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京都で感じたこと(2)―欲と不安

2009/05/01(Fri) Category : 旅行記
歩いて東寺へ。
平安京の面影を残す唯一の寺。
奈良仏教の勢力を抑えるため、平安京に置かれた国立寺院は朱雀大路を挟んで東西に設置された東寺と西寺のみ(現在の京都は随分東にずれているんだね)。

先ずは、宮本武蔵が吉岡一門との決闘後に身を隠したといわれている観智院へ。
kyoto20090427-toji4
五大虚空蔵菩薩像や愛染明王像、彩り豊かな四季の図など見所は多いが、なんといっても襖に描かれた水墨画に惹かれた。

武蔵が描いたといわれている鷲の図。
嘴や爪など鋭い曲線に迷いがない。
竹林の図も武蔵が描いたそうだが、力強い曲線を多く使う人だったんだ…。





観光客も少なく、静かな間をじっくりと見ていく。
次の間の襖絵は、海辺の断崖とそこにある寺院
二枚続きの襖の右手に目をやると、ふと気づいた

海上に雁が帰るの図
左右合わせて月に雁
一挙に、タイムスリップした感に襲われた

雁の群れが、穏やかで郷愁を誘う旋律を奏でている
ゆったりと時が流れる静かな世界

あぁ、この風景の中に佇みたい










外に出る。
その昔の情景を彷彿とさせるたたずまいの五重塔。
kyoto20090427-toji2




古塔の中では、最も高いそうだ。
kyoto20090427-toji1




圧巻は立体曼荼羅
空海(弘法大師)が悟った宇宙を立像で表現している。


ここに来て初めて言葉の意味を知った。以下ちょっと意訳だが―

如来:悟りを得たもの。「如」(真理・ありのまま)「来」る。
菩薩:悟りを求めるもの。衆生を実践的に救うこと=修行であるもの。
明王:悟らせようとするもの。忿怒の相を持つ。

<六道>
天  :仏法(宇宙の法則)を守護するもの。
人間:六道のどこにでも行ける「間」にいるもの
修羅:怒り
畜生:愚痴
餓鬼:貧欲
地獄:苦

人は、この3次元という修行場で上記六道をグルグル巡っているわけだ。なるほど、「六道輪廻」と言っても生まれ変わるという意味ではなく(もちろんその意味もあろうけれど)、その時々の心のあり方によって、上記のどこかにいるということなんだ―と、家族カウンセリングを通じて実感している私には腑に落ちた。

上記のどの状態に自分を長く置いておくのか。
怒りの中に棲んでいれば修羅道、
愚痴をこぼしてばかりいれば畜生道、
貪欲に損得ばかり考えていれば餓鬼道
ということなのだろう。

どの道を行くのかは、その人次第だ。

この輪廻の世界から解放されることを解脱という。
「煩悩」を手放すことが解脱に向かう道だ。
その煩悩の根源が、怒り、愚痴、貪欲の3つ(三毒)らしい。
中でも愚痴(物事の正しい道理を知らないこと)が、煩悩の根本らしい。

なるほど、と思った。


たとえば、
世代間連鎖の仕方をしっかりと理解すれば、迷いが晴れる。
そして、自分の内部に棲む敵が見え、闘うことができる。
あとは、3次元の世界で感情も実在しているから、その感情を認知し表現してあげれば「衝動」から解放されていく。

実際、この方法で修羅界、畜生界、餓鬼界(←以上全て含めて私の言葉ではハラスメント界)から抜け出された方は多い。




-----------------------------------------------------
もう一つ感じたこと。
これまで、人は「欲」を元に語られることが多かった。
フロイト以来の心理学にしても、宗教においても人の欲が敵視され、逆に市場経済では欲が利用された。いずれにせよ、「人」と「欲」が不可分に語られていた。

が、私にはどうもピンと来なかったのだ。
人って、そんなに欲がある? そう感じていた。

むしろ私が体験的に感じるのは、「不安からの逃走」である。
自分の存在不安を見たくないが故に、時間を埋め、空間を埋め、心の空洞をヒトやモノを支配することで埋めようとしている。上記三毒も、親から愛されなかったこと、存在不安を持つ親から支配されたことがその根底にあるように思う。



親から愛され満ち足りている人は、最初からありのままでいられる(=如来)のではないか。だって、いろいろな宗教が語っているように、元々人は神の似姿なんでしょ? 「愛」を体現するために、この肉体があるのだなぁ、と思ったこともあるし。

ま、そういう人は極めて希なのでね。
特に、現代欠乏欲求に根ざす文明では。
欠乏欲求文明の最先端を行くアメリカでは、生まれて間もなくから赤ん坊を一人で寝かせようとする。欠乏欲求文明を維持する仕組みがうまくできているなぁと思う。そして、自分から逃げ続ける人達のために文明は機能していると思う。



人はそれほど欲深ではないよ。



だから、資源争奪をせずに全人類が平和に暮らすことも夢の話しではないと思う。
ただし、それぞれの人が自分自身と闘うという、最も苛酷なことをしなければならないかもしれないけれど…。



You may say I'm a dreamer

But I'm not the only one


I hope someday you'll join us

And the world will be as one





John Lennon 「Imagine」






なかよくのんびり暮らそうよ…
kyoto20090427-toji3








ハグする文化の逆説的意味





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六道の上に

この六道の解釈は、、仏教を習った私からすると少し?な部分があります。
天は「喜ぶは天」といい、人生のひと時の喜びをいいます。
その上に
『声門』・・・「仏の声を聞いて伝える」いわゆる学問をしている生命状態
『縁学』・・・何かを研究し真理を追究する生命状態

この二つを合わせて、二乗といいます。

『菩薩』・・・利他の境地
『仏』・・・ご本尊に縁して以下の九界の生命状態を最高に価値ある方向へ幸せの方向へ持って行く、生命状態。

「天」が相対的な幸福なのにくらべ、「仏」は絶対的幸福境涯。

この四つを合わせて「四聖」ともいいます。

なので、六道輪廻だけではなく、もっと上の生命状態もあるのです。

また、一念三千ともいわれ、一念(一瞬)の間に三千回も生命状態が変わるほど、人間はくるくると変わっています。ただの一瞬も一定ではないのです。

と、仏法では説いています。

 
    
 
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