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2.26事件生き証人の語った戦争

2009/08/13(Thu) Category : 戦争
今から8年前の2001年8月、私は痔の手術のために入院していた。
そのときの様子は「痔の手術体験記2001」に詳しく掲載してあるので、是非ご参考にしてください。

尚、当時私は社内関係者にメールで公表して、堂々と1ヶ月の休暇をとった(^^;)。公表により一挙に人脈も広がり(笑)、庶務の女性の方々始め多くのご声援をいただいて、のうのうと人生の夏休みを過ごしたものだ。
http://www.jiritusien.com/g/taikenki-06.htm

入院中、いろいろな方と知り合ったが、折り入ってじっくりと話を聞いた方も何人かいた。不思議に私に話しかけてくるのである。普段心の内に収めてはいても、世間と隔絶されたここだからこそ話せるというのもあっただろう。

その内の一人。当時のメモでKさんとある―当時85歳。今ご存命であれば93歳である。仮にご存命であるならば、もう一度お会いしてもっと詳しくお話を伺いたいと思う戦争体験だが、お名前も連絡先もわからない。

Kさんのお話は、ある新聞社からその話を本にしないかとご本人が持ちかけられていたが、残念ながらその持ち掛けたトップ筋の方自身が亡くなってしまい、日の目を見ることがなくなってしまったという。

私が、たまたまその時期にその病院に入院し、そこでその方と同じ病室になり、話を聴くことになったのも、このことを語り伝えよということなのかもしれない。今ここに公表したいと思う。

当時のメモのまま掲載する。



★-----------------------------------------------------
彼の数奇な運命は小学校1年のときから始まる。
とある日の学校の帰りに大正大震災に会うのである。
目の前の道がすーっと割れていく様子が目に焼きついている。
これで両親をなくし、姉は女中に。

彼は小学校を辞め、白木屋の向かいの何とかいう店の店子になる。
6人いた店子に、番頭がいろいろと学問を教えてくれてそうだ。
そして、20歳から11年間、人生のもっとも輝かしい時期を怒涛の戦火の中で過ごすことになる。勲6等をいただいたらしいが、それでは贖いきれない人生の時間である。


機械のできる彼は工兵隊に配属された。そこは、とび職、漁師、大工などの集まる荒くれ部隊だったという。一般部隊が来る前に橋をかけたり道路を作ったり、危険の最前線につく部隊でもあった。

彼の最初の出兵は、なんとあの「2.26事件」であった。
そう。あの2.26である。耳を疑ったが、彼はその事件の関係者であり、生き残り、つまり生き証人なのだ。驚いたも何も、その後、彼の話に引き込まれてしまう。

2.26のときは、わけもわからず上司命令に従っただけであった。
兵隊である。自分の意志はない。

さて事件後、陸軍は、参加した兵隊達をどのように処分するかを検討した。結果、最前線めぐりをさせられることになる。しかも、斥候や偵察などのもっとも危険な任務だ。彼は忠実に命令に従ったばかりに、その後、最前線の地獄の戦場を駆け回ることになる。そして、183人いた同期は終戦時に8人しか残っていなかったそうである。


戦場の話はどれも生々しいものばかりだった。
彼が見せてくれた。
腹を真一文字に斜めに横切る深い傷跡は、何と日本刀で盲腸摘出したあと。行軍中に盲腸となり、急遽摘出となった。これまで経験したことのない医務担当は、震える手に日本刀を包帯でぐるぐる巻きに巻きつけ、執刀。もちろん、麻酔などというしゃれたものはないから、男6人がかりで手足首を押さえつけられ、そして、腹に日本刀を突き刺された。


次に行軍中、目の前の人間が地雷を踏んで下半身吹っ飛ばされ、自分は爆風で数メートル飛ぶ。破片を体中に受け野戦病院へ。病院とは名ばかりのバラックであるが、ここで一命を取り止める。


ある島で空襲に合う。
経験のない将校は、機銃掃射の方向へ走り出す。
そちらへ行っちゃ駄目だ!彼は、将校にダイビングし、将校の体の上に覆いかぶさって助ける。しかし、この時将校と同じ方向へ走って逃げた兵を、何と一瞬にして2/3失った。

