「生きていてもいい?」
2006/03/04(Sat) Category : 自殺・自傷
実の親子でもあるドラマだ(金曜エンタテインメント)。
親が縛る →嘘をつく
→怒る →逃げる
→さらに怒る →自分の中に逃げ込む
→探る →逃げ場がなくなる…
…エスカレーションした挙句、破綻していく家族は多い。
親は子を愛しているという疑いようもない磐石の礎(いしずえ)の上に立ち、「守る義務」と「知る権利」を錦の御旗に全ての行為を正当化して、ブルドーザーのように迫ってくる。
子に牙をむかれて初めてショックを受けるのだが、思い込んでいる頭では、それも“反抗期”という世俗のレッテルでしかとらえることが出来ない。魂の叫びとも言える真実の姿が、相手にそのまま伝わらないというのは、残念ながらよくある話だ(「少年A」もそうだった)。
一方の子ども。
こらえきれず吐き出した短い言葉には、段々と追い詰められていくこれまでの重たい人生が順に綴られている。
「自分が決めたことを押し付けてくる」
「子どもの気持ちをちっとも分かってくれようとしない」
「どこにも自分の居場所がない」
それにずっとずっと耐え続けてきた。が、
「ずっと我慢して壊れちゃいそうで、もう、我慢できない!」
そして、
「誰にも本当のことをわかってくれない人生なんて―」
と、自殺未遂をおかす。
なぜ、ここまで溝ができてしまったのか。
真季が包丁を持ち出した騒動の中で、親の思いが暴露される。
「そうならないように育ててきた」
そう、これが鍵なのだ。
知らない間に子を追いつめている親は、「ビジョン」を持っている。
こうなってほしい。
こうなってほしくない。
親は、自分のビジョン(脳内イメージ)と目の前の現実の子どもを比較する。そして、無意識のうちに現実の子どもを脳内イメージに合わせていこうとする。
合わせるために、しつけや教育が子どもに押し付けられるわけだが、子どもが闘っているのはその目の前に押し付けられたもろもろのことではない。それを生み出す根源である、親の脳の中にある「イメージ」と闘っているのである。
その闘いの本質は、無意識に迫ってくる親には分からないし、子どもも説明する言葉を持たない。子どもは問題行動や症状によって窮地を表現し、親は子どもがおかしくなったと思う。
が、カウンセリングを通じて、親が「ハッ」と気づいた時、親も子も解放される。
このご家庭にシステムズアプローチを本質的に理解している家族カウンセラーが入っていれば、もしかするとお母さんが脳溢血で倒れずにすむ道が開けていたかもしれない。なぜなら、子どものメッセージは、多くの場合親に生き方(人生脚本)のチェンジを迫るものであるからだ。
しかし、それを行うには、長期にわたってその家族につかず離れず見守り、解きほぐし、導いていかなければならない。私が行っているのはそういう仕事だが、通常の社会システムではそこまで面倒を見ない。
先ずは、破裂寸前の風船を守るために危機介入をすること。
つまり、真希の「情緒的遮断」を手助けすることが必要だった。
この「情緒的遮断」は、“事件”を起こさないために必要な措置だったと思う。親も子も救われたのだ。
が、親は納得しない。愛情に嘘はないからだ。しかし、行為は間違っていた。裁判に負けたことはそれを証明した。
愛情に嘘はない。
が、愛し方を間違うことは、ある。
私もそうだった。
それに気づいた時、私は子どもに謝った。
裁判に負けて母親が訪れてくる。
「お母さんの負けね」と言う―勝ち負けの問題じゃないんだが、と思う。
「故郷をなくしてしまったこと」を詫びる―あぁ、最後の賭けに出たなと思う。これでは、故郷がなくなってしまってもいいの?という脅迫のニュアンスを感じる子どももいるかもしれないと、ふと思う―それほど、子どもは敏感だ。
真希は、きっぱりと「一人でやっていけるから」と答える。
そして、母親が差し出した手は握らなかった…
この時、
「故郷になれなくてごめんね」と、自分の至らなさを謝っていればどうだっただろう。
「お母さん」と抱きついて一緒に泣いていたかもしれない…。
子は親の愛情は感じているし、欲しているからだ。
