避したり無視したり不誠実なのは心が子供だからなんだ」「自分と他人の境界線を引けない哀れな大きな子供なんだ」と言い聞かせて憎悪にならないようにしています。

もちろんハラッサーの侵略から自己防衛の為に攻撃するしかない時はありました。無気力にもなりました。

ハラッサーの言動が理不尽な上に…ハラッサーの味方であるような人々…ハラッサーの逃避に加担するかのような人々…散々でした。ハラッサーを強固なハラッサーにしたのは私ではなく周りの人間だと思います。

ハラッサーを理解しているのは家族である私だけでした。ハラッサー本人よりも理解していたとすら思いますよ。

そして私は恐怖に怯えながらもハラッサーや聴く耳の無い人々や社会への憎悪を継続させたくなかったのです。

戦争は何故起こるのか?憎しみ殺し合う連鎖は何故止まぬのか?個人の問題とリンクさせた世界の問題へと移行させたのかもしれません。(これも逃避だとは思いますがね…)

ちょうど激しさを増していた頃にアメリカの同時多発テロがありました。あらゆる映像を見るたび私は号泣していました。アメリカ側からも中東側からも想像しては号泣でした。

今なおハラッサーと暮らすしかない中で私は復讐も攻撃も拒絶もせずに生きたいです。見守る姿勢と自律さえ手にすればそれらは必ず叶うと思っています。

何よりハラッサーには私が必要だったのです。はけ口や依存や支配の対象が必要だったのです。文句や愚痴…嫌なら捨てて出て行けばいいのです。しかし結局そうしない…出来ないのです。私も同じです。

まだまだ発作的に自殺願望が出てしまいます…攻撃したくもなります…それでも私は人間を辞めたくないのです。裁きたくないのです。

死による解放は無いと思いますよ。死んでからも苦しみは続くと思います。そうではなかったら霊が見えると言う人々が存在するのは何故でしょう?皆が嘘をついているようには思えません。つまり平等なのかもしれない…という淡い期待が持てるのです。

肉体がただの器だとしたら戦争がいかに無駄か…いかに大きな罪か…理解出来ます。宗教が肉体や教会などの建物や土地そして解釈の違う教典経典の言い争いになっていますが…私からすれば墓すら無駄だと思いますよ。器の為に土地を無駄にしているように思えます。墓のある場所全てに自然な植物があればどれほど安らぐか…自然環境改善ですよ。

つまり肉体的か精神的かは問題ではなく「復讐心」自体が本能的なものなんだと思います。あなたがエスカレートしそうな自分に気付いたのは素晴らしいことです。そう本能的なものはエスカレートするんですよね!

あなたの中に愛が育まれ始めている…嬉しいです!!

そしてもしも可能ならばその「復讐心」との闘いをしてほしい…と願わずにはいられません。

距離を取れるのならば是非取ってほしい…とも思います。実質的な距離を取ることで回復へ向かった沢山の人々がいましたからね。

もちろん闘いが終わるわけではありません。前向きに離れて始まる闘いもあるんですよね。

親を捨てた人も見守る努力をしている人も色々です。親だけではなくハラッサーと離婚した人々も色々です。病だと認め見守る選択をし子供たちが親を憎まないで済んだ人もいます。早い段階で離れて連鎖を免れた人もいます。

どうか自分を捨てる覚悟はしないでほしい…それが私の気持ちであり願いです。復讐心の底にある何かを掴んでほしい…そう思いました。

 