また炸裂段は、横に広がるので、身を伏せなければだめ。それをしなかったために手足が飛ぶ者、首が転がる者…。助かった者たちは、手分けして、負傷した者たちの足をのこぎりで切り離し、貫通した首の出血を止めるため、包帯で巻く…。


とある船上(実は、島や海の名前や戦艦の名前など言ってくれるのだが、さっぱり覚えていない)。
魚雷を受け、ど真ん中から船体真2つ。甲板上にいた彼は、すべてを放り出して迷わず飛び込む。急いで離れなければ沈没の渦に巻き込まれてしまう。これで5000人いた兵隊は半分に。周囲に4杯いた護衛艦は逃げ出し、何と後続の補給艦に救出された…。



盲腸に、地雷に空襲に魚雷。陸空海フルキャストだ。
いったい何度彼は命を失ったことか。

彼は言った。
自分の身を助くるのは自分である。
皆が行くほうに行っては駄目。
自分の勘を信じよ。
とのこと。



いい目にもあった、という。
ある島に上陸。2番手であったため、逃げ出したイギリス軍の駐屯地に倉庫がそのまま残されていた。ドラム缶をあけてみると、何とドラム缶の中に肉!!そのほかにウイスキーやウオッカ。これはいい、と、酒池肉林。飲めや食えや、で、こんなにいい思いをしたこともないという。

それにしても、ブルドーザーなるものを見たのもこのときが初めてで、同じ滑走路を作るにしても彼我の差の何たることか。物量の違いを実感したそうだ。



また、とある城門の中。
入るな、と足止めを食う。見ると、中は軍人と民間人の死体の山。南京大虐殺の現場である。彼は、うまいこと蒋介石にしてやられた、という。なぜなら、20連発式の銃で5発撃ったら熱で銃身が曲がり、まともに飛ばないような銃。さらに物資不足で撃った数を薬きょうの証拠までつけて報告しなければならなかった。こんな日本軍に大量虐殺できるわけがない、というのだ。もちろん彼の推測の域を出ないが、彼の気持ちは本当である。

銃は実際ひどかったらしい。弾の出ない銃を大量生産して肥え太ったんだから、財閥もまた…、と言っておられた。



さて終戦間際。彼らは、まだ戦うつもりでいた。
中国だかサハリンだかに滑走路を作る目的で、ソ連から入手した重油を運んでいた。しかし、折からの豪雪でにっちもさっちもいかず。その最中、終戦となる。

終戦後、GHQにピストルを突きつけられ重油の行方を聞かれる。こめかみにくっついた銃口の感触は今も忘れられないという。
実は、重油のドラム缶は1本1本浜に埋めてあった。しかし折からの豪雪で、それらを近隣農家ほかが持ち去っていた。とある会社は、何千本も倉庫に隠し持っていたという。

武器、弾薬はとある山中に埋めた。15年くらいたってその地方に行ったついでによってみると、時折爆発があり、幽霊が出るとのうわさも出て、有刺鉄線で立ち入り禁止区域になっていたという。

85歳のこのかくしゃくたるおじいさんの話に嘘は感じられなかった。おりしも、ディズニー映画「パールハーバー」がヒットし、小泉首相が靖国問題で物議をかもし、そして終戦を迎えんとするこの時期に、私はこの話を聞いた。





★★---------------------------------------------------
私は、高校時代下宿したころから、下宿先のおやじのシベリア抑留体験などを聞いてきた。それら戦争体験者も、いまや高齢である。
このおじいさんも言っていた。方角だの年月だの、しっかりと覚えている人も少なくなっているだろう、と。彼らがいなくなる前に、彼らが経験したことは、しっかりと記録にとどめておくべきと思う。それが、彼らにとって、孫の平和のためにすることのできる最後のお勤めだ。

人は、話を聞いてもらうことによってその問題にけりをつけ、次のステージへ向かっていくことができる。彼らは話を聞いてもらうまで、彼らの体験をわれわれが受け継ぐまで、彼らにとって戦争は終わらない。

