第7部 完結した人生脚本-1、タイマーをセットした父親
■1、タイマーをセットした父親------------------------------
「謝りにこなかったら、子どもとは思わない」
ついにりょう先生が本性を現したこの言葉。
この言葉で留意しないといけないことがあります。
それは、りょう先生が「タイマーをセットした」ということです。
諒君は、りょう先生の世界から逃れて自分の世界を構築しようとしています。しかし、りょう先生はそれを認めるわけにはいきません。なぜなら、諒君は自分の世界の構成要素の一つであり、そこが欠ける事は、取りも直さず自分の世界の崩壊を意味するからです。
そこにせめぎ合いが起こるのは当然で、どちらかが引かない限り、その対立は激化(エスカレート)していきます。これを心家族療法では「エスカレーション」と言います。このエスカレーションを回避できなければ、最後は、何らかの形で爆発することになります。
実は、りょう先生は子どもの頃に『両親と二人の姉とのあいだの確執』という形でエスカレーションを経験していますね。このときイネイブラー役をしたりょう先生は、家族対立の本質的意味を学ぶことができませんでした(↓)。
【第2部-3、家族の機能(調節弁)として生きた子ども】
諒君の自分の人生を歩きたいという欲求は、生まれてきた以上当然の欲求ですからやむことはありません。しかし、それをりょう先生は(自分の枠に沿わない生き方は)認めないとシャットアウトしたわけです。
ここに、いつかは爆発に至るタイマーのスイッチが入りました。
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スイッチを入れた人間は、その時点で心の準備を始めます。
まず最初になされる準備―それは、万が一のときのために子を切り離しておくことです。自分の枠に従わないならば子とは思わないようにすることに始まり、次にどのような形であれ縁を切って他人になるという段階に進み、さらには、自分の枠に抵触するようなことがあれば、敵と見なすというところへ到達します。
もともと枠を完成させることが生きることそのものになってしまっているりょう先生にとって、自分の枠を破壊しようとするものはすべて敵なのです。それは、外から攻撃されるものでなくとも、自分の枠の構成要素であるパーツが自由意志で動き始めようとすることさえも敵なのです。なぜなら、それが枠の崩壊につながり我が身を脅かすからです。
「獅子身中の虫」―身内にその敵がいて自分の枠を脅かす存在である限り、りょう先生は安心することができません。いつかその虫をつぶす必要がある。彼は、無意識のうちにそう思っていたと思います。
いざとなったら、俺はお前を潰すよ―そう宣言したのが、「謝りにこなかったら、子どもとは思わない」という言葉の本質でした。
『第4部-2、借りてきた「男性モデル」と「父親モデル」』を思い出してください。彼の人生脚本は、次のように薄っぺらなものでした。
①『間違いなく(子より)自分の信条を選ぶ』
②『儀のために、わが子を犠牲にする』
今、その人生脚本に沿って事は動き始めました。
彼は、最悪の場合の覚悟を決め、爆発にいたる最終ボタンの上に指を置いたのでした。
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そして、事件の1ヵ月半前のこと。
夜中の午前2時頃、ビデオを大きくし声を出して歌っていた諒君をりょう先生は注意します。その時たまたまいた弟も交えて3時間ほど話をしますが、途中で『うるせえ』という言葉を諒君が言ったために、りょう先生は『そういう言葉を自分に対して言われるんなら、もう話なんかできない』と言って引き上げようとします。すると、諒君が追いかけてきて殴りかかろうとしました。
この一連の事を分析すると、こういう風に見えます。
諒君は、自分の気持ちを聴いてほしくて、きっかけをつくります(夜中に大声で歌うというのは、既に魂の挙げている悲鳴です)。そして、父親を引っ張り出し、うまく話す場が出来ました。それは恐らく、彼にとってはじめて自分の気持ちを聴いてもらえる場だったのかもしれません。
弟によれば、『ほとんどが生き方についての話で、兄は自意識過剰に悩んでいるように受け取れました』。そして、『こういう性格にしてしまったのは親の責任だと決めつけていました』―親のせいなのだから、当然ですね。そして、『そういった性格は直らないものだから、自分は自殺するしかないのかなぁ』ということまで口にしているのです。
りょう先生は自分も自殺未遂までしたことを話し、『そういった悩みはだれでもかならず持っていることで、それを背負って、さらに生き続けなくちゃいけないんだ、それはおまえもだれもかれも同じことなんだから、おまえもつらいのはわかるが、それを背負って生きていくしかない』と答えます。
いかがでしょうか。りょう先生の言葉からは親の責任を微塵も感じられません。だれもが持つこととして一般化することにより親が責任逃れすると同時に、諒君自身の辛さも受け止めていないことがわかります。
こういうやりとりをしていれば、『うるせえ』という言葉も出てくるでしょう。すると、埒があかないりょう先生は待ってましたとばかりにその言葉に飛びつき、結局、親に対する態度・言い方というつまらない“枠”をかざして話を中断するわけです。ここでも、りょう先生は子より枠を優先したのです。魂が悲鳴をあげ、ギリギリに追い詰められているわが子を救おうともしない親に、諒君が殴りかかろうとするのも無理からぬことでした。
諒君の心は、ついにりょう先生には届かなかったのです。
一方、タイマーは動き始めたのでした。
【エスカレーションの事例】
短大生遺体切断事件の家族心理学(8)-勇貴と亜澄
アメリカン・ジャスティス