第4部 予め失われた人生-1、生まれながらに人生を奪われた子ども
■1、生まれながらに人生を奪われた子ども------------------
背骨がないフニャフニャした自分が生きていくために、観念的な型枠に自分をはめ込むことで生きようとしたりょう先生。
「すぐれた配偶者に出会うためには、まず自らをその配偶者にふさわしい人間に高めなくてはならない」という大義名分の元に、「生涯平教員」で「両親の面倒を見る」ことを自分に課し、あけみさんとの結婚も「絶対に夫婦喧嘩はせず」理想的な家庭。
その本質は、「心のコップ」が一杯だから人のマネジメントはせず、妻の気持ちも聴かず、両親に吐き出すチャンスを得るために両親と同居し、「親の子」のままでいて夫にも父にもなれないけれど、それに同意できる人を妻にする―そういうことでした。
人は、このように自分の心の欲求に従いつつ、それを実行するに当たっては世間が納得できる大義名分や理屈をつけて生きています。つまり、立派な大義名分の裏には、IC(インナーチャイルド)の衝動が隠れていることが多いのです。
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そして、そういうりょう先生と一心同体になったあけみさん。存在不安のあるあけみさんも、自分を支えるため、また意識を外に向けるために「枠」を必要とした人でした。そのため、枠を押し付けてくるりょう先生を選んだのです。
このように互いを道具にしあう人間関係を「共依存」と言います。それが自律した人間関係なのか、共依存なのかの違いはただ一つです。自律した人間関係であれば、一緒になって以降成長・成熟していきますが、共依存であれば一緒になった時点で成長はストップします。なぜなら、自分の現状を維持強化するために“道具(相手)”を選んでいるからです。
人を道具にすることができるのは、まず自分が自分を道具にしているからです。その行為のすべては、自分が自分の気持ちに直面化したくないが故の行動。つまり、自分の人生上に現れるすべての“対象”は、自分が自分から逃げ続けるために意識を外に向けさせる“手段”なのです。
命を道具(手段)にする両親。
その両親の下に男の子が生まれました。
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りょう先生は長男に自分と同じ名前をつけました。
同じ読みで「諒」という漢字です。そして、こう書いています。
『この子が大きくなったときに、あんなお父さんと同じ名前でいやだなと思われないような父親としての生き方をしたいと、自分の悲願を込めてつけた』
『三十年の半生をふり返ってみて愚考と悔恨の連続であった。つくづく自分がいやであった。しかしこうして一人の子どもの父親となったからには今度こそしっかりしなければいけない。』
『立派な父親になろう、子供が父親と同名であることを誇りに感じられるような、そういう父親になろうと心に誓ったのである。』
『子供のためよりも自分のために悲願をこめた名前であると言ってもよい』
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りょう先生は自己矛盾に気づきませんでした。
『父親としての生き方をしたい』と書いています。
誰のために?
子どものためでしょう。
しかし、
『自分のために』と書いているのです。
『愚考と悔恨の連続』の重荷を子どもにまで背負わせるんじゃねぇよ!と思いました。が、気づくすべはなかったと思われます。
妻と同様にわが子もまた、『愚考と悔恨の連続』で背骨のない自分の生をしっかりとさせるための“人柱”だったのです。子どもという外枠(パーツ)を自分にはめ込むことによって、父親としての自分を成り立たせようとする―それが、『父親としての生き方をしたい』という言葉に表れています。
妻がそうであったのと同様、わが子もまた弱い自分を外から覆って支えてくれる枠(甲羅)の一部でした。子どもは、りょう先生の一部となるべく名前をつけられたのです。
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わが子に自分と同じ名前をつけたりょう先生。
彼は、わが子の名前を呼ぶ度に、自分に「立派であれ」という枠を認識させることができるのです。つまり、わが子は自分に対する戒めとして存在させられているのです。
ということは、自分が『立派な父親』であり続けるためには、長男は枠としてあり続けなければなりません。あるがままの存在として認められるのではなく、りょう先生の枠としての役割を生まれながらに担わされてしまったのです。
また、その枠が曲がれば、りょう先生も曲がってしまいます。だから、赤ちゃんもまた、「立派」でなければならない運命におかれました。
父親と同じ名前をつけられた赤ちゃんは、自分の人生を生きるのではなく、生まれたときからりょう先生のアイデンティティ構築の「道具」となる運命を背負ってしまったのです。