綾さんへ

「苦しみを恐れる者はその恐怖だけですでに苦しんでいる」、16世紀フランスのミシェルドモンテーニュという哲学者が残した言葉です。恐怖は苦痛からの逃避を促しますが、それは同時に逃避し続ける限り永遠に恐怖が付きまとうことを意味しています。(逃避イコール永遠の苦痛とも言えるかもしれません。)墓場まで逃避し続ける人間を除いて、全ての人間にはいずれ自己や親や社会と向き合うべき時が訪れます。ならば時間の浪費は賢明ではない。逃避といういう行為は「逃げ切れた」という最終結果を以て初めて価値を持ちますが、常に恐怖と一体である逃走行為にその最終結果が望めない以上、そこには自己との対峙による有限の苦痛という、逃避による永遠の苦痛とは比較するまでもない極めてシンプルな答しか残りません。「逃げ切れない逃走を続けることの明らかな無駄」への確信、僕の向き合い作業の発端はそこでした。綾さんが言うように「向き合うより逃避した方が楽だ」という方は大勢いますが、逃避する方が楽か否かは、逃避により生じる苦痛と、向き合うことにより生じる苦痛とを比較しない限り答は出ません。そして比較を成立させる為には逃避と向き合い作業の双方を経験しなければならない。である以上、本当の意味で逃避が楽だという結論を出せるのは、苦痛と向き合った人間のみということになります。僕の主観ではありますが、逃避する方の多くは逃避による苦痛と、向き合い作業による苦痛とを比較しているのではなく、逃避による苦痛と、「恐怖により過剰にイメージされた」向き合い作業の苦痛とを比較しているか、もしくは比較すらせず、自己との対峙は不可能という前提に立っているかのどちらかであるように思われます。この主観の決定的根拠となったのは親の存在ですが、今現在も必死で自己との対峙から逃避し続けている彼等の姿は、格好のサンプルとなりました。体力、精神力、向き合い作業が可能な環境、その他無数の条件を完全に満たしている人間は恐らく皆無でしょうが、満たされた条件を最大限利用して自己と向き合うことは、経験者として十分すぎる価値を持った苦痛だと確信しています。逃避により生じる苦痛と、向き合い作業により生じる苦痛とを比較した時、瞬間的苦痛のレベルという点においては、後者は前者に勝るものですが、しかし、後者の苦痛が向き合い作業をクリアした時に消滅するのに対し、前者の苦痛は逃避という前提がある以上永遠に持続します。結果短期的には後者の苦痛が勝っても、長期的な視点で比較した場合、その総量は圧倒的に後者を上回るものとなってしまう。(勿論、これは「ただの理屈」ですから、実際に恐怖に直面している人間にとって、冷静に恐怖を分析することは困難だし、そこに吞まれた結果逃避を選択することはむしろ自然な反応だということも十分承知しています。)綾さんはよく耐えていると仰いましたが、むしろ僕は常に付きまとう恐怖と共に逃避し続けている人間こそ、最も苦痛に耐えている人間なのではないかと思えてなりません。自己と向き合う作業は、「自己を信じる」という前提なしに成立しませんが、(現在自己と向き合っている全ての人間は、程度の差こそあれ自己を信頼していると僕は推測します。)信じる対象を持った上での苦痛は、その対象が支えとして機能することにより大幅に緩和されます。支えを持つ人間の限りある苦痛と、支え無きまま恐怖と共に逃避し続けざるを得ない人間の永遠の苦痛、どちらの苦痛が勝るかはもはや比較するまでもなく明白だとは思いませんか?(そういった意味では、墓場まで逃げ続けた人間こそが、皮肉や嫌み抜きに最も強靭な精神を持った人間とも解釈できるかもしれません。)自己と向き合い親や祖父母や社会の真の姿を垣間見た時、僕は自己の正しさを確信すると同時に「この程度の連中」に人生の一片を奪われ、且つ今もリアルタイムで一片を奪われ続けているという現実に憎悪しました。