民主主義を守る土肥信雄元校長
2009/05/12(Tue) Category : 学校・教育・いじめ
【5/9朝日オピニオンより】
『土肥信雄 右は教育委員会の弾圧に負けず本校所定の課程を修了したことを証明する 58期卒業生一同』
-東京都立三鷹高校の教え子達が、定年を迎える土肥校長に卒業証書を贈った。
『教育が民主的でなければ生徒も民主的な考えをもてないし、国家も民主的になれない』という信念を貫いた土肥校長に対するお礼であり、これからの闘いに対するエールである。
1996年頃から文部省の指導で、日の丸掲揚・君が代斉唱が義務づけられるようになるが、1999年に広島県立世羅高校で板挟みになった校長が自殺したことをきっかけに、同年8月に国旗国歌法が成立。
(by Wikipedia)
掲揚・斉唱を巡って教職員と校長の対立が激化していた98年に、都教委は職員会議外資決定機関ではないことを明文化する規則改正を行った。ついで、文科省もそれに追随し、00年に学校教育法施行規則を改正し、職員会議を校長の補助機関とした。都教委はさらに06年、採決や挙手による意思確認をすることまでもを禁止した。
(by 朝日20090509)
『職員会議でも自由に意見を言ってほしい、ただし責任を負うのは校長だから、最終的な判断は僕がする』と述べる土肥元校長は真っ当である。
土肥氏は、学生時代に東大闘争にぶつかり、東大解体という主張に共感しながらも退学する勇気を持てなかった。
就職した商社で独禁法違反を知って上司に進言したが一蹴された。
この2度の挫折を経て、自由に発言できる職業として教員を選ぶ。
が、この世界でも98年に都教委が職員会議を校長の補助機関と位置づけた時、「悪法も法なり」という曖昧な態度をとってしまった。
そこへ、06年、都教委はさらに言論統制の追い討ちをかけた。
ここへ来て、土肥信雄氏はたった一人で「反乱」ののろしを上げた。
06年の都教委の通知の撤回を求めたのである。
報復として、『校長としては異例なことに』非常勤教員としての再雇用を認められず引退やむなきに至った。
『都教委は学校をピラミッド型の組織にして上意下達の徹底を狙っています。校長は上からの指示を素通りさせるだけのロボットになり、生徒と向き合うはずの教員も、生徒のことより校長の顔色をうかがうことになる』
『本当はピラミッドの頂点にいなければならないはずの生徒が、最もボトムに置かれてしまうのです』
頑張れ!
土肥信雄校長!
何ごとも、
押し付けるな!!
押し付けられなければ嫌悪しないものを、押し付けられるから嫌悪する。これは、あらゆることに渡って、そして全ての人間にとっての“真理”です。
『言論の自由がなくなるのは許せないし、自分が安全なところにいて運動しても誰もついてこないと思ったのです』という土肥元校長に、この歌を贈りたい。
おりしも国旗国歌法が成立した99年に忌野清志郎が出した歌である。発禁となったときの状況を清志郎は次のように語っている。
【ブログ「子育てロック」<忌野清志郎⑤ / 「君が代」事件の裏話、わが子への思い>より転載】
-------------------------------------------------
「『カバーズ』ん時は
周りのスタッフが全員僕の味方をしたのに、
<君が代>の時はみんな引いてるっていうか。
右翼とかにビビっちゃってんの。
でもうれしかったのは近所のタバコ屋とか
魚屋のオッサンが応援してくれたんですよ。
『何かあったら俺が駆けつける!』って(笑)」
「もう、ひとりぼっちですよ、僕なんか。
みんな事なかれ主義の奴ばっかりでさ。
『これを出したら、右翼がタッペイくんが行ってる
学校にまで行って大変なことになる』とか、
そういうシミュレーションをしてるわけ(笑)。
でもね、たとえそうだとしても、
ここで引いてしまってボツにするのは
後の人生ですごく後悔すると思ったの。
もう構わんと。
『そういう親父なんだから、しょうがない』と(笑)。
『もしタッペイくんにそういうことがあっても
タッペイくんの運命なんだ』って
(スタッフを)説得したのを覚えてますよ(笑)」
【忌野清志郎 「君が代」】
私のクライエントに右も左もありません。
教育庁も、教育委員会の皆様も、同じく悩める親の子であり、子の親。
教育行政も、合い言葉を変えよう↓
「愛し合ってるかい?」
