感覚の表現者 井上雄彦
2009/05/09(Sat) Category : 人物
【5/9朝日フロントランナーより:井上雄彦】
『熊本の美術館にこもって描いていると、僕自身の心まで闇に引きずり込まれそうになった。でも、行き着く先に光があることを確信できたからこそ、初めて具象で描けた闇なんです』(井上雄彦)
●身体で書く-----------------------------------------
『(剣道)の記憶は体に染みついていて、(略)対峙した相手の強さで変わる心理状態とか、足の運びや手の動きの感覚がよみがえってきました』
『ただ、それゆえの限界があって、最初はいかにもスポーツ的な剣道で武道の絵になっていない。だから、武道の体の動きを描きたい欲求が、ずっと満たされていませんでした。
2年前から沖縄の古流空手を習い始めて、武道の体の使い方について、やっと腑に落ちたんです。それが体の描き方の大きな分岐点になって、絵が変わりましたね』
●筆で描く--------------------------------------------
『筆で描くとそれが劇的に変わって、本来、直線などない人の体の柔らかさや、空気や湿気などといった、様々なニュアンスが絵に表れてきた。』
●人は宇宙-------------------------------------------
『一人ひとりの人間に与えられた体はそれぞれ、天然自然、あるいは宇宙全体の縮小版であって、その中に根源の真理がすべて内包されている』
●体を動かすことは自己との対話---------------------------
『体を動かすことは、隅々まで細かく体を知り尽くした上での、自己と体の対話だと考えるようになりました』
●自分の体に耳を傾けるということ--------------------------
『生まれながらに体の外からの雑音が全く入ってこない人は、常に自己の体と向き合っていることになる。その人の内面世界はひょっとしたらものすごい奥行きがあるんじゃないかという予感がしたわけです』
●死生観---------------------------------------------
『そこ(死)でブツッと切れるわけではなく、生と死が連続している』
■感覚を大事にして生きる(中村編集長)---------------------
『井上さんはどこまでも、そのときの「感覚」を大切にする。』
----------------------------------------------------
「スラムダンク」を描いた、あの井上雄彦氏でも心が闇に引きずり込まれそうになることがあるのか、と思った。
怖い間は、表現できない。
表現できるのは、その怖さと向き合える自分になったときだ。
だから、自分を信頼し切れていないとき、自分の心の蓋を開けるのが怖い。逆に言えば、それがどんなにおどろおどろしいものであっても、それが表現されたとき、そこから救いが始まる。
彼が光を確信できているのは、感覚を大事にして生きているからだろう。
まさに宇宙の縮図である肉体。
この肉体が、天然自然の宇宙であることを信じることができるからこそ、彼は光を信じることができるのだろう。
だから、体に問いかけることは、自己との対話であり、宇宙との対話ということになる。だから、体感に耳を澄ませる。
(これは、身体性をなくし思考偏重に陥って苦しんでいる現代人に対する一つのヒントだ)
彼は、体に問いかけ、感じたことを表現する人生を歩いている。
言葉にしろ、芸術にしろ、行動にしろ、自分の感覚を表現するために、彼はそれら全てを行っている。
知識や思考は、それらの感覚を表現するに当たっての「刺身のつま」でしかない。
彼は、生きるとはどういうことかを示していると思う。
知識や思考に振り回されるのではなく、感覚と感情で行動すること。
感覚と感情を表現して生きることこそが人生なのだと。
自分の心に従わずに苦界を彷徨った清原。
自分の心に従い既存の漫画の枠を越えようとしている井上。
なぜ自分が次々とこういう目に遭うのかと思っている方―もしかしたら、あなたは自分の心に従っていないことを逆境が教えてくれているのかもしれない。そこは自分のいるべき場所じゃない、と。
自分の心に従っていれば、井上氏のように進化し続けるのだろう。転変する心とともに。そして、常に心とともにあれば、自分のいる所が自分の居場所となるのだろう。
『熊本の美術館にこもって描いていると、僕自身の心まで闇に引きずり込まれそうになった。でも、行き着く先に光があることを確信できたからこそ、初めて具象で描けた闇なんです』(井上雄彦)
●身体で書く-----------------------------------------
『(剣道)の記憶は体に染みついていて、(略)対峙した相手の強さで変わる心理状態とか、足の運びや手の動きの感覚がよみがえってきました』
『ただ、それゆえの限界があって、最初はいかにもスポーツ的な剣道で武道の絵になっていない。だから、武道の体の動きを描きたい欲求が、ずっと満たされていませんでした。
2年前から沖縄の古流空手を習い始めて、武道の体の使い方について、やっと腑に落ちたんです。それが体の描き方の大きな分岐点になって、絵が変わりましたね』
●筆で描く--------------------------------------------
『筆で描くとそれが劇的に変わって、本来、直線などない人の体の柔らかさや、空気や湿気などといった、様々なニュアンスが絵に表れてきた。』
●人は宇宙-------------------------------------------
『一人ひとりの人間に与えられた体はそれぞれ、天然自然、あるいは宇宙全体の縮小版であって、その中に根源の真理がすべて内包されている』
●体を動かすことは自己との対話---------------------------
『体を動かすことは、隅々まで細かく体を知り尽くした上での、自己と体の対話だと考えるようになりました』
●自分の体に耳を傾けるということ--------------------------
『生まれながらに体の外からの雑音が全く入ってこない人は、常に自己の体と向き合っていることになる。その人の内面世界はひょっとしたらものすごい奥行きがあるんじゃないかという予感がしたわけです』
●死生観---------------------------------------------
『そこ(死)でブツッと切れるわけではなく、生と死が連続している』
■感覚を大事にして生きる(中村編集長)---------------------
『井上さんはどこまでも、そのときの「感覚」を大切にする。』
----------------------------------------------------
「スラムダンク」を描いた、あの井上雄彦氏でも心が闇に引きずり込まれそうになることがあるのか、と思った。
怖い間は、表現できない。
表現できるのは、その怖さと向き合える自分になったときだ。
だから、自分を信頼し切れていないとき、自分の心の蓋を開けるのが怖い。逆に言えば、それがどんなにおどろおどろしいものであっても、それが表現されたとき、そこから救いが始まる。
彼が光を確信できているのは、感覚を大事にして生きているからだろう。
まさに宇宙の縮図である肉体。
この肉体が、天然自然の宇宙であることを信じることができるからこそ、彼は光を信じることができるのだろう。
だから、体に問いかけることは、自己との対話であり、宇宙との対話ということになる。だから、体感に耳を澄ませる。
(これは、身体性をなくし思考偏重に陥って苦しんでいる現代人に対する一つのヒントだ)
彼は、体に問いかけ、感じたことを表現する人生を歩いている。
言葉にしろ、芸術にしろ、行動にしろ、自分の感覚を表現するために、彼はそれら全てを行っている。
知識や思考は、それらの感覚を表現するに当たっての「刺身のつま」でしかない。
彼は、生きるとはどういうことかを示していると思う。
知識や思考に振り回されるのではなく、感覚と感情で行動すること。
感覚と感情を表現して生きることこそが人生なのだと。
自分の心に従わずに苦界を彷徨った清原。
自分の心に従い既存の漫画の枠を越えようとしている井上。
なぜ自分が次々とこういう目に遭うのかと思っている方―もしかしたら、あなたは自分の心に従っていないことを逆境が教えてくれているのかもしれない。そこは自分のいるべき場所じゃない、と。
自分の心に従っていれば、井上氏のように進化し続けるのだろう。転変する心とともに。そして、常に心とともにあれば、自分のいる所が自分の居場所となるのだろう。