第8部-5、問われる裁判の役割
■5、問われる裁判の役割--------------------------------
「仮面の家」のストーリーを読まれて、どうお感じになったでしょうか。
りょう先生夫妻は一貫しています。
枠に徹しきった両親が“人”を追い出すか殺すかに至るのは、必然の帰結でした。言ってしまえば、諒君を生んで殺害に至るまで一貫しているのです。
一方の諒君はのたうち回っています。
それも、なぜ自分がこんなに生きるのが苦しいのか、その理由もわからずにのたうち回っているのです。
近所の人は、その苦しさのあまりの暴言やモノを破壊する音を聞いているでしょう。だから、真面目な先生と良妻賢母と評判の高い母親への同情が集まります。そこに長男の心情などわからない弟や、外で負けるわけにはいかない諒君を「自信家だった」と証する友人の証言が加わります。
すると、次のような判決が出ます。
『長男の立ち直りは極めて難しく、それまでの親の接し方にも間違いはなかった。長男の精神荒廃が極限の状態では、家庭が崩壊させられるか、長男を殺害するかしかの選択しかなかった』(浦和地裁)
まるで両親の言い分をそのまま追承認しただけのような陳腐な判決です。
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二審の東京高裁では、父親は『社会経験が豊富で物事を冷静に判断できる立場にあった』『「家庭内暴力が始まってから事件まで1年もたっておらず家族への危害はなかった。社会への適応能力もあり、治癒可能性は十分にあった」と延べ、刑事責任の大半を父親が負うべきだと結論付けた』。
が、この二審とても、父親がまともで、子が病気だったという観点に立っており、だからこそ父親に責任を押し付けているわけです。この判断基準でいけば、子が社会適応できないくらいに苦しみ、家庭内暴力が続いていれば親に対する温情判決が出るということです。
このシリーズを読まれた皆様は一体どのように思われるでしょうか。
父親がまともで、諒君は家庭が崩壊させられるほどに精神荒廃が極限、あるいは病気だったでしょうか。そして、責任は父親のみでしょうか。
いずれの判決も真相を明らかにはしていません。
両親や諒君の言動に現れている深層心理を丁寧に分析していかない限り、当人でさえわかっていない真実に到達することはできないのです。
そして、真実に到達できない限り、社会はこの事件から学ぶことができず、結局人間社会は心の進歩がないままに同じ悲劇を繰り返し続けることになります。
裁判の役割とは、一体なんでしょうか?
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いずれも真相を明らかにはしていない判決。
にもかかわらず、判決というのは一人歩きしてしまいます。
一審が通ってしまえば、家族内で事件が起きたとき、親が目に見える暴力でも振るっていない限り、子は圧倒的に不利な立場に立たされ続けることになるでしょう。二審においてさえも、親の正常性を前提にした判決ですから、先に見たとおり、子が社会不適応なくらいに荒れていた場合は、親に対する温情判決が出るでしょう。
いずれの判決も、私から見ると「ガリレオの宗教裁判」と同じなのです。(第6部-3、親が正当化される背景)
このように、判決というのは社会通念を前提として判決が出されますし、またなされた判決が社会の考え方に方向性を与えてしまうのです。
例えば、この7月2日にも、86歳の母親がアルコール依存症の息子(58)の首を絞めて殺したという事件がありました(京都府綾部市)。居間でテレビを見ていた無職高雄守さんの首を、ひものようなもので絞め殺した母親は、親類に対し「息子の将来を悲観して、思い余ってやった」と話しているそうです。
いろいろな実体に接してきた私には、この記事だけで様々なことが想起されますが、この裁判に果たしてどのような判決が下されるのでしょうか。また、裁判員はどのように判断するのでしょうか。
そして、その判決もまた、一つの判例として社会に影響を与えていくのです。
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子が荒れれば荒れた子が悪い。子が親に殺されても、殺される理由のある子が悪い…。子のせいにしてしまえば、親は責任を逃れられます。親が責任を逃れられるのなら、私たちも他人事として傍観していられます。
