川喜田二郎氏の「パーティー学」
2009/07/10(Fri) Category : 人物
川喜田二郎氏(89歳)が亡くなられたことを今朝の新聞で知った。
調査で集まった情報をカードに記入して分類し、そこから新たな気づきや発見をしていく「KJ法」(←本人のお名前からとっています)を編み出された方だ。
私は大学時代に氏の書いた「パーティー学-人の創造性を開発する法」という本に出逢い、このKJ法を会社に入ってからいろいろと活用させていただいた。工場勤務時代の新入社員研修や職場の問題を検討する際のワークショップ、そして、本社において組織改革における会社の問題点の洗い出しなど、まぁ、いろいろなところで活用させていただいた。
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懐かしくて、もうセピア色に変色している「パーティー学 (現代教養文庫 495)
」を引っ張り出した。まえがきに次のようにある。
『まず、本全体の狙いは、今日の時代に生きる我々の当面する、ある種の根本問題に挑戦することにあります。その根本問題とは、「人はいかにして生きがいを感じ得るか」ということと、「人と人の心はいかにして通じ合うか」ということと、「人の創造性はいかにすれば開発できるか」という三問であります。しかもこの三問の間には密接で切り離し得ない関係があり、したがってこれを全体として考察しなければならないというのが、全巻を貫く主張であります』
で、こんな『僭越なテーマ』に取り組むのは、『私自身が自分のためにも何らかの見解なくしては生きてゆかれないという切実な問題』であり、その切実感があるからだという。ところが一方、『分業がいちじるしく発達した今日、この種の問題すべてにまたがるプロ、つまり専門家なるものがいるかどうか疑わしい』。でも、腕をこまねいているわけにはいかないので、『あくまでもアマ精神に徹して、この本を書くことに決意しました』。
―そう、当時私はこのまえがきに惹かれて読んだのだったと思う。私は、当時からプロフェッショナルという言葉が嫌いだった。そこには、専門の道に責任は持つが、他は持たなくてよいというニュアンスを社会から感じていたからである。
んなこたぁーねーだろー、自分の人生、ある側面に責任を持つが他は持たないなんてこたーおかしーだろーよ。と思っていた。私は機能として生きたいのではなく、全的な人間として生きたいのだ。仮に言うとすれば、「プロフェッショナル・アマチュア」だ。あくまでも普通の人間(アマチュア)であり、ただその思いを表現できるスキルを持つ―そういう方向性を目指していた。
だから、私の勉強の仕方は専門性を身につけるための勉強ではなく、自分の思いを表現するために気の向くままに多方面にわたった。その中で出逢ったのが「パーティー学」だった。
『あくまでもアマ精神に徹して』いるところが気に入ったのである。
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ところで、線を引いている箇所をぺらっと眺めて、へぇー、と思った。
『脊椎動物は、成長するときに脱皮の必要がありません。いわば革命なき成長であって、非常な利点です』
しかし、人間は文化という甲殻を分泌し始める。
その『確立した文化様式こそ、まさにエビやカニの甲殻に当たるものです。』
『ある社会は、文化様式という甲殻があればこそ、その社会は生きていくことができます。けれどもまさにそのために、社会が成長するためには、文化様式という甲殻がじゃまになって、成長が阻まれることもありうるわけです』
『文化成長が進むほど、このカラは厚くなる。』
『カラは割れにくくなり、脱皮は困難になるのではないかという疑問です』
……現在私は、心を亡くして形に自分を当てはめて生きる人々を「甲殻類」と呼んだりしているが、その大元は、もしかしてここにあったかも。
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尚、この後私は、「歴史とは何か (岩波新書)
」(E.H.カー)や「科学革命の構造
」(トーマス・クーン)を経て、「時代の枠組み(パラダイム)」がどのように転換していくのかを研究していくことになる。私の卒論は、まさに現代の世界観がどのような歴史的流れの中でできあがってきたのか、そのパラダイム転換の様子を神の概念の発生の頃から論じたものだった。
