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第4部-2、借りてきた「男性モデル」と「父親モデル」

2009/06/01(Mon) Category : 仮面の家
第4部 予め失われた人生

■2、借りてきた「男性モデル」と「父親モデル」----------------

最初に生まれてきたのが女の子だったら、もしかすると運命は変わっていたかもしれないと思います。しかし、生まれてきたのは“男の子”でした。自分が生き方を教えなくてはなりません。また、いずれ対峙しなくてはなりません。

男性像、父親像を内在化していないりょう先生にとって、男の子は潜在的な脅威だったのではないでしょうか。薄っぺらな自分の化けの皮を剥がしかねない敵―それが長男のポジションでした。ですから、無意識に自分に同化させるために同じ音の名前をつけたのかもしれません。

いずれにせよ彼は、男性像、父親像を早急に確立する必要に迫られました。そのために、まず自分の中の女性性を切り捨てようとしました。
『小学校に上がるまで「アタチ」「アタチ」と言っていたそうで、遊び事も年子の姉といつもママゴトやお人形さん遊びをしていた』
『性格も二人の姉よりもむしろ優しく、内気で、神経質で、細かいところによく気がついたが、年頃になると自分のそういう女性的性格がいやでいやでたまらなかった』


りょう先生は、自分で苦闘して自分の生き様を創り上げるのではなく、外からモデルを借りてきてそれに自分を合わせるという鋳型成形の道を選択しています。男性モデル、父親モデルも借りてくるしかありません。そのモデルはテレビや小説が提供してくれました。「人生劇場」や「巨人の星」、あるいは太宰治の「父」という短編です。

『義のために、わが子を犠牲にするということは、人類が始まって、すぐその直後に起こった』で始まり、『義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている』と終わるそうです。

「バカ言ってんじゃねぇよ」と突っ込みたくなりますが、りょう先生は、義に生きるということが人類の歴史とともに古い権威のあるものであること、同時に男性特有のものであること、の二つに惹かれたのでしょう。なぜなら、仮に人類の歴史とともにあるとするなら一つのスタンダードとなりますし、男性特有ということなら、これに従うことで自分の女性性を切り捨てることができるからです。

さらに、この言葉はわが子を道具にして生きようとしているりょう先生に、そのことを肯定する大義名分を与えることができます。
実はこのようにして、人は自分の人生脚本を固めていくのです。



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彼は、「男について」という文章の中で次のように書いています。

①『間違いなく(子より)自分の信条を選ぶ』
②『儀のために、わが子を犠牲にする』
③『儀のために無理して酒をのんでいる自分に男意気を感じる』

私は、そのあまりの薄っぺらさに、悲しくなりました。
なんと情けない、幼く自己陶酔的な発想でしょうか。
同時に、それ以上に怖いと思いました。
上から順に見てみましょう。

①彼は、いざとなったらわが子ではなく自分をとると宣言しているのです(信条とは、自分を支えるものです)。
②また、自分の信じるもののためには、わが子を道具にすると言っているのです。
③そして、自分自身も自分を支えるもののために道具になってよいと言っているのです。



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第1に、とんでもない本末転倒が起こっています。
彼は、自分が生き延びるために「男性モデル」を創り上げました。しかし、そのモデルを全うするために自分は犠牲になってもよい=生きられなくてもよい、と言っているのです。その男性モデルにしがみつくあまり、自分をすら道具にしていることがよくわかります。

ここに、自己矛盾が起こっている事に、なぜ気づかなかったのか?
それは、“何のために生きているのか”というもっとも本質的な問いが自分になされていないからです。自分と格闘していないからです。生き方を外から安易に手に入れようとしているからです。



第2に、りょう先生は自ら父親になる道を断ちました。
ここに父親像はありません。あるのは、薄っぺらい男性像のみです。
男は、妻や子どもと格闘することによって段々と父親になってきます。格闘し、妻子から教えられて、謙虚になってようやく父親になれるのです。