が、親の責任も問われるとすれば、私たちも傍観していられません。
なぜそうなってしまったのか、我が家は大丈夫か、と自分たちの姿を見直さなければなりません。
それは、夫婦のあり方や家族のあり方を問い直すことになり、一人ひとりの生き方を問い直すところに行き着くでしょう。そうやって深く気づいていけば、何より気持ちが大事であること、モノや効率はむしろ気持ちを疎外するものであることに気づき、働き方もお金に対する価値観も変わってくるでしょう。何より、幸せとは何かという価値観が劇的に変わるでしょう。
そして、GDP(国内総生産量)を目指すことの無意味さ及び弊害に気づき、GNH(国民総幸福量)という目標に変わるでしょう。目指す目標が変われば、自由競争の価値観や市場主義、拝金主義、資本主義の文明のあり方まで変わっていくのです。
つまり、「子は親の鏡」「親の背中を見て子は育つ」「若者は社会の鏡」「人は自分の鏡」「現象はサイン」……このような見方が一般化すれば、自ずと社会は背筋の伸びたまっとうな社会へと変化していくでしょう。
それは、あるがままの自分で生きられ、楽しんで個性を発揮し、気持ちで人とつながることのできるワクワクする社会です。
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かつて社会に生きていた「子は親の鏡」という昔ながらの知恵が廃れ、一国の首相までが「自己責任」という無責任なことを臆面もなく口にするほどにこの国が堕落してしまったのも、偏に現代文明のあり方がおかしいからです。トップから末端までが、このおかしなあり方に踊らされています。
裁判所もまた同じ。すべての機関は、その社会システムを維持するために機能しています。私たちの思考がIP(インナーペアレンツ)に支配されているように、社会の仕組みも、置かれる機関も、パラダイム(時代の枠組み)に支配されています。
しかし、ソ連及び米国の相次ぐ崩壊によって、所有という文明のあり方(私有=資本主義、共有=共産主義→いずれも、「所有」という概念に立つ上で同じ穴の狢です)が、もう行き詰まっていることが明らかになってきました。銀行や企業が国営化される原状は、私有だの共有だのいっていられない混沌ぶりを示していますが、要は、子を天からの授かり物ではなく自分の所有物とまで見なすに至った所有文明がどん詰まりに来ているのです。
(家族カウンセリング的に見た日本5-田口ランディさんの兄)
その上、今やこの文明のあり方は地球自体を追いつめるところにまで来ていることが、気候変動という形で誰の目にも明らかになりつつあります。天動説が地動説に変わったようなパラダイム大転換の時が近づいているように思います。
(巡る因果:カトリーナと14号)
(アグロフォレストリーがアマゾンを救う)
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しかし、まだほとんどの人々は、りょう先生夫妻が脳内現実の虚構の中で生きたように、所有文明という虚構の中で生きています。そして、自由競争という価値に踊らされ、その価値観の元、子どもの尻を引っぱたいています。(4日に書いた記事―ピンク・フロイドの「Another Brick in the Wall」に見事に表されていましたね)
だからこそ、今この社会のレールからドロップアウトしている人達、苦しまれている人達、今の家族や地域や社会を呪う人達が、新たな社会の担い手になる可能性があるのです。不登校、引きこもり、ニート、非正社員の方々が新たなコミュニティを創り上げるコアとなっていくでしょう。
戦争によって強く存在不安を植え付けられた第一世代は、その不安を見たくないが故に欠乏欲求の所有文明を後押ししました。そして、時間と空間を分断し埋め尽くし、その心を亡くしたハコの中で育った第三世代が苦しんでいます。第二世代は、支配しようとする第一世代と苦しむ第三世代の間に立って右往左往しています。
これから、第一世代が急速に影響力を失っていく向こう10年の間、社会は混乱の中にぶち込まれるでしょう。その時に支えとなるのは、自分自身を取り戻した人達です。自分を取り戻すためには、自分自身と闘わなければなりません。そして、自分の中で上の世代(インナーペアレンツ)の支配を断ち切らなければなりません。
