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わたしが一番きれいだったとき―母に捧げるレクイエム

2009/08/20(Thu) Category : 戦争
母は昭和5年生まれ。戦争の世紀を生きてきた。

母が生まれる前の年、金融恐慌により「大学は出たけれど」の時代に突入。
母が生まれた年、2大政党(政友会は地主、民政党は財閥)は貧困な農民、労働者の敵となった

母が 1歳の時、恐慌脱出のため日本は大陸進出を企て満州事変。
母が 2歳の時、満洲国建国。犬養首相が暗殺されファシズムへ。
母が 3歳の時、作家小林多喜二が拷問で殺され、
母が 4歳の時、冷害、旱魃により娘の身売りがはやり、
母が 6歳の時、2・26事件が起こって国は大日本帝国となった。
母が 7歳の時、日中戦争が始まり
母が 8歳の時、国家総動員法で全国民が国の道具となった
母が 9歳の時、国民精神総動員委員会で国は心も縛り
母が10歳の時、国民服を支給して国民をロボットと化した
母が11歳の時、真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まる。
母が12歳の時、ロボットでない人間を非国民と言うようになり
母が13歳の時、敗走を転進とごまかす中、学徒出陣が始まる
母が14歳の時、一億国民総武装に追い詰められ竹槍訓練が始まった
母が15歳の時、本土決戦に追い詰められ、原爆!「一億総ざんげ」


生まれて10年の経験の中で、人は人生脚本を作る。
母は、貧富の差が激しくなり、社会が荒廃し、監獄化、監視国家、軍事国家となっていく世相の中に育った。
母は、8人兄弟の真ん中で、両親からの愛情をもらえずに育った。
母は、国の言うがままに体を操られ、人生の選択肢など「死」以外にない中に育った。
母は、すべての感情表現を禁止する風潮の中で育った。

国自体が人を道具にするハラッサーであり、
人はディスカウントされ、命が道具にされた

思春期、多感な時期、
瑞々しく輝ける時

そのときに母が見たものは、
様々な果樹が植わって桃源郷のごとき畑が爆弾で穴だらけになる光景であり、前足が吹き飛んで血だらけになって泣いているかわいそうな子牛の姿だった…




---------------------------------------------------------
私が、もしこの時代に生まれていたら、いったい誰を恨めばいい
その行き場のない怒りをどこにぶつければいい

奪われてしまった大切な人を時間を
どのように返せと言うのか


この理不尽に対する怒り
人として大切にされなかったことに対する怒り
これから奪い返してやるという意地と貪欲
自分を認めてほしいという飢餓
愛への飢え……

この世代に巣くう心の闇
強い禁止令どドライバー
そして、もはや金輪際見たくはない存在不安
それらの衝動が、この世代を駆り立て走らせた


その衝動が私たち子供にも降ってきた
子供に手綱をつけ、我慢させ、競争をあおった
そして、私の中にもIP(インナーペアレンツ)が植え付けられた

親にさんざん反発して生きては来ても
そのIPは、結婚し子供ができると発動する

私は、子供を追い詰めた後悔の中で
その連鎖を断ち切った




---------------------------------------------------------
今は、思う。
悪いのは戦争である。
その影響が3世代にわたった。
断ち切らなければ、もっと続いていく。

私が断ち切ったのは、戦争の連鎖だったのだろう。
そして、私が自ら戦争の連鎖を断ち切ることができたために、我が家は変わった。

今苦しまれているご家庭は、おそらくだが、まだ戦時中にいる……



---------------------------------------------------------
平和をどのように実現したらよいか?
簡単なことである。

戦争が何をした? 個性を壊し、家庭を壊した。
そう、“戦争”の敵は、「個性」であり「家庭」なのだ。

ならば、「個性」と「家庭」を大切にする政治を執り行うこと。
それこそが戦争回避の道である。

匿名性と家庭崩壊は戦争に近づく道なのだ。

あの原爆の地獄の中で人は何をしたか。
茫然自失の中で、ただただ家族を求め合ったではないか。

政治家や会社員が、政治や仕事を大切にするのではなく、家族を大切にすること。
家族を愛するためには、まず自分を愛すること。
自分を愛するためには、自分を縛っているものから解放すること。

私は、自らの連鎖を断ち切ったとき自分の中から怒りが消えたように思う。
そして、我が家が変わったのだ。

こうして家庭が変わっていけば、人々の望むものが変わる。
それが、社会を変え政治を変えていく。

一人一人の自律への闘いこそが、平和につながる道なのである。



だから、

人と争わず、

自分と闘え!




