第1部-3、“関係性”の視点で問題を見る
2009/02/06(Fri) Category : 仮面の家
第1部 家庭内暴力息子刺殺事件
■3、“関係性”の視点で問題を見る
事が起こると、その事件の渦中にある中心人物にのみ焦点が当たるのが、これまでの考え方の枠組みでした。そのため、「長男の評価」を中心において2つの判決が出たわけです。評価は2つに分かれましたが、いずれも長男を中軸においていることに変わりはありません。
が、これで法的に決着がついたとしても、何も解決していないのではないでしょうか。単体としてのその個人の内面に踏み込むだけではなく、その個人をそこまで追い込んでいった環境との関係を探っていかなければ、本当の解決にはいたらないように思います。裁判の結果だけでは何も見えてこなかった―だからこそ、新聞記者横川和夫氏は取材を続けたのではないでしょうか。
さて、どの人間にとっても生まれたときから与件として与えられているのが「家族」という環境です。無垢な赤ん坊のときから、無防備にその環境の中に放り出されるわけですから、両親の影響力は時として絶対的なものとなります。子供がどのように育ったか―そこに関して、責任をまぬがれる親はいません。
つまり、親がどのような姿勢で子供に向かっているか、が大きく問われるのです。そのことを念頭に置きつつ、再度前節でみた評価の問題を冷静に見てみましょう。
●先ず、単純に見てみましょう。
事件直前の時点を輪切りにして捉えてみます。すると、長男は
外にいるとまともで、
内にいると暴れます。
外に対しては、挫折を繰り返しながらも乗り越えるパワーを見せた(=思うようにしてきた)長男。
が、親は、“思うようにならない事を親のせい”にして荒れたと言います。内弁慶の甘えん坊が外のストレスを内で発散しているような言い方を親はしています。もちろん、そういう見方もできます。が、回答を急がずに慎重に考察してみましょう。
同じ人間が、内と外で違う顔を見せる。
内と外で違うのは、その人を取り巻く環境(人)の違いだけです。
外で荒れないという事は、外に対して文句はない。
内で荒れるという事は、内に対しては文句がある。
というとらえ方もできます。
その荒れる言動の中に、親に対するメッセージが隠れているかもしれません。
-----------------------------------------------------
●次に、時系列的に見てみましょう。
汚点のない中学時代から23歳に至る経過の中で、とにもかくにも外とは何とかやっています。しかし、内との関係はどんどん悪くなっていきます。
変化する外の環境とはなんとかやっていますが、
変わらない内の環境とのあいだで確執が深まっているのです。
さぁ、いろいろと観点が出て参りましたね。
このブログは家族療法の根幹であるシステムズアプローチを基本に置いています。その上で交流分析を用いています。従って、その観点から考察を進めていくことをご承知おき下さい。
このブログを読まれ、あるいは「子育ての心理学Basic」を学ばれた方は、生後10年ほどの間に、親の影響下で無意識のうちに人生脚本が出来上がっていくことをご理解されていると思います。そして、その後は脚本に従って人は生きていくことを。
この悲劇的な実話は、次の2つの思い出しながら取り組まれるとよくわかると思います。
1,父親の「人生脚本」がどういうものであったかという観点
2,家が「安全基地」であるか「危険基地」であるかという観点
では、この父親の脚本は、どういう脚本だったのか。
そして、どこでどう書き換えなければならなかったのか。
そして結局、「なぜ我が子を殺さなければならなかったのか」。
是非、一度「仮面の家」を読んでみてください。
<しばらく置きます…>
■3、“関係性”の視点で問題を見る
事が起こると、その事件の渦中にある中心人物にのみ焦点が当たるのが、これまでの考え方の枠組みでした。そのため、「長男の評価」を中心において2つの判決が出たわけです。評価は2つに分かれましたが、いずれも長男を中軸においていることに変わりはありません。
が、これで法的に決着がついたとしても、何も解決していないのではないでしょうか。単体としてのその個人の内面に踏み込むだけではなく、その個人をそこまで追い込んでいった環境との関係を探っていかなければ、本当の解決にはいたらないように思います。裁判の結果だけでは何も見えてこなかった―だからこそ、新聞記者横川和夫氏は取材を続けたのではないでしょうか。
さて、どの人間にとっても生まれたときから与件として与えられているのが「家族」という環境です。無垢な赤ん坊のときから、無防備にその環境の中に放り出されるわけですから、両親の影響力は時として絶対的なものとなります。子供がどのように育ったか―そこに関して、責任をまぬがれる親はいません。
つまり、親がどのような姿勢で子供に向かっているか、が大きく問われるのです。そのことを念頭に置きつつ、再度前節でみた評価の問題を冷静に見てみましょう。
●先ず、単純に見てみましょう。
事件直前の時点を輪切りにして捉えてみます。すると、長男は
外にいるとまともで、
内にいると暴れます。
外に対しては、挫折を繰り返しながらも乗り越えるパワーを見せた(=思うようにしてきた)長男。
が、親は、“思うようにならない事を親のせい”にして荒れたと言います。内弁慶の甘えん坊が外のストレスを内で発散しているような言い方を親はしています。もちろん、そういう見方もできます。が、回答を急がずに慎重に考察してみましょう。
同じ人間が、内と外で違う顔を見せる。
内と外で違うのは、その人を取り巻く環境(人)の違いだけです。
外で荒れないという事は、外に対して文句はない。
内で荒れるという事は、内に対しては文句がある。
というとらえ方もできます。
その荒れる言動の中に、親に対するメッセージが隠れているかもしれません。
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●次に、時系列的に見てみましょう。
汚点のない中学時代から23歳に至る経過の中で、とにもかくにも外とは何とかやっています。しかし、内との関係はどんどん悪くなっていきます。
変化する外の環境とはなんとかやっていますが、
変わらない内の環境とのあいだで確執が深まっているのです。
さぁ、いろいろと観点が出て参りましたね。
このブログは家族療法の根幹であるシステムズアプローチを基本に置いています。その上で交流分析を用いています。従って、その観点から考察を進めていくことをご承知おき下さい。
このブログを読まれ、あるいは「子育ての心理学Basic」を学ばれた方は、生後10年ほどの間に、親の影響下で無意識のうちに人生脚本が出来上がっていくことをご理解されていると思います。そして、その後は脚本に従って人は生きていくことを。
この悲劇的な実話は、次の2つの思い出しながら取り組まれるとよくわかると思います。
1,父親の「人生脚本」がどういうものであったかという観点
2,家が「安全基地」であるか「危険基地」であるかという観点
では、この父親の脚本は、どういう脚本だったのか。
そして、どこでどう書き換えなければならなかったのか。
そして結局、「なぜ我が子を殺さなければならなかったのか」。
是非、一度「仮面の家」を読んでみてください。
<しばらく置きます…>