これはとても苦しい闘いです。半端な覚悟ではできません。
ですから、人は自分と闘うことから逃げ続けます。今苦しまれている人は、自分から逃げることができないところに追いつめられた人々です。だから自分を救うために、上の世代を断ち切る決意ができるのです。
そこを闘い抜いた人達が、これからの時代を築いていきます。
だから、生き抜いてください。
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それました。
裁判の意義が問われています。
裁判が、単に犯人を特定し、量刑を定めるためのものであれば、社会システムにいいように使われていくでしょう。そういう姿勢の中で、事件を主義主張の道具にしたり、冤罪事件が起こったりするのです。
『「光市母子殺害事件」(4)-「人」を「道具」にしてはいけない』
『足利事件―虚偽自白だれにも起きる監獄社会』
裁判は何よりも、なぜ事件が起こったのか、その心理を解き明かし、もって再びそのようなことが起こらない社会を作っていくためのものでなければなりません。
『どうすれば犯罪の被害者も加害者も生まない社会を作るのか、どうすればこういう死刑という残虐な、残酷な判決を下さない社会ができるのかを考える契機にならなければ、私の妻と娘も、そして被告人も犬死だと思っています』 ―これは、「光市母子殺害事件」の原告、本村洋さんの言葉です。
【光市母子殺害事件死刑判決に思う】
『結局、加害者がなぜそうしてしまったのか、そこが加害者自身にも本当に分からない限り、反省は生まれない。 自分のやったことの意味が分からずに、反省のしようもないからだ。そして、加害者が自分のやったことの意味が分からない限り、被害者は本村氏が言うとおり「犬死に」になってしまう』のです。
【加害者心理が分からなければ被害者は人生を再スタートできない】
そのためには、なによりも裁判という場が真実を追究する場でなければなりません。そういう観点から、裁判のあり方そのものを問い直すべき時に来ていると思います。
この本質的議論をしないままに、安易に裁判員制度を実施することは、とても危険なことなのです。
★おわりに----------------------------------------------
『「仮面の家」の裁判員できますか?』
1ヶ月半の長きにわたってお読みいただき、まことにありがとうございました。
最後は、文明のあり方の転換にまでなってきておやおやと思われた方もいらっしゃるでしょう。
でも、ね。私が組織改革を始めたときも、1人で「おはよう」と挨拶に立つことからでした。それが、3年後には1000人が動く改革になっていったのです。
1人と信頼を結ぶことができれば7人が動きます。すると、その7人それぞれの周囲の7人(計49人)が動きます。さらにその周囲の7人が動き(計343人)…という具合に幾何級数的に増えていくのです。
大切なことは、最初の7人にしっかりとポリシーを内在化していくことです。
組織風土の改革よりも難しい家族風土の改革。これも、母親が変わることにより、子が、夫が変わっていく様を、私は見ています。
また、その変化に触発されて周囲の人が変わろうとするのも見ています。一人が変わることで、周囲が変わるのです。皆さん一人ひとりが、実は物凄いパワーを持っているのです。
私は常に現場に立っています。
そして、現場を見続けています。
そこで、人の持つエネルギーの凄さを実感しています。
だから、あきらめていません。
何しろ、「あきらめの壁をぶち破った人々」を書いた本人ですから、あきらめるわけにはいきません(^^)。
「あきらめたらそこで終わりです」【スラムダンク】
「しかたかなくなんかない!」【最終兵器彼女】
「あなた達の生きる未来を!! 私達が諦めるわけにはいかないっ!!」 【ワンピース】
だから、今苦しまれている方も、あきらめないで。
そして、
誰のものでもない自分と
誰のものでもない地球を
取り戻しましょう。
【Cocco The hill of Dugongs「ジュゴンの見える丘」】
2匹のジュゴンは、絶滅しかけていた「心」
きれいなだけで空虚な海に心が戻ったように、
きれいなだけで空虚な街にも、心を戻しましょう。
そして、
正しいやさしさが満ちあふれる社会に―