が、しかし、自立できる年齢ではなかった僕にとって、当然選択肢は時が来るまで暴力に耐え続けること以外になかった。(選択肢という言葉は選択可能な対象が二つ以上存在する時初めて使用できるものですから、選択肢は「存在しなかった」という表現が適切かもしれません。)そして、そんな長い日々を耐え抜く糧となったのが「復讐心」でした。殴られた回数、刃物で切られた回数、残飯を食べた回数、手足を拘束され呼吸器を長時間塞がれた回数、日々繰り返す拷問を一回一回丁寧に数えながら、いずれ成人して力関係が逆転する日の為に憎悪を肥大させ続けたわけです。そして、自立した今、僕は待ち焦がれた日を晴れて迎えた。僕にとって復讐という行為は、現在の自身の衝動であると共に、それを支えにあの日々を耐え切ったあの日の自分を裏切らない意味でも成し遂げねばならないものです。しかし問題となるのはその方法。彼等にとって最大の苦痛となるものは何か?彼等が用いた暴力と同等かそれ以上の肉体的拷問を僕が体験した以上に長期間与えること、彼等にとって最も大切な何かを破壊すること、過去に類を見ない残虐な方法で殺すこと、(僕は法による裁きを恐れてはいません。つまり、僕は死刑、無期懲役を含むあらゆる刑罰に対する覚悟が既に決まっている。である以上、法は抑止力にはならない。)本当に色々と考えましたが、最終的にある一つの結論へ辿り着きました。ハラッサーに最も苦痛を与える手段、それは「ハラッサーであるという真実を直視させること」以外にないと。彼等がハラッサーであるという自覚を持つということは、同時に(ハラッサーとしての)彼等の「死」を意味します。そしてそれは彼等にとって、「人間としての」限りない地獄の始まりとなるでしょう。自身の人生の崩壊による絶望、僕への罪悪感、世代間連鎖に巻き込んだ祖父母と、それを生み出した根源である社会と時代への憎悪、劣等感、屈辱、敗北感、それら全てが人間となった彼等を墓場まで永遠に苦しめる。肉体的な死を与えることが、死を以て解放を与えてしまうのに対し、ハラッサーとしての精神的な死は、死して尚人間としての圧倒的苦痛が永遠に持続する完璧な地獄です。肉体的苦痛を加えた上で肉体的な死を与えるのではなく、精神的な死を与えた上で精神的苦痛を加え続けることこそ相応しい復讐であると確信した今、僕は彼等に死をプレゼントする為の手段を編み出すのに脳を使い始めました。しかしここで、今度は精神的な死が相応しいと理解していても、定期的に抑制しきれなくなった暴力衝動が、肉体的な死へ誘導するという問題が発生し、これに苦しめられることになります。そのコントロールが非常に困難であることを実感すると共に、肉体的な死へ屈伏しない為の合法的吐き出し作業を同時に編み出していかねばならないストレスを知ったのはこの時でした。二つの問題を同時並行で解決することの難易度は予想以上のもので、自己との対峙に匹敵するかそれ以上のものだと日々実感しています。(厳密には「予想以上」ではなく「予想外」だったわけではありますが。)今日という日に至るまでの過酷なプロセスを超えて、今僕は「合法的殺人」と「合法的地獄」を与える手段を完成させるポイントに到達しました。精神的な死を与える手段を編み出せなかった場合は、肉体的な死を与えることに甘んじる決意と覚悟はありますが、僕にとってそれは「敗北」を意味します。そして僕は、これまでもそうであったように屈伏するつもりは毛頭ありません。彼等に精神的な死を与え、人間としての生を与えることは、復讐であると同時に、皮肉にも結果論として僕にとって最初で最後の「親孝行」となるでしょう。綾さん、あなたの日々も(前向きな)苦痛に満ちたものなのでしょうか。それともすでに幸福な日々の中にいるのか。僕へのコメントが他人の心配をする余裕を持つまでに回復した結果なら素晴らしいし、余裕がない中で残したコメントならば尚更素晴らしいと思います。優しい独り言をありがとうございました。

