第4部-5、「枠」vs「感情」
■5、「枠」vs「感情」-----------------------------------
りょう先生が、育児において諒君のどのようなことに怒ったのかを見てみましょう。それをみれば、りょう先生がどのような価値観を持っていたのかが分るからです。
りょう先生が諒君に体罰を加えたのは次の3回です。
1回目は、小2の時、リトルリーグのチームを探しに河川敷に行った時のこと
2回目は、祖父に対する口の利き方が悪かった時
3回目は、弟に対して邪険な口の利き方をした時
1回目についてみてみましょう。
リトルリーグに入りたいというので、チームを探しに河川敷に行きます。が、見つからなくて諒君が痺れを切らし、『買ってもらったばかりのジャージを地面にたたきつけた』時です。りょう先生は、『親もいっしょに探してやっているのに何ごとだ』と、『鼻血が出ても』『殴りつづけ』ました。
りょう先生は次のように言っています。
『鼻血が出てもまだ私が殴り続けておったくらいですから、一回では謝んなかったです』
<そこかよ?!>…思わず突っ込みを入れてしまいました。鼻血が出てもなお殴り続けることの“自分の異常さ”はスルーするのかい、と。りょう先生は、“諒君の強情さ”に力点を置いて言っているために、自分の行動の異常さには気づいていません。
普通ならば、まぁこういうこともあるさ、となだめるのが親ではないでしょうか。何よりもこの問題は、親の問題ではなく諒君自身の問題だからです。その問題の解決は諒君に任せ、諒君に教えるべきは、むしゃくしゃした感情への対処の仕方だけです。
諒君にしてみれば、なぜそれほどまでに殴られ続けるのか理解できなかったに違いありません。地面に叩きつけたのは自分の感情であって、それは父親に対してのものではありません。理不尽です。強情になるのも無理はありませんでした。
---------------------------------------------------
なぜ、りょう先生はキレたのでしょうか。
『親もいっしょに探してやっているのに』という言葉から、あぁ無理して付き合っているんだ、ということがわかりますね。では、なんのために無理をしているのか?
“子どものために労を惜しまない立派な夫婦”という枠に沿うためです。
このように、枠に従って生きている人間は、枠を守るために気持ちに無理をさせて生きていきます。ですから、「○○してやっているのに(感謝しろ、ありがたく思え)」という言葉が出てくるのです。
バカ言ってんじゃねぇよ。勝手に枠おしつけんな、あんたの勝手でやっておいて感謝しろはねぇだろ!と言いたくなります。冷静に見ると、「○○してやっているのに」という言い分はとても恥ずかしいことが分かりますね。
つまり、一緒にチームを探しに出た時点で、既に怒りが溜まっているのです。それは自分が自分に無理をさせていることへの怒りなのですが、それは自覚されません。が、出所を伺っている怒りは、自分に怒るべき正当な理由があると感じたとき、そういうチャンスをすかさず捉えてここぞとばかりに爆発させるのです。
りょう先生は親があたかもいないような態度、親の前で悔しい感情をむき出しにする立派じゃない姿勢、それを見た瞬間に怒りを爆発させました。諒君の言動が自分の創った枠に抵触したために、その抵触したことに対して湧いた怒りをぶつけたのです。自分はその枠に従って我慢して行動しているのに、お前は我慢もせずに何だ!という思いです。
まぁ、あきれ果てるほどまことに身勝手な話しですが、りょう先生にとっては怒るべき正当な理由でした。何しろ、諒君は『1、生まれながらに人生を奪われた子ども』で見たとおり、りょう先生を戒める枠として存在しなければならないのです。その枠が、“立派”でなければ自分が崩壊してしまうのです。枠は、自分の感情を無視してでも立派にあり続けなければりょう先生が困るのです。鉄拳制裁をしてでも枠のゆがみを矯正する必要がありました。
---------------------------------------------------
りょう先生がキレた背景には次のような背景もありました。
学生時代バイトに追われてスキーをしたくてもできなかったりょう青年は、『スキーなんてブルジョアの遊びで俺には関係ない』と僻んでいました。しかし、その僻み根性を子供には持たせたくないという思いから、『子供三人には小学校に入学する前後からスキーに連れて行っているが、私一人はいつも長靴を履いて雪の中に立って子供を見守っている』というのです。
りょう先生自身は、自分の姿に「子のために我慢している男の美学」でも感じているのでしょう。目を覚ませ!と言いたくなります。自己陶酔していないで、子供の気持ちを考えろ!と言いたくなります。父親が一緒に楽しんでこそ、子供も楽しいのです。我慢している人間がそこにいて、純粋に楽しめるはずがありません。
何より分かっていないのは、父親自らが人生を楽しむことを教えていないということです。りょう先生の姿が教えているのは、人生は我慢という生き方。これでは、活き活きノビノビと人生を謳歌できるはずもありません。命を縮こまらせてしまう―これは、罪です。
その上、りょう先生の気持ちの中には、こうして自分は我慢しているという思いがありますから、諒君が我慢せずに感情を露わにしただけでキレたのです。
いかがでしょうか。りょう先生が一見真っ当なことを言っているように見えて、実に自己中であることが分かると思います。
---------------------------------------------------
我慢をして生きている親は、子が楽しく自由にしていることに我慢がなりません。子にも我慢を押し付けるか、自分がしている我慢に見合う我慢を求めます。
前項のエピソードは、りょう先生が我慢していい親をしているのだから、諒君も我慢していい子をやれということです。我慢とは気持ちを我慢することですから、それは取りも直さず気持ちを出すなという禁止令であり、その禁止令を守れなかったことがりょう先生の怒りの本質です。
この一例を持ってしても、りょう家が感情を封印していたことがわかるわけですが、家族の最も重要な機能は「気持ちを受け止めること」ですから、機能不全家族だったわけです。
…ここまで分析せずとも、ただジャージを投げつけただけのことなのです。たしなめられるのならともかく、このような殴られ方をすれば、私なら怒りが湧くでしょう。諒君が強情になるのも無理はなかったと思います。もっと言えば、たかが小2の子供がかんしゃくを起こしただけのことなのです…。
【キレる理由】
さらば!キレる大人(1)-定年退職後、突然キレだした理由