太平洋戦争開戦月(昭和16年12月)の「主婦之友」
ここに1冊の貴重な本がある。
昭和16(1941)年12月1日発行―つまり、太平洋戦争が始まった“月”の「主婦之友」だ(随分前にお借りしたもの)。
母が11歳、今で言えば小学校5年生の時の雑誌である。
平和であれば思春期真っ盛り、性を意識し始めたり多感な年頃だ。
しかし、母が1歳の時に満州事変が勃発し、、小学校に上がる年2.26事件が起こって日本は大日本帝国となり、2年生の時には日中戦争が始まり、4年生の時には国民服を強制された…つまり、物心ついて以来、不安な世相と戦争が当たり前という世の中で、母は5年生を迎えた。
その間、中国では日本人が鬼畜化し、2.26に関わったKさんは最前線で幾度も死地を彷徨っていたのである。それらのことが内地に知らされるはずもない。『こちらの日常の中、相手は地獄にいる』のだ。
【日常の隣にある戦争】
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母が5年生になった昭和16(1941)年を見てみよう。
1月 1日 全国の映画館でニュース映画上映開始
1月 8日 東条陸相「戦陣訓」-「生きて虜囚の辱めを受くる勿れ」
1月23日 人口政策を政府閣議で決定「産めよ増やせよ」
3月 3日 国家総動員法 改正
4月 1日 尋常小学校を国民学校と改称
8月30日 金属回収令
10月16日 近衛内閣総辞職(→18日東條内閣成立)
そして…この「主婦之友」が発行されてわずか一週間後の12月8日、真珠湾奇襲により太平洋戦争が始まった。
このブログを読まれている方は、既に戦争のむごさを知っている。どのように終わったのかも知っている。しかし、当時この「主婦之友」を読んでいた人々は、この地上に「地獄」が現出するとは思ってもいない。現在の戦争を知らない多くの人々と同じように―。
第一世代が人生脚本を作り上げるまで(生後10年ほど)に生きた背景を知ることは、その世代の考え方や心理を知る上で重要だ。また、それを知ることが私たち第二世代の生き苦しさを理解するきっかけとなる。現在の70代~80代は、どのような時代に瑞々しい時を過ごしたのだろうか。下記の記事の中から、いくつかピックアップしたい。
(旧字体や仮名遣いは現代のものに置き換えてあります)
【太平洋戦争開戦月の「主婦之友」】
1-日米問題 (→下記)
2-支那事変
3-満州への夢
4-銃後の生活
5-産めよ増やせよ
6-石川武美氏の子育て
●「日米問題と婦人の覚悟」―海軍報道部 平出大佐と一問一答
日米関係は予断を許さないが、『国民が、どんな条件でもいいからとにかく平和になりさえすればいいという気持ちを持つと、米国に内兜を見透かされて、とうてい我慢のできないような条件を持ち出される。そうして結果は案外早く戦争になるのじゃないかと思います。』
『日本の大理想の実現のためにはもっと大きな戦争にはいることも厭わないという気迫があるならば、向こうでも、これはうっかりした条件を出せば戦争になるかも知れん、(略)こう米国が思うとすれば、大体戦争はなくてすむかも知れない』
『将来戦では、家庭に一番痛切に響いてくるのは経済です。そのときに婦人が、食糧が足りない、何が不自由だと言って悲鳴を挙げれば、第一線が闘わないうちに、國は敗れると思います。主婦が歯を食いしばって、「家庭は城塞なり」という気持ちで、毅然として家庭を守り通すならば、我々軍人は、外で安心して敵を撃滅することができるのです』
(*この記事を読むか読まないかの内に真珠湾奇襲があり、国民は否応なく戦地に送り込まれていくことになるわけです)
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●「支那事変はどうなるか」―陸軍報道部 中島少佐と一問一答
『(支那は)四年半の日本軍との戦いにおいて、日本に対する敵愾心、抗日思想というものは民族思想にまで変わりつつあると思います』
『しかも支那人は、困苦欠乏に耐える精神と、犬猫と大差のない最低の生活に甘んじる生活力を持っている。(略)これが、弱っているけれども命を断つことができない原因ではないかと思います』
『ここに二人の人間が殴り合いをやって喧嘩を始めたとします。一方はさんざん殴りつけられて、目も見えない、足腰も立たない、勝負は明瞭についているけれども、相手の心臓を突かない限りは、命を断つことはできない、即ち絶対的勝利ではない。そのうえ弱ってくると後ろから注射をするやつがいる、薬を飲ませるやつがある、栄養分をとらせるやつがおるから、こっちは相手が弱っても手をゆるめないで、弱れば弱るほどますます押さえつける。』
『援蒋の如何に拘わらず、敵の弱り目に乗じてますます猛烈に攻めつけることが必要です』