 

話をするだけでは感情が出せない

いくら話しを聞いてくれる人のところに行っても、苦しい心の中を出せなければコップは一杯のまま。カウンセリングに行けばいいと言われても、カウンセラーに本心が言えないのでは、何も変わりません。
子供が私(父親)と話している内にいちゃもんなのか文句なのかいろいろ延々と話していく内にどんどんイライラが高じてきて、最後は胸襟を掴んで何とかしてくれ!、この苦しさを分かってくれ! と大爆発。でも、すぐに「ごめん」と言って終る。こういう時、最近は「いいよ、いろいろ聞けてありがとう」とこちらも必死の感情で応える。
翌日の本人のすがすがしい顔。1週間に1回このくり返し。しかし、すこしづつ爆発のレベル、長さが短くなるような。
今まで貯めに貯めた感情がコップに一杯で、なかなか余裕ができないようで。
できれば感情の爆発に行き着くまでに彼と心の会話ができればいいですが、私にも感情を受け止める方法がわからず、コップ一杯の感情のやり場に苦しむ毎日です。

 

txtさんへ

素人ではあなたを追い詰めてしまいそうで…言葉の表現が難しいと痛感しています…

調べたり世の色んな人間を見る中で感じたのは…皆自分を守るのに必死なのだということ…

皆ごまかしています…満たされるために必死です…悪に分類できるであろう感情を持ちながら…

「優しさは誰にも負けない!」と言いながら物凄い情念で友達を引きずり落とす看護婦がいました…こちらから連絡を取ろうとすると必ず無視し自分が必要とする時だけ一時関わってくる人のようです…普通にモテる人間こそ怖いですよ…そうゆう話を聞くとつくづく人間が恐ろしくなります…

一方で小学生の時に子ウサギを何羽か殺した子が今は母親です。その心に愛は育まれていると感じましたよ。

確かに今の社会では理想があっても上手く機能しないのが実情ですね…死刑は人間を裁く教育をしているようなものですから…裁くのが当たり前になっていてウンザリしますね…

今すぐ一気に改善することは絶対にありません…こればかりは人間の力ではどうすることも出来ません…少しずつ気付いた人間が増えていくのですよ…

大きな愛は簡単には育まれないものです…残念ながら大きな愛を持つ人間はとても少ないですね…大半が愛を奪おう得ようとばかりしています…

一気に事を動かそうとすれば歪むものです…世界は今歪んでいますよね…しかし少しずつ見えないようで変化しています…核心に触れる人間が増えるしかないのでとてもとてもゆっくり進行します…

あなたは乖離や統合失調などにはなっていないのですか?凄く耐えているように感じますが…大丈夫ですか?

現段階では薬も大切だと思います。専門家を信じて時間を掛けることも大事です。

昨年べてるの家を知りました。凄く良いと思いました。こんな社会がいいな。正直に生きられるのはいいな。症状が改善したわけではなくても付き合って生きている。自分が自分を認めている。そう感じました。

あなたには愛が必要ですね。でも大きな愛はなかなか無い。逃げられない状態や逃げられない心理状態にいる人間にとって生きてる意味がわからない…憎悪と復讐に支配されている…が助かりたいと願っている…だからあなたは行動してきたのですよね?行動できたのですよね?

記憶を封印せず生きてきたのならあなたは凄い忍耐力ですね…皆逃げたほうが楽だと大概逃げ出していますよね…ごまかす行動をしていますよね…

愛…難しいですね…

大きな愛…

先生は広い視野にすることで個人への怒りを回避したようですね…それと連鎖させながらも回復させていった…放浪もしましたよね…

どうすれば愛を蓄えていけるのか…

難しいですね…

自然から得るしか無いようにも思うし…医療も受けれるなら受け続けるほうがいいだろうし…

ごまかせないのもシンドイですよね…

独り言ですみません…

 

綾さん

自助グループではありませんが、メンタルクリニック等のカリキュラムの中で、その類の吐き出し作業は過去に経験しています。(専門家の介入無しに、当事者同士で内面を吐露し合うものですよね?)クリニック以外にもNPOの訪問カウンセリングやフリースペース、芸術療法、認知療法といったスタンダードな療法から、プライマルスクリームといったコアな療法まで、これまで本当に多くの合法的手段を僕は利用してきました。(しかし、そういった過程を踏みながらも、今ここにこうして、このような僕がいるという現実はどのように解釈するべきでしょうか?)当事者同士の吐き出し作業は、「類似した苦悩を抱える人間が現実的に存在するという事実を、リアルに認識できる」という意味において「孤独や悲しみ」を緩和する効用を実感できるものではあります。が、しかし具体的に「憎悪や怒り」をどう処理していくかという点こそが僕にとっては最も重要なポイントでしたから、その意味において有効な解決策が得られる場所とは残念ながらなりませんでした。(そもそも解決策を提示する場ではないという前提がある以上、そこに期待した僕のミスであったのかもしれませんが。)参加者の方には、他の参加者に自身の感情を打ち明けることでバランスを保つことに成功した方も多くいましたが、一方で、僕と同様の理由でこの療法を見限り、足が遠のいていった方が大勢いたというのもまた現実です。僕の実感ではありますが「仲間」を認識するという意味において、集りの場は「悲しみ」にある程度の癒しは与えます。が、しかし、何のダメージも受けることなく無傷な加害者がのさばっているという現実が依然として存在する以上、「憎悪」への癒しという意味においては、彼等はなんら機能することはありません。(勿論これは僕の個人的実感ですから、集まりの利用の中で憎悪さえも昇華できる方にとっては素晴らしい救いの手段になるとは思います。)ここまで復讐に固執する僕の心理は理解し難いものであるのかもしれません。しかしそれと同じく、自助グループ等でバランスが保てている方々の存在もまた、僕にとっては前向きな意味で理解を超えています。類似した苦悩を持つ人間同士にさえ存在する確かな壁、集まりの場は孤独への癒しを得たと同時に、再び孤独を思い知った場所でもありました。

 

txtさんへ

自助グループには参加してみましたか?

