第6部 制圧-1、叩く正義を得るためのレッテル貼り
■1、叩く正義を得るためのレッテル貼り-----------------------
『私は高校中退したときに、あの傲岸不遜な性格を直すのには、どこかで挫折を味わうしかない。(略)高校中退が結局、その後、とんとん拍子にいってしまって、挫折の役割を果たさなかったんじゃないかということで、大学へ入って中退というのが、はじめて本人にとって本当の挫折だったんじゃないかと思いました』とりょう先生は言います。
この両親は一致して諒君を「傲慢」「傲岸不遜」とレッテル貼りしていますね。それを聞いた裁判員は、諒君にそういう印象を持つでしょう。なにしろ、両親がともに言っているのですから。
しかし、たとえば『第5部-3、「ディスカウント」vs「傲慢」』で見たとおり、『おれがこぼれるわけないだろう』と言ったのは、落ちるわけにはいかない崖っぷちに立たされた諒君の悲鳴でした。崖っぷちに追い詰めたのは、生まれて以来ディスカウントし続けている親です。
日々、人間から心なき操り人形へと引きずり下ろそうとする圧力がかかっているからこそ、
日々人以上の位置に自分を置いておかなければならないのです。
その姿を見て、親は「傲慢」「傲岸不遜」と捉えます。
気持ちを封印して生きている親から見ると、気持ちを言うという当たり前のことさえ「わがまま」なのです。わが子が気持ちを言っている姿を見ると、「俺(私)だって、気持ちを我慢しているのに」と親のインナーチャイルドがわが子に嫉妬するのです。
自分の気持ちに我慢をさせて形に合わせて生きていますから、学校に行かないなどの“形からの逸脱”は、“我慢が足りない”“わがまま”という見方しかできせん。
そういう思いがあるところへ、売り言葉に買い言葉のようにでてきた『おれがこぼれるわけないだろう』という言葉。りょう夫妻は、その言葉をこれ幸いと言質にとりました。そういう言葉を吐く本人を「傲慢」とレッテル貼りしたのです。
つまり、以前も見たとおり、諒君本人が傲慢な人間なのではなく、諒君を制圧する大義を得るために、自分を正当化する“理由”がほしかったのです。すなわち、夫婦が共通して諒君に「傲慢」とレッテル貼りした高2の時点で諒君制圧への準備が整ったと言うことです。
*親にいろいろとレッテル貼りされて苦しまれている方へ―。
あなたが気持ちで生きようとする普通の人間だからこそ型にはまらず、型から見ると逸脱した部分が出てくるのです。その逸脱した部分が目障りで、親はそこにレッテル貼りするのです。そのレッテルは、むしろ自分が人間らしい人間であることの証。勲章です。
もう“レッテルの名札”に嘆くことはやめましょう。
名札は一人歩きしますが、あなたがそういう人間なのではなく、その名札をつけた人間から見るとそう見えるというだけのこと。つまり、レッテルは、それを貼った人の立場を表しているものなのです。
親や親戚や周囲の人間が、怒りや妬みや恨みや憎しみを込めてレッテルを使ったとすれば、それはそれだけその人々が苦しみの中に生きているということ。同じ地獄に落としたいので攻撃してくるのです。
ですから、自分に自信を持って下さい。
そして、レッテルが“それを貼った人の立場を表明するものに過ぎない”ことがわかったならば、今すぐにそのレッテルを剥がしましょう。
「私は○○ではない。自分の気持ちを大事にして生きる愛情豊かな普通の人間だ」
ほら、もう剥がれたでしょう(^^)。
なんだ、こんな馬鹿馬鹿しい薄っぺらいものに私は囚われ振り回されていたのか……レッテルなんて、そんな吹けば飛ぶようなちっぽけなものです。
私は、あるがままのあなたが大好きです。
「レッテル貼り」が不幸を呼ぶ