『この状態において、日本がまだ一億国民の結束ができず、この国際危局に処して躊躇狼狽するような様子を見せたとすれば、それが直ちに向こうへ反映する。反対に、如何なる事態が起こっても、日本は断固として大東亜共栄圏の確立のために進むのだ、国民は一億一心、どんな苦難にも耐え抜く、その気迫と決意を示すのならば、汪政権の威令は行われ、抗日支那人もこの抗戦は無意味だと悟るのではないかと思います』
これがなんとまぁ、婦人の読む雑誌に書かれてあることです。
子育てに置き換えれば、喧嘩になったら相手の息の根を止めるまでやれ、と言っているようなもです。
時代の価値観というものが、いかにいい加減なものかがわかるでしょう。みんなが言っていること、マスコミが流していること、そのときの常識が“正しい”とは限らないのです。
前々回の記事で、2.26をはじめ、太平洋戦争の究極の最前線を生き延びたK氏が言ってましたね。
『自分の身を助くるのは自分である。
皆が行くほうに行っては駄目。
自分の勘を信じよ。』
…今更ながら私は、この方からお話を伺うことができた奇蹟を思っています。
2.26にかり出されたばかりに、その後死んでしまえとばかりに最最前線をたらい回しにされる運命。しかも、その最最前線においてさらに斥候や偵察という最も危険な任務。
その過酷すぎる運命と闘い、その方は生き延びたのです。何らかのご加護がなければ、サバイバルできたとは思えません。さらに、183人中8人しか残らなかった同期の方も、あいついで亡くなられたでしょう。
つまり、私がK氏と出逢わず、出逢ってもK氏の話を聴かなければ、K氏が体験された一億分の一の最前線の話は闇に葬られていたわけです。この貴重な生き証人の方にお会いでき、お話を伺うことができた奇蹟を、今更ながら思わずにはいられません。
そして、現在のこの時点で、このことを記事にしたこと。
つい数日前までは、記事にするつもりはなかったのです。しかし、8月に入って戦争シリーズを書き始めたとき、最前線の戦場の現場、非戦闘地域における加害と被害、そしてそれらのことを全く知らない生活者の現場―そのすべての現場から戦争というものを立体的に見ることができる材料を、今自分が手にしていることに気づきました。
最前線の戦場の現場はKさんから聴き、
戦争被害がどのように現代に影響を及ぼしているのかは、広島や沖縄における家族カウンセリングを通じて痛切に実感し、
戦争加害(「日本鬼子」上映会)については、娘からもたらされたものです。
いろいろな人から私の元へ託されたのです。
だから、書かなければならない。
知っているものの責任として書かなければならない。
私がものを書くときはいつもそうです。
私が人々の体験を手にし、だからこそ、それを世に伝えていく必要がある。そういう思いで、私はこれまでも本を書いてきましたし、このブログも書いています。私は、いろいろな人の思いの代弁者なのかも知れません。
それで、今この時点で書くことになった理由がわかった気がします。
死地を生き延びたその方は、なぜ生き延びることができたのか?
そう、
皆が行く方に行かなかったからです。
自分の勘を信じたからです。
一見平和に見える現代ですが、経済戦争を闘っている現代の世間の“常識”は戦時中と同じくらいにおかしくなっています。ですから、まともな人の方が「自分がおかしいのではないか」と思うくらいの状況になってきました。
気持ちを言うという“当たり前”のことでさえ“わがまま”と言われます。自分の感性やそれを口にすることは「非国民」と糾弾されるくらいのことではないかと思っている人さえいます。「感情は悪、感情で行動するな、感情を出すな」という禁止令(=見えない言論統制、行動規制)に人々は縛られています。
だからこそ今、死地を生き延びたK氏の言葉が意味を持つのです。
国全体がおかしくなっていく中で、その激流に翻弄され、何度命を失ってもおかしくなかった状況の中、それでも生き延びることができたK氏。
私は、今こそ、このK氏の言葉をかみしめたいと思います。
『自分の身を助くるのは自分である。
皆が行くほうに行っては駄目。
自分の勘を信じよ。』
私は本日「終戦の日」、確かに皆様にお伝えしました。
戦争は終わっていません。
私は、この言葉を伝えるために、K氏のお話を聴いたのだと、今感じています。「奢るな」というメッセージを人々に伝えるために、平家の滅亡という壮大な物語を琵琶法師が語ったように、人間にとってほんとうに大切なことはストーリーによって伝えられます。
K氏がその過酷な体験を通して伝えたかったことは、上記の3つの言葉です。
それは、誰にでも言える言葉です。どこでも聞く言葉です。
だからこそ、その言葉が本当であることを理解してもらうために、本物の重みが必要なのかも知れません。K氏の重みのある人生。そのK氏の口から出た言葉だからこそ、真実があるのです。
今、私はなんだか一つの役割を果たしたような思いがあります。
「今」が、この8年間抱え続けてきたものをはき出す時期だったのでしょう。それが何を意味するのかは、それぞれの方がお考えいただければと思います。
どうか、皆様が、しっかりとこの言葉を受け止めていただけますようお祈りしております。