しかし、りょう先生は自らその道を断ちました。
生まれてくる子さえも、自分の男性モデルを支えるための道具にすると言っているのです。そこから、子を支配し従える意思は働いても、子から学ぶという謙虚さは生まれようがありません。



あけみさんが、一人の人間として夫と感情をぶつけ合っていれば、その格闘の中で、その夫婦オリジナルの「男性像」が出来上がっていたことでしょう。しかし、りょう先生同様、りょう先生の世界観の一部を構築する道具となっていたあけみさんに、それは望むべくもありませんでした。

そして、それがなされなかったゆえに、りょう先生はテレビや小説から借り物を借りてこざるをえず、それにすがりつき、今度は生まれてくる子までを道具にする体制を整えたのでした。

『古い日本の女性は願いごとを立てて茶断ちなどをしたが、私はそういう発想に今でも非常に心惹かれるのである』―りょう先生が、そういう自分を認めることができていれば悲劇は起こらなかったでしょう。






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仏教の戒は六道四生を輪廻転生し続ける運命からの解脱を志す修業者が、運命の原因である煩悩から解脱するために自主的に守ります。 犯人は、「自分もアブラハムの立場だったら迷うことなく息子を神に差し出すだろう。男というものは義のためには我が子を犠牲にしなければならないこともある」

と、太宰の『父』の感想を書いてます。
日本の武家の家族家中は軍事組織でもある為、適任者が当主となり当主は軍事指揮官としての権限を持ちますが、アブラハムは子の父である家父長権により子を殺す権利がある。日本の家父長権導入は明治以降です。

アブラハムの宗教では律法を守る事は、自分と子孫が救済されるための人間と神との契約上の義務で、契約と契約による律法を守る義務は子孫に相続されます。

神が創った世界を支配させる為に創られた神の似姿がman(人間)、人間が世界を支配する為の助手として創られたのがwoman(人間の妻)。(最初の女イブは、創られた事により最初の人間アダムの妻)
人間が世界を支配し続ける為に子を生むのを助ける為、人間の子を出産するのは人間の助手である人間の妻。

人間は自分の子も含めた世界を神のために支配し、人間の妻は支配の助手。

人間と女が増えれば、人間が神と契約して助手としたのが人間の妻で、女が助手となる事を神と契約したのが女の夫。

神に義とされるために、神に命じられた通りに一人息子を生贄に捧げ、神に義とされたアブラハムの神を信じる宗教がアブラハムの宗教。(刃物を息子に振り下ろす瞬間、神は憐れんで止める)
アブラハムが「女奴隷とその子を追い出せ」という神の命令に従って、自分の息子と自分の息子の母を砂漠に放逐して正義を行い、神の憐れみで生き延びた女奴隷ハガルが産んだアブラハムの息子の男系子孫が最後の最も重要な神の啓示を受けたとするのがイスラム教。

自由な女サラ(奴隷ではないのでアブラハムを夫とすることを神と契約する資格があった)が産んだアブラハムの息子の男系子孫だけが、神に義とされたアブラハムの相続人だとするのがユダヤ教とキリスト教。

アブラハムとサラの男系子孫モーセが神から授けられた律法を守る事を神と契約したのが、神の救済の対象である選民イスラエル人。神がイスラエル人を救済させたアブラハムとサラの男系子孫ダビデ王の男系子孫からイスラエル人を救済する救世主が将来現れるとするのがユダヤ教。

律法は救済対象のイスラエル人とされるために守られる法だから、
父なる神が、ダビデの男系子孫で神の一人子で人類の長子である子なる神救世主キリストを、十字架に架けて犠牲にして人類の罪を贖って人類を救った事を信じる者が、
真実にモーセの律法を守る事を完成させる神の救済対象である選民イスラエル人とするのがキリスト教。

 

自律

戒律、法律と似てますね。

自律が無いから戒律、法律を得る。と言うように捉えられます。


宗教が自律を奪うのは、自律の代わりに戒律を与えているのではないでしょうか。

そんな気がしたので書き込んでみました。
失礼します。

 
    
 
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