教育行政のなぜ?(1)~「ゆとり教育」失敗の本質的理由
日本の学校教育の方針は、約10年ぶりに「ゆとり教育」から「言葉の力」教育へと転換される。この方針転換に基づいて、各教科の教科書の内容や授業時間数などカリキュラムの中身が変わる。
♪きっかけは~『国際学力調査』!(04年12月公表)
読解力や記述式問題に課題があることが分かり、慌てた中教審は1年かけて論議。『確かな学力を形成するための基盤』として、すべての教科の基礎に「言葉の力」を置くことにした。…
1999年、詰め込み教育で問題が多発したことからゆとり教育で「生きる力を育む」ことへと方針が転換された。
目的は、「生きる力を育む」こと。
手段は、『学習内容の3割削減』『学校完全週休2日制』でゆとりを生み出し、そのゆとりを活用すること。
活用のために新設されたのが「総合的な学習の時間」だった。
しかし、そもそも「生きる力を育む」のは教育ではなく家庭と地域社会の役割。特に父親が家庭や地域に関わらなければ達成できない目標だった。「総合的な学習の時間」も地域の協力無しには充実し得なかった。
大企業で人事をやっていた私は、父親が属する企業社会の過労働の問題を放置し、学歴・学閥を重視する企業の採用姿勢を変えないままに達成できる目標ではないなぁ、と学卒・修士・博士の採用をしながら、36協定の管理をしながら、そして出世の社内メカニズムを見ながら思っていた。
①閥で出世するために、親は学歴・学閥を子に求める。
②学歴・学閥競争に勝つために詰め込み教育はなくならない。
③その競争に勝つための“訓練”は、母親と学校と塾に任されていて、父親は出世競争に明け暮れている(→①へ)。
この無限ループ(循環)はしっかりと存在していたのだ。
「生きる力を育む」のであれば、先ず父親のあり方、その父親を支配する企業社会のあり方にメスを入れなければならなかった。が、その現実を無視して方針は転換された。
そして、「生きる力を育む」という“予め喪失している目的”に向かって、『3割削減』や『週休2日制』という手段が整備されるという“日本得意のお家芸”が強行された。
目的と手段が転倒した中で生きている現代日本社会においては、この現象は国レベルから個人レベルまであまねく見ることの出来る病理だ。
サラリーマン諸氏は体験的にお分かりのことと思うが、達成できない目標や反対できない大義名分を掲げて、“現実”にとって有効ではない対策を実行することは“日常的”に見られることである。
当然それらの対策は失敗に終わるのだが、やっている最中はやっていることがアリバイとなって、面倒な根本原因、本質的原因の改革に立ち向かわなくてすむ。
結局、それらの対策は、悪しき現実を延命させているイネイブラー(維持、支え役)であり、そういう安易な対策に走ることが組織改革の最大の妨げになることが、実際に組織改革をやってきた私にはよく分かる。
そして、それら小手先の改革をいくら行っても、抜本的な対策を行わなければいずれ崩壊してしまうことは15年かけて沈んでいった山一證券が証明している。
「臭い匂いは元から絶たなきゃダメ」なのだ。
小手先の対策となってしまった「ゆとり教育」は当然ながら成果を上げることが出来ず、「学力低下」を招いたというきわめて短絡的なレッテルを貼られて姿を消すこととなった(なぜ、学力低下を招いたのかについては次項)。
しかし、思い出してみよう。「ゆとり教育」に転換する直前の学校は既に「魂なきシステム」のお化けになっていた↓
『タイの「ネーション」誌は、『日本の教育は模範にならぬ』(97.6.14 朝日新聞)と題して、日本の教育の現状を次のように伝えています。
「日本では、まさに学校が生徒を殺している。学校は子どもらにとって生き地獄と化している。日本の教育制度は、生徒の人権よりも校則を大事にする先生を作り出したようだ。機械的な記憶や厳しいしつけは工業化に都合のいい労働力を生み出すかもしれないが、現代、生徒に求められるのは批判的かつ創造的に考える能力である。この点で、日本の教育制度がアジアに提供できるものはほとんどない」』
【「あなたの子どもを加害者にしないために」より転記】
その背景には、上記無限ループでみたような徹底した「分業・競争システム」の行き詰まりがあった↓
『学校が荒れるのは、現代の枠組みにおいては、そこが社会的弱者を収容する場であるからです。そういう意味で、荒れる子どもたちは、工業社会に最適化した分業・競争システムがいびつであることを身体を張って訴えているIPと言えます。
そのことを、現場の中学校の教師が次のように投書で表していました。
「生きる場所」をなくした子どもたちはこの二〇年間、校内暴力、家庭内暴力、いじめとさまざまな形で叫び声をあげてきたのに、私たち大人は決して本気になろうとしなかったのではないか」(97.07.06 朝日新聞投書「追いつめられ心壊れた子ら」)』
【「あなたの子どもを加害者にしないために」より転記】
*IP(インデックスパースン)とは、「指標となる人」。「炭坑のカナリア」のような役割をするような人のことである。坑道のカナリアは有毒ガスに触れるとパタッと倒れ、身をもっていち早く人に危険を知らせてくれる。人はその様子を見て避難する(行動を変える)。
このように10年前に、子ども達の代弁者として『現場の中学校の教師』が上げた悲鳴―その悲鳴に答えるために、「ゆとり教育」は導入されたのではなかったか。
その方向性は間違ってはいなかった。
ただ、その本来の目的である「生きる力を育む」ためには父親を家庭に戻さなければならなかった。父親の働き方、ワーク・ライフバランスこそが本当の問題だったのである。ゆとりが必要だったのは父親だったのである。
しかし、「分業」と「競争」を是とする価値観で国全体が動いているため、「分業」により父親は教育の問題に関わることから責任を免除されていた。そして、父親は何のために走るのかわからない馬のように、ただ競走させられていた。
「ゆとり教育」失敗の背景にあるのは、「生き方」の問題を「教育」の問題に矮小化してとらえたことにある。
そういう意味で、子ども達のあげる叫び声に『私たち大人は決して本気になろうとしなかったのではないか』という10年前の中学校教師の訴えは、10年後の今もまだ解決されていない。
“大人”って誰?
ビジネス社会に生きるお父さん、あなたです。
父親は、家庭や学校や地域に「本気」で向き合わなければならないのだ。
・教育行政のなぜ?(2)~「ゆとり教育」が「学力低下」を招いたメカニズム
・教育行政のなぜ?(3)~見守るが、干渉しない
・教育大国ジパンでの生涯
どうなる学習指導要領!?
どこのテレビ局も、トリノとご懐妊の話題ばかりで、sabi的には少々たいくつ気味。しかし、ちちんぷいぷいをひさしぶりに最初から見ていたら、いきなりのっけから、学習指導要領の話が出てきた。これは必見である。文部科学省が、次期学習指導要領の柱(基本的な理念)として ...