私は、NHKスペシャル「戦争を知らない君たちへ」を見て憤りを覚えた。
それは、「生き恥をさらすな」という戦時教育に対してである。
生き残った彼らは、生き残ったこと自体を恥じて、インタビューにも応じようとしない人がいるという。彼らは責任も取れないまま、重いものを抱え込んだまま、黙ったまま死んでいこうとしている。

彼らは、戦争で苦しめられ、今もまだ苦しめられ続けている。
誰から?「国家」からである。
うがった見方をすれば、「死人に口無し」というが、ある意味、国にとってこれほどありがたいことはないだろう。(*)

われわれにできる責任の取り方は、先ず話を聴くことだ。
死者を弔うのもいい。しかし、まだ生きて孤独に闘っている彼らを救うことのほうが先決ではないか。長生きを喜び奉るだけではなく、“聴く耳”を持て、と。
ご老人一人一人が財産である。
残された時間は、もう多くはない。
いっそ、私がやりたいくらいである。

いろんな“観念”に惑わされないためには、当事者の肉声を聞く必要がある。自分のこの耳で、だ。


<以上、当時のメモです>





■----------------------------------------------------------
<追記>
(*)裁判員制度でも、裁判員は生涯口をつぐまなければならない。
国が勝手に人を選んでおいて、選ばれた人間は人の運命を決定しなければならなくて、そこで背負った重い負担は終生抱え込んで墓場まで持って行かなければならない。これは納得できる制度ではない。

人の心の負担というものを何も考えていない。現在の日本は「心」というものを徹底的に無視した政治がまかり通っているが、この制度によって、どれほど人生に重荷を背負わされ、かつ国の活性度が落ちるかわかっているだろうか。あまりにも制度設計がお粗末である。

「生き恥をさらすな」という戦陣訓がどれほど人々を苦しめ、かつ個々の体験の社会への蓄積、還元を妨げ、もって日本人の民度の向上のチャンスを奪ったか。戦争を通じて反省しなかったのだろうか? 
裁判員として体験したことを話さず墓場まで持って行け、というのは、「生き恥をさらすな」と全く同じだろう! 国の精神性は、戦時中と全く変わっていないように思える。

いつまで国は国民におんぶして甘えているのだ!

「自己責任」などと一国の首相が言うような情けない国だからこうなる。
トップが「自己責任」と言うことは、俺はお前たちの面倒は見ないよと言っているのと同じ。だから上は責任をとらず、一方的に下に押しつける壮大な無責任社会ができてしまった。
大人が責任を持たず、子供に責任を押しつける惨憺たる社会が現代だ。

しかし、そういう見識のないトップを選んだのもまた国民だ。
国民もいい加減、気づこうよ。
親が子供に責任を持つのは、当たり前なんだよ。







「総員玉砕せよ!」―国から「死ね」と言われた若者から、親に「死ね」と言う若者へ

太平洋戦争開戦月(昭和16年12月)の「主婦之友」



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裁判員制度と赤紙

中尾先生、こんばんは。

今回の記事、子供の頃から祖父や父親から聴いた大阪大空襲の体験談、目の良さが逆に災いしてグラマンの監視役をしていたと云う叔父の少年時代の体験談などと重なって、映像が浮かびました。

クローズされた集団の無意識が人や生活を奪うと云う意味では現代の会社社会に通じるところも沢山あると思います。

さらには、裁判員制度。
この制度を最初に聴いた瞬間に「とうとうじいちゃんが言ってた赤紙とやらを、この国に復活させやがったな。」と感じました。

「国が勝手に人を選んでおいて、選ばれた人間は人の運命を決定しなければならなくて、そこで背負った重い負担は終生抱え込んで墓場まで持って行かなければならない。」・・・この制度の異常さは、ここに集約されていると思います。

静かな赤紙の復活は、無意識集団が生んだものなのか、クローズされた集団の意図的なものなのか。

いづれにしても、「命令」で人を「裁」かなければならないことは、語り部の教訓があれば気づくことが出来るはずですね。

 
    
 
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