プロフィール
 

中尾英司

Author: 中尾英司
Doing(させる,働きかける)ではなく、Being(共にある,見守る)―半歩あとから


中尾相談室のカウンセリング概要
カウンセリング申込み要領

中尾真智子ブログ

ホ・オポノポノ to IC―
「ごめんね」「ゆるしてね」
「ありがとう」「愛している」

 
ピックアップ目次
最近の記事+コメント
 
 
カレンダー(月別)
 
08 ≪│2023/09│≫ 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
 
カテゴリ
 
 
全ての記事を表示する
RSSフィード
 
 

第2部-2、母に認めてもらいたかった少年

2009/05/20(Wed) Category : 仮面の家
第2部 生き方モデルがいなかったりょう先生

■2、母に認めてもらいたかった少年--------------------------

小学校時代のりょう少年は、かつて『箱入りお嬢さん』だった母が早朝から夕暮れまでリヤカーを引く行商について歩いています。
中3からは学資を賄うためりょう少年も毎朝納豆売りを始め、日曜日にはノコギリの行商をしていた父について歩いています。

一方で、『諺・格言など父から教わったものが、私の中学・高校時代の知識の多くを占めていた』と言うとおり、父親の博識を尊敬し、また、文楽、歌舞伎などにもよく連れて行ってもらっています。

貧困に喘ぎ、貧困故の喧嘩が絶えない日常(ケの世界)。
その俗世を空しくさせる観念やハレの世界。
このハレとケの世界の余りにも遠いギャップ。



普通は、このギャップの中で、子どもは母親の味方になるものです。なぜなら、母親が安全基地の本体であり、そこに不安がある限り子どもは自分の人生に集中できないからです。ですから、母親が窮している背景に父親の存在があれば、子は父親を憎むのです。まして、りょう先生は行商で疲れ果てた母親の後ろ姿を目の当たりにしています。

しかし、『非常に苦労された実父の人格全体を尊敬している』とりょう先生の同僚が証言するくらい、りょう少年は父親を尊敬していました。なぜでしょうか。

『読み書きで母は全く父の相手にはならなかった。記憶力のよいことも抜群で、一ヶ月分の日記をまとめてつけていたと亡き母がよく私たちに話して聞かせた』

そう、これでした。『母がよく私たちに話して聞かせた』―つまり、自慢していたと言うことです。りょう少年は、自分の愛する母親が父親の記憶力の良さを評価している姿を繰り返し見せられているのです。つまり、“母親が評価する記憶力のよい父親”を尊敬したのです。

そのため、りょう少年は勉強も記憶力で勝負します。
楽譜を見て曲を問う音楽の問題でさえ、音符から曲を連想するのではなく、『“ミレドミレドドラド”は「故郷の人」』という具合に文字に置き直して100曲近く暗唱し、苦手な音楽を切り抜けています。
英語も、赤尾の“豆単”をなんと丸暗記してしまいます。

りょう少年は、記憶力において父を越えることで、母に認めてもらいたかったのでしょう。そのことが、最もよく表れたのが卒論でした。彼は、次のように言っています。
『私が卒業論文に歌舞伎を選んだのは、これをもって完全にすべての知的分野において父を凌駕したいという思いがあったからである』

青年になったりょう先生は、卒論によって父を卒業したかったのかもしれません。そして、その論文で母に認めてもらいたかったのかもしれません。



-------------------------------------------------------
子は、母親に気持ちを受け止めてもらいたいのです。なぜなら、気持ち=自分自身ですから、気持ちを聴いてもらうということは自分(の存在)を認めてもらうということだからです。

しかし、それどころではない生活の場合、子は母親に自分の気持ちを言うことを我慢せざるをえません。その代わりに、母親が望む方向で頑張ることによって、母親に認めてもらおうとするのです。

ですから、母親が何を評価しているのか、子どもは無意識にアンテナを立ててサーチしています。そのアンテナに引っかかったのが「記憶力」でした。そのため、りょう少年は、記憶力を高めることによって自己実現しようとしました(=母に認められようとしました)。



