第2部-4、りょう少年のストローク飢餓
2009/05/20(Wed) Category : 仮面の家
第2部 生き方モデルがいなかったりょう先生
■4、りょう少年のストローク飢餓----------------------------
「形態発生派」の二人の姉 vs 「形態維持派」の両親 の闘いの間に立ち、そのなだめ役(プラケーター)をすることが日常であったりょう青年。彼は、気持ちで生きることができず、家族の調節弁という「機能」として存在していました。それは、“気持ちを持つ人間”としては家族の中に存在していなかったと言うことです。
りょう青年という調節弁(なだめ役)の上に立って両親と姉が大喧嘩していたということは、無意識のうちに彼の気持ちは全員が無視していたと言うことです。ひとりの人間としての存在はそこにはありません。
「相手の存在を認める働きかけ」のことをストロークと言いますが、人はこのように無視されると「ストローク飢餓」に陥ります。りょう少年がいかにストロークに飢えていたのかは、次のエピソードに表れています。
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一つめは、小1の頃に行商で母とともに歩いていたときのこと。彼は、母が注文を聞いているあいだの梶棒の抑え役か、リヤカーの後ろに乗ってバランスをとる重石役でした。
『そんな時に、私を認めると、「あら、今日は坊や一緒なの。ちょうど今お餅焼いているところだから、一つあげましょうね」と言って戻っていって、焼きたての持ちを持ってきてくれることがあった』
―『三十年以上経った今も忘れることがない』というこのエピソードは、彼が人として認められた喜び、人からぬくもりのあるストロークをもらえた喜びを示しているように思います。
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また、中1の時、記憶力で勝負していた彼にとって数学は苦手でした。授業中なすすべもなく外をぼんやり眺めていたりょう少年に、数学の先生は声をかけてくれました。そして、
『彼も人なり我も人なりという言葉を知っている?まわりのみんなができているのに、りょう君だけできないはずはないでしょう。最初からやってごらんなさい』と言って巡回して行ってしまいました。
そう、ただそれだけのことなのです。
『新卒何年目かの駆け出し教師』が、普通に声をかけただけのことなのです。しかし、『当時の私にとっては、先生が私のために創ってくださった言葉のように新鮮に思えてなりませんでした』と感動し、『一生の指針となるような言葉を与えてくださったのです』と深く感謝し、『もう三十八年も前のこと』を『いまだに鮮明に記憶している』のです。
なぜ、りょう先生の生きる指針となるほどに衝撃を与えたのでしょうか。それは、『我も人なり』という言葉にあったと思うのです。当時、家族の中で「機能」としての日常を生きていたりょう少年にとって、「あなたも他の人と同じように“人間”なんだよ」というメッセージは、目から鱗が落ちるように強烈だったのではないでしょうか。
自分をひとりの人間として認めてほしいと渇望している少年にとって、「あなたも“人間”なんだよ」という先生の言葉は、まさに飢えた心がドンピシャに飛びつくご馳走でした。
先生の何気ない言葉は、
ストローク飢餓の少年の心にストロークを与えたのです。
りょう少年の存在を認めてくれたのです。
「自分を人として認めてくれた!」
これこそが、生きる力の根源なのです。
だからこそ、一生の指針となったのでした。
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このように、りょう先生は母親から得られなかったストロークを行商先のおばちゃんからもらい、父親から得られなかったストロークを学校の先生からもらいました。
いずれも、ほんのささやかなことです。しかし、それがこれほど鮮明に心に刻まれるくらいに、りょう少年は親から人として認めてもらっていなかった=ディスカウントされていたということなのです。
尚、ストローク飢餓に陥っている人間にとって、ほんのささやかな人との触れ合いがどれほど大切なことかは、秋葉原事件を起こした加藤被告が店員との普通のやりとりにさえ次のように言っていることでも分かります。
『店員さん、いい人だった 人間と話すのって、いいね』