そして、ここで時代や社会、価値観の変化の仕方についてしっかりと見据えたことが、その後の人生の基礎となった。また、会社風土の変革においても、家庭風土の変革においても、私たちを取り巻く社会や時代を見る見方においても、人の心理の変化を見ることにおいても、とても役立っている。
川喜田二郎氏のご冥福をお祈り申し上げます。
調査で集まった情報をカードに記入して分類し、そこから新たな気づきや発見をしていく「KJ法」(←本人のお名前からとっています)を編み出された方だ。
私は大学時代に氏の書いた「パーティー学-人の創造性を開発する法」という本に出逢い、このKJ法を会社に入ってからいろいろと活用させていただいた。工場勤務時代の新入社員研修や職場の問題を検討する際のワークショップ、そして、本社において組織改革における会社の問題点の洗い出しなど、まぁ、いろいろなところで活用させていただいた。
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懐かしくて、もうセピア色に変色している「パーティー学 (現代教養文庫 495)
『まず、本全体の狙いは、今日の時代に生きる我々の当面する、ある種の根本問題に挑戦することにあります。その根本問題とは、「人はいかにして生きがいを感じ得るか」ということと、「人と人の心はいかにして通じ合うか」ということと、「人の創造性はいかにすれば開発できるか」という三問であります。しかもこの三問の間には密接で切り離し得ない関係があり、したがってこれを全体として考察しなければならないというのが、全巻を貫く主張であります』
で、こんな『僭越なテーマ』に取り組むのは、『私自身が自分のためにも何らかの見解なくしては生きてゆかれないという切実な問題』であり、その切実感があるからだという。ところが一方、『分業がいちじるしく発達した今日、この種の問題すべてにまたがるプロ、つまり専門家なるものがいるかどうか疑わしい』。でも、腕をこまねいているわけにはいかないので、『あくまでもアマ精神に徹して、この本を書くことに決意しました』。
―そう、当時私はこのまえがきに惹かれて読んだのだったと思う。私は、当時からプロフェッショナルという言葉が嫌いだった。そこには、専門の道に責任は持つが、他は持たなくてよいというニュアンスを社会から感じていたからである。
んなこたぁーねーだろー、自分の人生、ある側面に責任を持つが他は持たないなんてこたーおかしーだろーよ。と思っていた。私は機能として生きたいのではなく、全的な人間として生きたいのだ。仮に言うとすれば、「プロフェッショナル・アマチュア」だ。あくまでも普通の人間(アマチュア)であり、ただその思いを表現できるスキルを持つ―そういう方向性を目指していた。
だから、私の勉強の仕方は専門性を身につけるための勉強ではなく、自分の思いを表現するために気の向くままに多方面にわたった。その中で出逢ったのが「パーティー学」だった。
『あくまでもアマ精神に徹して』いるところが気に入ったのである。
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ところで、線を引いている箇所をぺらっと眺めて、へぇー、と思った。
『脊椎動物は、成長するときに脱皮の必要がありません。いわば革命なき成長であって、非常な利点です』
しかし、人間は文化という甲殻を分泌し始める。
その『確立した文化様式こそ、まさにエビやカニの甲殻に当たるものです。』
『ある社会は、文化様式という甲殻があればこそ、その社会は生きていくことができます。けれどもまさにそのために、社会が成長するためには、文化様式という甲殻がじゃまになって、成長が阻まれることもありうるわけです』
『文化成長が進むほど、このカラは厚くなる。』
『カラは割れにくくなり、脱皮は困難になるのではないかという疑問です』
……現在私は、心を亡くして形に自分を当てはめて生きる人々を「甲殻類」と呼んだりしているが、その大元は、もしかしてここにあったかも。
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尚、この後私は、「歴史とは何か (岩波新書)
そして、ここで時代や社会、価値観の変化の仕方についてしっかりと見据えたことが、その後の人生の基礎となった。また、会社風土の変革においても、家庭風土の変革においても、私たちを取り巻く社会や時代を見る見方においても、人の心理の変化を見ることにおいても、とても役立っている。
川喜田二郎氏のご冥福をお祈り申し上げます。