-------------------------------------------------------
しかし、「記憶力」が生きる術にはならないことは、現実が教えてくれていたのです。

『しかしながら、その喜びも束の間で、英単語が分かることと英語ができることとは全く別であることに、すぐに気づかされた』

『しかし、実際に書き終わってみると机上の知識は確かに増えはしたが、少年の頃から数限りなく歌舞伎座の三階へ足を運んできた父の歌舞伎についての蘊蓄には叶うべくもなかった』

そう、丸暗記しても実際には使えない。
知識を詰め込んだだけでは叶わない。

自分のやった行為の結果は、ちゃんと自分にフィードバックされていました。母に認めてもらうための方向では生きてはいけないことを、「現実」は教えてくれていたのです。



-------------------------------------------------------
生物はフィードバックを得て自分のあり方を軌道修正します(自己修正)。その修正する自己の元になっているお手本(モデル)は父親です。子どもは、自分と同性の親の生き様を見て生き方を学ぶ(モデリングする)からです。

りょう少年の父親も祖父も「趣味人」でした。
祖父は裕福な基盤の上に立つ趣味人。
父は、自分を支える術としての趣味人。

いずれも、現実の上にどうやって立つのか、それを学ぶには欠陥モデルでした。母や娘から責められている父親の姿は、“現実”から責められている“生き方モデル”の姿だったでしょう。

そのモデルの中で唯一母親に認められていたのが「記憶力」でした。しかし、記憶力だけでは生きていけないことを現実は教えたのです…。






【モデリングについてご参考】

団塊ジュニアに聞いた(1)~モデルの喪失
モラハラの構造(4):なぜ、結婚すると突然モラ夫になるのか?
人はどのように育つのか




関連記事
 
Comment1  |  Trackback0
 
 

Trackback

 

Trackback URL :
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

 
 

Comment

 

気がつけば《維持者》だったかも

35年近くモラ母を起点として、家庭内でのトラブルが常に絶えなかった機能不全の我が家。

モラ母は自分を支える術として、読書だけにのめり込み、趣味人というよりも「活字中毒」に陥ってしまっています。これも原点を辿れば「裕福な基盤の上に立つ趣味人」の祖母の生き方を自分に転写しようとしているのかもしれません。

一人娘の私がモラ母から敷かれた「理想」という名のレールに反発し、自分なりの生き方を模索、主張を始めた(形態発生期)頃から我が家は一層、大揺れに揺れていきました。

まさに「現状を維持しようとする親は変化を認めようとしないため、ポジティブフィードバックとネガティブフィードバックの対立が過激になっていきます。これをエスカレーションといいます」…中尾先生の仰る通りのプロセスです。


それから20年近く経ち…気がつけば私は「悪しき状態を延命させる役割をしてしまう人、イネーブラー(維持者)」となっていました。

そして、フィードバックを得て自分のあり方を軌道修正する「自己修正フィードバック」が今なお自分で出来ていないことを改めて痛感しています。

「自分が延命させているわけですから、この対立はなりを潜めません。つまり、自分が無意識に維持しつつ、自分がヘトヘトになっていったわけです」

数年前から今も時々(自殺したら楽になれるかも…)と考えたりします。

その一方で、(ハラッサーでない男性と出会い、新たな自分自身の人生を生き直すのもいいのでは?)と思えるようにもなってきました。
(もちろん、いい仕事に巡り合い、自分自身の経済力を一気に高める生き直しもいいとは思いますが…)

我が家の絶え間ない嵐にだけ囚われていた私が、このようにふと自分自身の人生の生き直しをチラっとでも考えるようになったのは、小さいけれど《前進》なのでは?と考えては自分を慰めています。

 
    
 
Home | Top ▲
 
はじめにお読み下さい
 

読まれる上での留意点
自分を取り戻す方法総目次
*全記事リンクフリーです

 
検索フォーム
 
 
著作
お問い合わせなどあれば↓
 

名前:
メール:
件名:
本文:

 
会場でお会いしましょう(^^)
記事・インタビュー他
わが子を守るために
写真
ブックマークに追加
 
 
月齢
 
Today's Moon phase
 
QRコード
 
QRコード