参加することでバランスがとれたと言う方々が沢山います。

言いっぱなし
聴きっぱなし

吐き出し作業です。

 

前半ウケましたぁ~

関わってきた強烈な共依存者3名が、まさに筋肉質な(硬い感じの)小太りさんですね!!

ちなみにその子供たちは、一緒に来た方は支配されてますし、昔から知っている方は、いつもイジメのリーダー格でしたね…。

親たちも色々当てはまりますねぇ~。

私も乖離以外体験したかなぁ(´Д`)

アニメやマンガやテレビとかも、度が過ぎる(依存?)と危険信号ってことかぁ(´~`;)

カタルシスは必要ですがね(^^)

ストレス解消の為や趣味と言っても、ストレス過多をごまかす為なら、原因を改善しないと意味ないですよねぇ…。

先ず自分の気持ちを聴かないと…なぁ(-_-)

私は、今の気持ちを言葉にして相手に「今」言う。これが上手いこといかないんですねぇ~(>_<)

言ったとしても、相手がさらに言うと、飲み込んでしまう…(T_T)

ただ「心のコップ」を基準にして、人間の行動を観察することによって、人間に対する恐怖感は和らぎました(^O^)/

ずっと「心の穴」と解釈していましたが、「心のコップ」の方が理解しやすいですねo(^-^)o

「個性」かぁ(´Д`)

天国って、そんな感じなんだろうなぁ~。自分の個性を、人の役に立つよう活かしながら生きれる世界o(^-^o)(o^-^)o

柄の長ぁ~いスプーン(箸?)の話みたいな、支え合う世界!!

この世も、そうなればいいのになぁ(>_<)

「死んだら終わりだ」って思うから、変なエゴ社会になるんだ、きっと!

映画「シックスセンス」は、本質を捉えた恐さがあったなぁ…。

ちゃんと自分で成仏(?)出来るような人間になりたいな(>_<)

 

本当にそうでした

「私の体質なんだろう…。」
「私が怠け者なんだろう…。」
「私がガキで心が曲がってるんだろう…。」


記事にあるような数々の症状に長年悩まされて、でもそれは私が悪いからと思い続けてきました。インナーチャイルドを受け入れ、インナーペアレントと別れ、自分が主役の人生を歩み始めてから、症状がぴったりなくなりました。体が一生懸命サインを送ってくれていたんですね。なんだか本当に自分が愛おしくなった瞬間でした。

今は、以前は殺すつもりだった親にも感謝してます。

毎日が幸せです。

先生の話は気づきでいっぱいです。いつもありがとうございます。

 