先生を育てる社会
ハラスメント・スクール
自縄自縛の教育行政
『土肥信雄 右は教育委員会の弾圧に負けず本校所定の課程を修了したことを証明する 58期卒業生一同』
-東京都立三鷹高校の教え子達が、定年を迎える土肥校長に卒業証書を贈った。
『教育が民主的でなければ生徒も民主的な考えをもてないし、国家も民主的になれない』という信念を貫いた土肥校長に対するお礼であり、これからの闘いに対するエールである。
1996年頃から文部省の指導で、日の丸掲揚・君が代斉唱が義務づけられるようになるが、1999年に広島県立世羅高校で板挟みになった校長が自殺したことをきっかけに、同年8月に国旗国歌法が成立。
(by Wikipedia)
掲揚・斉唱を巡って教職員と校長の対立が激化していた98年に、都教委は職員会議外資決定機関ではないことを明文化する規則改正を行った。ついで、文科省もそれに追随し、00年に学校教育法施行規則を改正し、職員会議を校長の補助機関とした。都教委はさらに06年、採決や挙手による意思確認をすることまでもを禁止した。
(by 朝日20090509)
『職員会議でも自由に意見を言ってほしい、ただし責任を負うのは校長だから、最終的な判断は僕がする』と述べる土肥元校長は真っ当である。
土肥氏は、学生時代に東大闘争にぶつかり、東大解体という主張に共感しながらも退学する勇気を持てなかった。
就職した商社で独禁法違反を知って上司に進言したが一蹴された。
この2度の挫折を経て、自由に発言できる職業として教員を選ぶ。
が、この世界でも98年に都教委が職員会議を校長の補助機関と位置づけた時、「悪法も法なり」という曖昧な態度をとってしまった。
そこへ、06年、都教委はさらに言論統制の追い討ちをかけた。
ここへ来て、土肥信雄氏はたった一人で「反乱」ののろしを上げた。
06年の都教委の通知の撤回を求めたのである。
報復として、『校長としては異例なことに』非常勤教員としての再雇用を認められず引退やむなきに至った。
『都教委は学校をピラミッド型の組織にして上意下達の徹底を狙っています。校長は上からの指示を素通りさせるだけのロボットになり、生徒と向き合うはずの教員も、生徒のことより校長の顔色をうかがうことになる』
『本当はピラミッドの頂点にいなければならないはずの生徒が、最もボトムに置かれてしまうのです』
頑張れ!
土肥信雄校長!
何ごとも、
押し付けるな!!
押し付けられなければ嫌悪しないものを、押し付けられるから嫌悪する。これは、あらゆることに渡って、そして全ての人間にとっての“真理”です。
『言論の自由がなくなるのは許せないし、自分が安全なところにいて運動しても誰もついてこないと思ったのです』という土肥元校長に、この歌を贈りたい。
おりしも国旗国歌法が成立した99年に忌野清志郎が出した歌である。発禁となったときの状況を清志郎は次のように語っている。
【ブログ「子育てロック」<忌野清志郎⑤ / 「君が代」事件の裏話、わが子への思い>より転載】
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「『カバーズ』ん時は
周りのスタッフが全員僕の味方をしたのに、
<君が代>の時はみんな引いてるっていうか。
右翼とかにビビっちゃってんの。
でもうれしかったのは近所のタバコ屋とか
魚屋のオッサンが応援してくれたんですよ。
『何かあったら俺が駆けつける!』って(笑)」
「もう、ひとりぼっちですよ、僕なんか。
みんな事なかれ主義の奴ばっかりでさ。
『これを出したら、右翼がタッペイくんが行ってる
学校にまで行って大変なことになる』とか、
そういうシミュレーションをしてるわけ(笑)。
でもね、たとえそうだとしても、
ここで引いてしまってボツにするのは
後の人生ですごく後悔すると思ったの。
もう構わんと。
『そういう親父なんだから、しょうがない』と(笑)。
『もしタッペイくんにそういうことがあっても
タッペイくんの運命なんだ』って
(スタッフを)説得したのを覚えてますよ(笑)」
【忌野清志郎 「君が代」】
私のクライエントに右も左もありません。
教育庁も、教育委員会の皆様も、同じく悩める親の子であり、子の親。
教育行政も、合い言葉を変えよう↓
「愛し合ってるかい?」
先生を育てる社会
ハラスメント・スクール
自縄自縛の教育行政