裁判員制度に反対です
「私は常識があるから人を裁くことができる」
裁判員に選ばれたらどう思いますか?という質問に対して、上記のように答えた人がいたことを新聞で知った時、これは怖いと思いました。こういうことを自信を持って言ってしまうことのできる、この人の無知が恐ろしい。
このままでは、裁判員制度は日本社会に深い爪痕を残すでしょう。後で気づいたときに、永山則夫のように「無知の涙」を流しても遅いのです。間違って人を裁いてしまった罪は帰ってきません。その人の失われた時間も戻すことはできないのです。
犯罪も含めて全ての現象は、人の社会がどこかおかしいことを示すサインです。そのサインは、取りも直さず自分自身に生き方の見直しを迫ってきます。しかし、我が身を振り返ることなく、人を裁いて終わりにした場合、社会はそこから何も得ることができません。この「我が身から切り離す」姿勢が、日本をここまでおかしな社会にしてしまったのです。
★「真実を明らかにする場」ではなく「人を裁く場」----------------------
そもそも裁判とは何でしょうか。
人を裁く場ではなく、「真実を明らかにする」ことが第一義のはずです。
仮にあなたがカウンセリングを受けようとしたときに、カウンセラーの隣に赤の他人がいたら、あなたは心を開くことができるでしょうか。
また、カウンセリングをしていて実感するのは、人を動かしているのは意識している自分ではなく無意識であるということです。その無意識に気づいたときに初めて人は反省し謝罪し、自分を変えることができます。ですから、無意識に気づく導きをしなければ真実にも到達できないし、本当の解決にもならないのです。
裁判とは真実を明らかにする場。
真実を知るためには、心を開かせ、共に無意識を探る協力が必要。
心は安心と信頼がなければ出てこない。
―このように見てきますと、真実を解明するに当たってもっとも大切なことは、当事者の心が安心できる環境を提供することです。人も環境。カウンセラーなどの「心の専門家」こそが必要なのです。
現在、離婚裁判にせよ他の事件にせよ、法律の世界から心理学の世界ははじき出されています。「全ての現象は心の現れ」だというのに。たとえば、家裁の調停委員や調査官に「家族相談士」を任命するだけで、どれほど多くの人が救われることかと思います。
結局、表象しか見ないために、信じられない裁判結果がなされていますし、そこに素人の裁判員が介入すれば混乱に拍車をかけるだけでしょう。あるいは、裁判におけるアリバイ作りに利用されるだけでしょう。国民はどこかに後ろめたさを抱えつつ“共犯者”として生きていくことになります。そこに幸せな国の姿はありません。
いずれにせよ、真実を明らかにするという場から遠ざかっていくことは確かだと思います。
★事実+自白だけでは真実に到達できない--------------------------------
私は、自分が無意識に持っている「人生脚本」に配偶者や我が子を巻き込んでいる事例を、実際の家族カウンセリングの現場で沢山見てきました。身内が刑務所や少年院に行かれている家族もあります。その背景に親の人生脚本の問題があった場合、果たしてどのように裁くのでしょうか?
「事件」と名がつくと“特殊”に見えますが、実は私たちも気づかないままにどれほど身内を追い詰めていることでしょう。互いにその状況に気づかないままに、心が爆発して「なぜ?」と疑問を発したまま事件になってしまうのです。そこを解き明かすためには、本人も関係者も気づいていない深層心理に迫る必要があります。事実+自白だけでは到達できないのです。
ですから、私は、裁判員制度に反対です。
むしろ、カウンセラー(心の専門家)が真実を導き出すお手伝いをし、法律家(検事や弁護士)が現実的量刑を決めるという協力をすることが必要だと思っています。
精神鑑定や矯正の場面で心理専門家が登場するのではなく、むしろ真実を明らかにする最初の場面でカウンセラーに対応させるべきと思います。
<続く>
・おわりに~裁判のあり方について
・「仮面の家」を、あなたは裁けますか?
・加害者心理が分からなければ被害者は人生を再スタートできない
・光市母子殺害事件死刑判決に思う
・離婚裁判の現状
・誰だって失敗はあるんだよ。恥ずかしくないよ
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