---------------------------------------------------------
逆に…
断ち切らなければ、自分が断ち切っていない世界の価値観を引きずっていく。自分の棲む世界が現実だと思っているので、その価値観に合わなければ非現実的と言って切り捨てる。私は、そういう輩を似非現実主義者と呼ぶ。自分と闘っていないからだ。

その者は、終わりなき無限ループの地獄を生きることになる。そこは、自分があるがままの自分として生きられないコントロールとストレスの世界だ。

自分に問うてみよう。
あなたが従っている信念は、本当にあなたのものか。
あなたが自らを縛っている価値観は、自ら作り出したものか。



でもね…
これらのことをもはや親に問い詰めるつもりはない。
あの時代を体験した親は、もうここまでくるだけで精一杯だったのだ。
誰にも愛されない飢えた幼子が、ただ生き延びるためだけに歩いてきたのだ。



もうそれだけで十分である。



今、私は親を抱きしめてあげたいと思う。
親に甘えた記憶なき人生が哀れでならない。

この美しい地球に生まれたのに、瑞々しい感情を持って生まれたのに、
血なまぐさくどす黒い空気を吸わなければならなかったことが哀れでならない。
安らぎのない父と母―次に生まれてくるときは、平和な時代に生まれてきてほしい。

涙が後から後からあふれてくる……




---------------------------------------------------------
母に贈ろう





―わたしが一番きれいだったとき― 

                茨木 のり子


わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね









「自分の感受性くらい」―茨木のり子さんのメッセージ
昭和一桁世代への鎮魂歌(1)-70代の背景
昭和一桁世代への鎮魂歌(2)-時間のモノサシ化
存在不安の世代間連鎖
気持ちを語れ




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私の中の戦争

私の父は昭和2年生まれ。あと少しで戦争に駆り出されるところだったという。

だから彼の心には中途半端な《愛国少年》の心だけがいつまでも胸中にくすぶり続けた。その証拠に、父の書斎には三国同盟の有名な将軍の顔写真が額に入れられ、私が大学生の頃まで飾られていた。つい25年ほど前のことだ。

「面従腹背」という言葉があるが、父はどうも戦後、生き延びるために表面は英語をマスターし、密かに●●語の勉強を続けていたらしい。生まれて間もない私と母を連れ、憧れ?を抱いて60年代に仕事で渡欧。

数年後に帰国子女として日本に入国した私はガイジン扱いされ、ずいぶん苦労した…。

当時は家に一台だったテレビ。小学生時代から中学生時代、ずっとテレビ映画と言えば「戦争映画」ばかり。有名な作品の殆どはこの頃に観てきた。4時間もある大作「アラビアのロレンス」も父に連れられ、遠く銀座まで観に行った。

この父と同じく、我がモラ母も戦争を引きずっている。規律と夢想で縛った《監獄》の看守役から、やがて気がつくと鬼面の専制君主と化していた。

私を「過去を嘆く」だけの人間と断罪する人は多いだろう。けれども最近、道で立ち話をしたヨーロッパ人からこう問いかけられた。「何故、過去を忘れようとするのか? 過去があるから今がある」と。この言葉の余韻が未だに消えず、私は遠い昔に少ししゃべった某国の言葉をいま少しづつ、勉強し始めている。

中尾先生がかつて仰った通り、たぶん私は「戦場」の中で育ってきたと思う。その後遺症がまだまだ消えない。

 

自分の感受性くらい

茨木のり子さん。大好きな詩人です。
この詩を初めて読んだのは高校生のときで、本当にガツン!とやられた感じでした。
どんなときでも
「私は嫌だ!」「私は嬉しい!」
こんな当たり前な、子どもっぽい感情が持てて、意識できて、言える…そんな自分でいたいです。
政治とは“生活”です。経済とは“生活”です。
生活とは、その人の人生であり、その人そのものです。
個人の生活・人生から書け離れた、ゲームのような政治や経済は…もうやめて欲しいと願っています。

自分の感性を信じて、自分の感性に従って、自分の人生を生きていける…みんながそうできる世の中であって欲しいです。“自らを由とする”…そんな生き方が誰もが出来る世の中に。
茨木のり子さんの詩で、もうひとつ好きな
「倚りかからず」のように。

 

怒りは母から娘へ受け継がれた

私の母は、昭和9年生まれ。

母も同じだったのでしょうね。

>奪われてしまった大切な人を時間を
>どのように返せと言うのか
>この理不尽に対する怒り
>人として大切にされなかったことに対する怒り
>これから奪い返してやるという意地と貪欲
>自分を認めてほしいという飢餓
>愛への飢え……

母も気づいていない、母の中の怒り。
私の中にも同じ怒りがありました。
それを自分の中に感じた時、とてもとても苦しかった。



>わたしが一番きれいだったとき
>わたしはとてもふしあわせ
>わたしはとてもとんちんかん
>わたしはめっぽうさびしかった

私も同じ。戦争が母から奪い、母が私から奪ったもの。


私も長生きしよう。




 
    
 
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