が、お母さんは泣きながら帰るときに、その時こそ、真希から本当に学んだのだろう。
だから、真希が倒れた時に、自分を成長させてくれた真希のために、恩返しのために奔走した。
そして、真希は実の母と会うことが出来る。
お母さんがそこまで奔走した理由は何か。
それは、鏡(子)と向き合い、自分の弱さと対峙したからである。
手を差し伸ばしたが、鏡に映った自分は手を差し伸べてはいなかった。その自分の本当の姿に接して、本当に悔いたのだ。
自分の過ちを認め滂沱の涙を流した。
お母さんは、自分の弱さと直面することの大切さを知ったのである。
だから、真希のためだけではなく、実母のためにも、“対面”してほしかったのではないだろうか。
「怖いよ」と言えてよかったね―心の中で、つくづくホッとした。
「怖いよ」と言える相手がいる。
それは、相手を信じているから言える言葉。
信じられるものは、ひまわりのような愛情。
神様は、この不器用な親子に素直に気持ちを出させるために、真希に病を与えたのではないかと思う。真希は素直に甘えられなかった(介入してくる親には甘えられない)。
母親は償いをしたかった。
そのチャンスを神様が与えた。
と書くと何だが…
感情はフロウ(流れ)だ。
時として奔流だ。
それを堰き止めることは、ダムのように強大なエネルギーを必要とする。
子は誰でも親に甘えたい。
親に愛されたいと心底思っている。
しかし、自分の人生に介入してくる親にこちらから心を開くことは出来ない。
だから、親に向かっていく気持ちを堰き止め、親がこちらに入ってこようとすることを遮断する。子どもは、対自分、対親という2重の闘いをしなければならない。
バックグラウンドで動くソフトウエアのように、1秒1秒、この2重の闘いに身を削っているわけだ。
病気になるのも当然だったと思う。
お母さんの魂は成長し、役割を終え、死が訪れた。
真希の魂も成長し、確執は解消し、愛情深き父の元へ戻った。
魂は学びあうために出会っている。
試行錯誤しながら人生をかけて学びあっている。
だから、長い目で見守ること―
このドラマのメッセージが響いてくる
親が縛る →嘘をつく
→怒る →逃げる
→さらに怒る →自分の中に逃げ込む
→探る →逃げ場がなくなる…
…エスカレーションした挙句、破綻していく家族は多い。
親は子を愛しているという疑いようもない磐石の礎(いしずえ)の上に立ち、「守る義務」と「知る権利」を錦の御旗に全ての行為を正当化して、ブルドーザーのように迫ってくる。
子に牙をむかれて初めてショックを受けるのだが、思い込んでいる頭では、それも“反抗期”という世俗のレッテルでしかとらえることが出来ない。魂の叫びとも言える真実の姿が、相手にそのまま伝わらないというのは、残念ながらよくある話だ(「少年A」もそうだった)。
一方の子ども。
こらえきれず吐き出した短い言葉には、段々と追い詰められていくこれまでの重たい人生が順に綴られている。
「自分が決めたことを押し付けてくる」
「子どもの気持ちをちっとも分かってくれようとしない」
「どこにも自分の居場所がない」
それにずっとずっと耐え続けてきた。が、
「ずっと我慢して壊れちゃいそうで、もう、我慢できない!」
そして、
「誰にも本当のことをわかってくれない人生なんて―」
と、自殺未遂をおかす。
なぜ、ここまで溝ができてしまったのか。
真季が包丁を持ち出した騒動の中で、親の思いが暴露される。
「そうならないように育ててきた」
そう、これが鍵なのだ。
知らない間に子を追いつめている親は、「ビジョン」を持っている。
こうなってほしい。
こうなってほしくない。
親は、自分のビジョン(脳内イメージ)と目の前の現実の子どもを比較する。そして、無意識のうちに現実の子どもを脳内イメージに合わせていこうとする。
合わせるために、しつけや教育が子どもに押し付けられるわけだが、子どもが闘っているのはその目の前に押し付けられたもろもろのことではない。それを生み出す根源である、親の脳の中にある「イメージ」と闘っているのである。
