教育行政のなぜ?(3)~見守るが、干渉しない
それは、コントロールするな、ということだ。
フィンランドという国がある。かつては日本と同様に国が教育を牛耳って行き詰まっていたフィンランドは、「国はカネを出すが口は出さない」方針にすっぱりと切り替えた。
分厚かった指導要領はパンフレットのように薄っぺらいものになった。教科書検定もない。責任を持たされた現場は頑張り、今や見事世界のトップを走っていることはご承知の通りだ。
国は、国民を信じたのだ。
上からコントロールしようとするとどうなるか、その一つの例が前回書いたB小に現れていた。押しつけられることは誰しも嫌だ。押しつけられれば、なるべくやりたくないので抜け道を探すのは人情だ。
そこを押しつけようとすると、必ず一方で最低限言われたとおりにやっておけばよい、という対応を取る者が出てくる。こうして、「ゆとり」押しつけの結果、全体的に見れば学力が低下したわけだ。
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では、「ゆとり」ではなく他のより厳しいテーマでコントロールすればよいのだろうか。
それは、戦前の日本や現代の北朝鮮を見ればよい。
上が支配(コントロール)しようとする限り、上へ合わせるための無駄なエネルギーが必ず出てくる。北朝鮮が人をコントロールするための壮大な相互監視の仕組み。そこに莫大なエネルギーが必要であるため経済はガタガタである。
上から方針を押し付けると、人の目は現場ではなく上を見る。
そして、肝腎の現場は死んでいく。
何かの方針を強制するときに人が精神的に死んでいくのは、家庭であれ、学校であれ、会社であれ、国家であれ、同じ原理なのだ。押しつける内容の問題ではない。それが、「ゆとり」であれ、「ボランティア」であれ、「言葉の力」であれ、押しつけること自体が悪だということを肝に銘じなければならない。「一律」の怖さを本気で想像してほしい。
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97年当時、次のような教師からの投書が朝日新聞に掲載された。
『九月の職員室の机の上は「心の教育」を説く印刷物であふれるだろう。この間までは「生きる力」であった。その前は「?」』
『研究発表を勲章のように思っている管理職が多い。子どもと過ごす時間をもっとたっぷりとほしい。同僚とももっとゆっくりしゃべりたい。すべての原点をここからスタートしてほしい』
これが、真摯な現場の声だ。
つい最近も、小学校の先生から話を伺った。
先生を管理するシステムがそこまで行き渡っているのか! 私は驚いた。彼女は11人しか生徒がいないからそれが出来る、と言った。私は、11人でもそれは出来ないと思った。自分が管理されるためにそれだけの時間を費やすのならば、生徒に向き合っていたい―痛切にそう思った。
うつになったり自殺した教師の話も出た。あぁ、社会システムは加速度的に病んでいる。環境が病んでいるから、病む人間が出る。当然のことだ。
家族カウンセリングで伺っているご家族の病も同じメカニズムだ。
子を弄繰り回し、病になり、それを是正しようと更に弄繰り回し…
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人が生きていく上で育まなければならない能力は、ただ一つ。
「選択の能力」だ。
なぜなら、選択の連続が人生だからだ。
そして、「選択の能力」は、その人が“選択できる環境”になくては育むことができない。レールが一本しかしかれてなければ、選択のしようもない。選択しようのない環境を突っ走っていると、「生きる力」は失われていく。
だから、「選択の能力」を身につけさせるためには、その人を信じ、その人が自らに合ったものを選び取っていくことを「干渉せずに見守る」こと。これが「人を育てる」唯一の処方箋なのである。
教育は人を育てるためにするものだ。
ならば、教育に必要な姿勢はただ一つ。
「見守るが、干渉しない」だ。
教育はこの二つの原則を堅守していくしかない。
教育のゴール(目標)は、「選択の能力」を体得すること。
教育の姿勢は、「干渉せずに見守る」こと。
この姿勢は、親も、教師も、国も貫かなくてはならない。
国として人を育てる機関が文科省であるならば、文科省がとるべき“姿勢”は次の2つしかない。
「国は金は出すが、口は出さない」
「全ての権限(選択)は現場に任せる」
日本人を信用してほしい。
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小さい政府と言いながら、なぜ、国は権限を手放さない。
フィンランドという国を調査し、成功事例を目の当たりに見ながら、なぜ、手放さない。
私は、会社という現場にも、家庭という現場にも、教育という現場にも接している。話を聴き、垣間見ている。
国のお役人よ、視察ではなく現場を垣間見よ。
そして庶民の話を聴け。
今回の指導要領の改訂。
『学力低下を招いたと指摘を受け』て現行指導要領が変更されるわけであるから、『詰め込み教育には回帰しない』と言いながら、学力向上を目指すものになるのは間違いない。
国語では音読・暗記・要約、理数ではデータのグラフ化、仮説実験、芸術では感性表現―また、分厚い指導要領が作られるのであろうか……