事態は深刻ですよ

「感情を溜め込まず表現して生きる」、抑圧された衝動の解放を実現することは個性の奪還を願う個人にとって、最大の理想であることは明白だとは思いますが、しかしこの理想、至ってシンプルでありながらその実現は困難極まりないものです。正直なところ、受け止め手や吐き出し作業が可能な環境が肝要か否かといったことは、僕にとってさほど重要な問題ではありません。問題なのは、受け止め手として機能するだけの精神的余裕や人格や時間を持つ他人が身近に存在するか否かということ、そして、自身の胸中に蓄積された膨大な感情を十分に吐き出すことを許すだけの環境が現実的に構成されているか否かということ、そしてそれらの存在が絶望的な個人に必要な具体的解決策は何かということ、この三点です。(吐き出し作業の重要性、受け止め手の必要性を十分に理解しながらも、そういった存在が希薄であるが故に感情や衝動を抑圧し続けざるを得ない人間へ有効な解決策を提示すること、それが今現在追い詰められた人間が最も渇望しているテーマであり答であると僕は推測します。)まず吐き出し作業に関して言えば、合法的手段で発散出来る限界を超越している人間、発散を求めながらもハラッサーと自身との圧倒的戦力差を前に泣き寝入りしざるを得ない人間、この二者にとって、発散という観点で見る限りでは上記の「理想」を実現することは甚だ困難であると言わざるを得ません。(これまで多くの解決策と呼ばれるものを僕は見聞きしてきましたが、この二者にとって有効に機能するだけの効力を持った手法には残念なことに出逢えていないのが現状です。)たとえば未成年、(特に義務教育期間に位置する中学生以下)にとって、自宅は最も嫌悪、恐怖、憎悪する場所でありながら、逃避することを許されない地獄ですが、彼等にとって発散という行為は自滅にしかなり得ない無謀なものです。自宅というハラッサーのテリトリーで戦う以外にない未成年者の発散行為は、ハラッサーの凶暴化を促進させ、結果的に発散前以上に居場所を縮小されるという非生産的な結末を迎える危険性を多分に含んでいます。本来家庭に備わっているべき自身の居場所という前提、しかし未成年者の彼等には居場所が存在しない。自宅という完全な敵陣の中で時が来るまで敵と過ごさなければならない現実、そして報復や鎮圧が明確に予測できる敵の射程範囲内で発散を行うことの無謀さ、そんな環境の中で吐き出し作業なるものが成立するはずもなく、結果、彼等は感情を隔離して無気力に生きるか、自傷行為に走るか、薬物依存に陥るか、家庭外で他者を傷付け負の連鎖を引き起こすか、そういった形で自己を防衛する以外になくなってしまう。そして感情隔離で無気力に陥った結果、健全な精神の発達は阻害され、人間関係の構築に支障を来たし、最終的には、不登校や引き籠りといったケースへ、自傷行為から自殺へ、家庭外の発散から苛め、校内暴力、少年犯罪へと現代日本の社会現象へと見事に発展していきます。更には、引き籠ることを許さない親や理解のない教師であれば、彼等はいよいよ逃げ場を失くし自らの命を絶つか、あるいは人を殺傷するという事態に陥っていく可能性も十分にあるでしょう。極め付けは追い詰められた結果の犯罪か、家庭外での発散がエスカレートした結果の犯罪か、プロセスはどうあれ司法は彼等に「精神的未成熟」「人格障害」「素行不良」「誤った信念」等のステレオタイプな解釈を以て、「健全な青少年に更生する為の訓練」と称した実質刑罰と大差ない少年院送致か、あるいは検察官送致(少年刑務所)という決定を下す。当然、吐き出し作業を許されなかった彼等に、自身が傷付けた被害者感情の理解や反省、懺悔、償い等といった行為が可能なはずもなく、結果彼等は更生するどころか、親への憎悪に加え理解のない社会への憎悪までをもその胸中で膨張させ、一般的に言う、(より完全な)社会悪となって再び世界に戻って来ます。そういった逃げ場の存在しない苦悩や暴発の可能性と共に敵陣の中で日々を送る以外にない彼等が、一体どうやって吐き出し作業及び自分らしい感情表現を実現できると言うのか?僕が出会ってきた人間は「吐き出し作業が不可能ならば、一刻も早く自立する以外にない」そういった無難な手法を用いて論点をずらすパターンが多く根本的な「解放」を直視した回答は圧倒的少数でしたが、対人恐怖や人間不信を抱えた彼等に、発散やケアという必須プロセスを無視して「労働」という人間関係を要求することは優先順位を履き違えている上、甚だ困難なことと言わざるを得ないし、それ以前に自立という解決策は、物理的な居場所を手にし敵の攻撃を回避する意味において機能しても、すでに受け終わった攻撃への憎悪を発散する意味においては何等機能しません。