(参)加藤智大容疑者の心の闇(8)-「時間の構造化」の方法
■4、りょう少年のストローク飢餓----------------------------
「形態発生派」の二人の姉 vs 「形態維持派」の両親 の闘いの間に立ち、そのなだめ役(プラケーター)をすることが日常であったりょう青年。彼は、気持ちで生きることができず、家族の調節弁という「機能」として存在していました。それは、“気持ちを持つ人間”としては家族の中に存在していなかったと言うことです。
りょう青年という調節弁(なだめ役)の上に立って両親と姉が大喧嘩していたということは、無意識のうちに彼の気持ちは全員が無視していたと言うことです。ひとりの人間としての存在はそこにはありません。
「相手の存在を認める働きかけ」のことをストロークと言いますが、人はこのように無視されると「ストローク飢餓」に陥ります。りょう少年がいかにストロークに飢えていたのかは、次のエピソードに表れています。
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一つめは、小1の頃に行商で母とともに歩いていたときのこと。彼は、母が注文を聞いているあいだの梶棒の抑え役か、リヤカーの後ろに乗ってバランスをとる重石役でした。
『そんな時に、私を認めると、「あら、今日は坊や一緒なの。ちょうど今お餅焼いているところだから、一つあげましょうね」と言って戻っていって、焼きたての持ちを持ってきてくれることがあった』
―『三十年以上経った今も忘れることがない』というこのエピソードは、彼が人として認められた喜び、人からぬくもりのあるストロークをもらえた喜びを示しているように思います。
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また、中1の時、記憶力で勝負していた彼にとって数学は苦手でした。授業中なすすべもなく外をぼんやり眺めていたりょう少年に、数学の先生は声をかけてくれました。そして、
『彼も人なり我も人なりという言葉を知っている?まわりのみんなができているのに、りょう君だけできないはずはないでしょう。最初からやってごらんなさい』と言って巡回して行ってしまいました。
そう、ただそれだけのことなのです。
『新卒何年目かの駆け出し教師』が、普通に声をかけただけのことなのです。しかし、『当時の私にとっては、先生が私のために創ってくださった言葉のように新鮮に思えてなりませんでした』と感動し、『一生の指針となるような言葉を与えてくださったのです』と深く感謝し、『もう三十八年も前のこと』を『いまだに鮮明に記憶している』のです。
なぜ、りょう先生の生きる指針となるほどに衝撃を与えたのでしょうか。それは、『我も人なり』という言葉にあったと思うのです。当時、家族の中で「機能」としての日常を生きていたりょう少年にとって、「あなたも他の人と同じように“人間”なんだよ」というメッセージは、目から鱗が落ちるように強烈だったのではないでしょうか。
自分をひとりの人間として認めてほしいと渇望している少年にとって、「あなたも“人間”なんだよ」という先生の言葉は、まさに飢えた心がドンピシャに飛びつくご馳走でした。
先生の何気ない言葉は、
ストローク飢餓の少年の心にストロークを与えたのです。
りょう少年の存在を認めてくれたのです。
「自分を人として認めてくれた!」
これこそが、生きる力の根源なのです。
だからこそ、一生の指針となったのでした。
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このように、りょう先生は母親から得られなかったストロークを行商先のおばちゃんからもらい、父親から得られなかったストロークを学校の先生からもらいました。
いずれも、ほんのささやかなことです。しかし、それがこれほど鮮明に心に刻まれるくらいに、りょう少年は親から人として認めてもらっていなかった=ディスカウントされていたということなのです。
尚、ストローク飢餓に陥っている人間にとって、ほんのささやかな人との触れ合いがどれほど大切なことかは、秋葉原事件を起こした加藤被告が店員との普通のやりとりにさえ次のように言っていることでも分かります。
『店員さん、いい人だった 人間と話すのって、いいね』
(参)加藤智大容疑者の心の闇(8)-「時間の構造化」の方法