荒川静香 3:荒川静香と滋賀園児殺害容疑者
同時期に起こった滋賀園児殺害事件。園児の送迎について意見や要望が出ていたにもかかわらず、園は“市の方針”ということで見直しをしなかった。
この2つの事は、私にいろいろなことを考えさせた。
「見守るが、干渉しない」で教師の窮状を書いたが、日本は「干渉して管理する」やり方が、当たり前のようになされている。『上から方針を押し付けると、人の目は現場ではなく上を見る。そして、肝腎の現場は死んでいく』
人々は、方針に従うよう「方針管理」され、成果を上げるよう「目標管理」され…「社会が家族を追いつめている(不登校編)」や「自殺―組織が個人を追いつめている」で見たように、人を病に、果ては自殺にまで追い込んでいる。
園児殺害事件で海外のメディアは日本社会の閉鎖性を挙げているようだが、それは“外人”に対して閉鎖的なのではない。日本社会自体が閉塞的になっている。すでに日本人が日本人を追い詰めているのだ。
というか、個々人が“生存競争”に汲々として余裕を持てなくなってきている。うつになる人や自殺する人が身近にでても、どうしようもない―自分を守るために自分の中に引きこもる人が増えている。
上から方針が押し付けられ、それに従わなければ見捨てられ、見捨てられたくないので過酷な目標に向かって身を削り、相互に思いやる余裕はない…そういう中で、みながみな、孤独な闘いを強いられている。つまり、鄭容疑者が日本人であっても十分に起こり得た事件だったと思うのだ。
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今や、どの地域、どの業界、どのような立場にあろうとも、この過酷さは変わらないことを家族カウンセリングを通じて実感している。では、荒川選手と鄭容疑者は何が違ったのか?
荒川選手には、荒川静香の良さを全面的に認めてくれる理解者(コーチ)が傍にいた。
鄭容疑者には、相談できる相手がいなかった。自分を認めてくれる人もいなかった。
『強さというのは個性じゃない。状況によって、誰でも強くなったり弱くなったりするからね。よく自信を持てなんて言うけど、自信は自分一人でつけられるものじゃない。周囲の評価によって自信をもらったりペシャンコになったり、そういうもんだ』
【「あきらめの壁をぶち破った人々」より】
荒川選手が最初から強く、鄭容疑者が最初から弱かったわけではない。
社会が自信を剥奪していったのである。
その上、幼稚園は「市の方針」だとして、現場から聞く耳を持たず、上から一律に方針を押し付けた。
押し付けられた方針の中、「現場が犠牲」となった殺人。
押し付けられた方針を跳ね返して「現場で選択する」ことにより生まれた金メダル。
同時期に起こったこの2つの出来事は、私たちに何らかのメッセージを伝えているのではないだろうか。