自立によって物理的な居場所を得た人間が、復讐を実行できず、蓄積された感情を処理する場所も持てぬまま日々苦悩している現実が、十分にそれを物語っていると言えるでしょう。そして、発散対象を持てなかった結果、その感情の矛先は将来配偶者や子供といった最も身近な人間に向けられ、居場所を奪われた自身が今度は居場所を奪う側に回るという世代間連鎖が発生することになります。(連鎖の阻止を試みる人間もいますが、吐き出す対象を持てないまま連鎖の阻止を試みれば、相手の居場所を奪わない為に再び感情の抑圧と隔離を繰り返しざるを得なくなり、結果ストレスによる精神疾患の発症、あるいは臨界点に達し大惨事を引き起こすという結末にもなりかねないように思います。)吐き出し作業は、精神に支障をきたさない程度に蓄積し、その都度こまめに合法的手段を用いて発散していくことが理想ですが、敵陣において吐き出すことを許されなかった結果、合法的手段では吐き出しきれないレベルにまで膨張した憎悪は、「吐き出すことすなわち自身の人生の破滅を意味する」以上行き場を失くします。環境上、微小な怒りを吐き出し続けることが可能だったのであれば、全ての人間は極めて平和な吐き出し作業によって「自分」を奪還できた、しかしそれが不可能な環境にいる人間、あるいはいた人間は、どうやってその計り知れない憎悪を吐き出し、自己を奪還すればいいのでしょうか?受け止め手の存在に関しても問題はあります。受け止めるという行為は、皮相な同情憐憫により成立するものではなく、同じ苦悩や痛みを所持した人間との出逢いと理解、支えによって成立するものですが、同類の人間であるがゆえに、相手を受け止めるだけの余裕があるどころか、受け止め手を求めギリギリの状態で苦悩しているのが現実で、結果互いの苦悩に共感することは可能でも、十分な支え合いの実現は非常に困難なものとなるように思えます。そして頻度の問題。肉体的な病を完治させる為に必要な飲み薬の頻度、学問やスポーツにおいて上達する為に必要な学習練習の頻度、あらゆるものには達成や実現、習得するのに必要な頻度というものがありますが「受け止め」にしてもそれは例外ではありません。(しかし受け止め手の厄介なところは、同じ精神問題の解決法の中でも投薬治療や芸術療法等とは異なり、対象が人間であることにあります。)自身に必要な頻度を必要なレベルで必要な時間確保するというのは相手が人間である以上、極めて困難だし、それを実現する為には、自身やその家族の生活、その他大勢の受け止め手を渇望する人間を犠牲にしなければならない。多数の受け止め手を利用することで、受け止め手の負担を分散し、且つ必要な頻度を満たすことも理論的には可能ですが、それでも受け止め手に必要なレベルを考えれば(特に世代間連鎖や蓄積されすぎた憎悪の発散というテーマに関して専門的知識や実体験を持ち、問題解決に向き合うだけの人格を持った人間は僕が知る限り極めて少数です)、絶望的な人間は少なくないはずです。そして最後に経済的な問題。身近な人間が協力的且つ受け止め手として機能する場合は、経済的負担が深刻な問題とはならない場合もありますが、そうでない人間にとって受け止め手の確保は膨大な出費を強いられる非常に深刻な問題です。(たとえばカウンセリングは一般的な手段として認知され多くの利用者がいますが、保険が適用されないこともあって、十分な頻度を確保するどころか、利用すらできない方も多いのが現実であり、結果そうした人間は保険適用内の精神科、心療内科等で処方される精神薬に甘んじる以外なくなってしまう。)そうした発散も受け止め手の確保もできない人間は如何にして自己を奪還すればいいのか?自由な感情表現、自己の奪還、誰にとっても理想ではあります。しかし、それらを実現する為のプロセスとして通過すべき吐き出し作業が、合法的手段では発散不可能なレベルにあることによって非常に困難な人間、対象であるハラッサーとの戦力差が著しい人間、受け止めての存在が不足している現実、経済的負担の側面から、十分な質を持った受け止め手を十分な頻度で確保できない人間、あるいは確保そのものができない人間、今まさに暴発寸前の人間や限界に達し自らの命を絶とうとしている人間、明日にでも限界に達するであろう人間、そういったタイムリミット間近の人々はいかにして自己を奪還すればいいのか?こんなことを書いている僕も巨大な憎悪と怒りを抑制する為に膨大なエネルギーを日々消費している人間の一人で、吐き出し作業は満足に行えていないのが現状です。なぜか?吐き出し作業を行えば親を確実に殺し、社会への復讐を確実に実行するであろうことがよく解っているからです。

 
    
 
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