その闘いの本質は、無意識に迫ってくる親には分からないし、子どもも説明する言葉を持たない。子どもは問題行動や症状によって窮地を表現し、親は子どもがおかしくなったと思う。
が、カウンセリングを通じて、親が「ハッ」と気づいた時、親も子も解放される。
このご家庭にシステムズアプローチを本質的に理解している家族カウンセラーが入っていれば、もしかするとお母さんが脳溢血で倒れずにすむ道が開けていたかもしれない。なぜなら、子どものメッセージは、多くの場合親に生き方(人生脚本)のチェンジを迫るものであるからだ。
しかし、それを行うには、長期にわたってその家族につかず離れず見守り、解きほぐし、導いていかなければならない。私が行っているのはそういう仕事だが、通常の社会システムではそこまで面倒を見ない。
先ずは、破裂寸前の風船を守るために危機介入をすること。
つまり、真希の「情緒的遮断」を手助けすることが必要だった。
この「情緒的遮断」は、“事件”を起こさないために必要な措置だったと思う。親も子も救われたのだ。
が、親は納得しない。愛情に嘘はないからだ。しかし、行為は間違っていた。裁判に負けたことはそれを証明した。
愛情に嘘はない。
が、愛し方を間違うことは、ある。
私もそうだった。
それに気づいた時、私は子どもに謝った。
裁判に負けて母親が訪れてくる。
「お母さんの負けね」と言う―勝ち負けの問題じゃないんだが、と思う。
「故郷をなくしてしまったこと」を詫びる―あぁ、最後の賭けに出たなと思う。これでは、故郷がなくなってしまってもいいの?という脅迫のニュアンスを感じる子どももいるかもしれないと、ふと思う―それほど、子どもは敏感だ。
真希は、きっぱりと「一人でやっていけるから」と答える。
そして、母親が差し出した手は握らなかった…
この時、
「故郷になれなくてごめんね」と、自分の至らなさを謝っていればどうだっただろう。
「お母さん」と抱きついて一緒に泣いていたかもしれない…。
子は親の愛情は感じているし、欲しているからだ。
が、お母さんは泣きながら帰るときに、その時こそ、真希から本当に学んだのだろう。
だから、真希が倒れた時に、自分を成長させてくれた真希のために、恩返しのために奔走した。
そして、真希は実の母と会うことが出来る。
お母さんがそこまで奔走した理由は何か。
それは、鏡(子)と向き合い、自分の弱さと対峙したからである。
手を差し伸ばしたが、鏡に映った自分は手を差し伸べてはいなかった。その自分の本当の姿に接して、本当に悔いたのだ。
自分の過ちを認め滂沱の涙を流した。
お母さんは、自分の弱さと直面することの大切さを知ったのである。
だから、真希のためだけではなく、実母のためにも、“対面”してほしかったのではないだろうか。
「怖いよ」と言えてよかったね―心の中で、つくづくホッとした。
「怖いよ」と言える相手がいる。
それは、相手を信じているから言える言葉。
信じられるものは、ひまわりのような愛情。
神様は、この不器用な親子に素直に気持ちを出させるために、真希に病を与えたのではないかと思う。真希は素直に甘えられなかった(介入してくる親には甘えられない)。
母親は償いをしたかった。
そのチャンスを神様が与えた。
と書くと何だが…
感情はフロウ(流れ)だ。
時として奔流だ。
それを堰き止めることは、ダムのように強大なエネルギーを必要とする。
子は誰でも親に甘えたい。
親に愛されたいと心底思っている。
しかし、自分の人生に介入してくる親にこちらから心を開くことは出来ない。
だから、親に向かっていく気持ちを堰き止め、親がこちらに入ってこようとすることを遮断する。子どもは、対自分、対親という2重の闘いをしなければならない。
バックグラウンドで動くソフトウエアのように、1秒1秒、この2重の闘いに身を削っているわけだ。
病気になるのも当然だったと思う。
お母さんの魂は成長し、役割を終え、死が訪れた。
真希の魂も成長し、確執は解消し、愛情深き父の元へ戻った。
魂は学びあうために出会っている。
試行錯誤しながら人生をかけて学びあっている。
だから、長い目で見守ること―
このドラマのメッセージが響いてくる