政権交代が示した第一世代の退潮と第三世代の登場
【時代が世代間連鎖に与える影響-日本全国版】
前々回に書いた120年にわたる保守王国を支えたのは、この第一世代である。この世代は、存在不安を抱えている。
『空間を移動する車は手放せない。
だから、道路が舗装されるのも、高速が通るのも無条件に是。
なぜ作るのかは問わず、ただ不安がある人間は整備されて安心を得ようとする。
(このような不安な人間達が、鉄道網と道路網を創り上げたと実感する。町の形は心の反映。無意味な道路が造り続けられることも、要塞のような家が増えることも、不安な心の反映。果てしがない。「高度成長」とは、不安に追い立てられた者達の哀しい墓碑銘)
不安人種は、家の中も外(町)も空虚な人工物で埋め尽くす。
さらには、空虚な空間を無意味な音で埋め尽くす。』
【「気持ちを語れ」より】
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すべての現象は「心」の現れである。
実際、なぜ私が訪問カウンセリングするかといえば、家のカタチ―家の配置や内部の間取り、家具の置き方、家具の量、座る位置等々のすべてに、家人の心が見事に現れているからだ。それはもう隠しようもなく赤らまさに出ている。玄関の中に一歩はいれば、そこはもう裸の心だ。
同様に、今の日本の姿は、「不安」がそのまま形になって現れているように見える。そして、このようなカタチを遮二無二求めたのは、存在不安を見たくない第一世代だった。
が、その世代も老いた。
老い先が短くなってくると、この埋め尽くす執念とパワーがなくなってくる。
つまり、存在不安を見たくないために道路やハコモノを作れという深層心理的ニーズを強烈に持つ第一世代が、社会の表舞台から退場していくのだ。道路やハコモノを作る必要がなくなっていくのも当然だった。
(*このように当たり前のことだが人間社会は「心(深層心理)」で動いている。合理的判断を下す経済人モデルを用いて経済学が社会をシミュレーションすることに無理があるのは当然なのだ。
人間社会を分析するのであれば、その行動の背景にある“不安”の問題をすべての学問は念頭に置かなければ意味がない。そして、そこを追究していくと“愛”の問題にたどり着くはずだ。学問をはじめすべての人間行動は、結局は“愛”の問題にたどり着くのである)
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存在不安を持つ第一世代は「気持ち」を大切にできなかった。喜怒哀楽は「安心」という土俵の上でしか満喫できない。「不安」という土俵の上に生きる人にとっては不安から逃げることだけが人生のすべてであり、喜怒哀楽どころではないのだ。
第一世代の欲求はとどまることを知らないブラックホールであることは、体験者はおわかりであろう。所詮それは心の空洞をモノで埋める代償行為であるから、際限があるはずもなかった。国家予算がとめどなく膨らんでいくのも無理はなかったのである。
また、第一世代は構築したシステムを維持することだけを第二、第三世代に強要した。不安を見たくないが故に彼らは下の世代を手足にした。手足にされた人間は怒りを持つから、日本は怒りに満ちた国に変わった。また、喜怒哀楽を許さない社会から「心」が失われていった。
不安(第一世代)が維持した120年にわたる中央集権官僚国家体制が結果として何をもたらしたのか、それは子ども達を見ればよい。子どもは社会の鏡である。130年前の子ども達は笑顔だった。今、子ども達は下の写真のような笑顔を見せているか。
【「笑顔の国」から「怒りの国」へ】
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その不安まみれの第一世代の退潮に変わって社会に登場してきたのが、「心」に飢えを持つ第三世代だった。今回、民主党の登場を圧倒的に支持したのは、その第三世代である。
民主党が掲げた「コンクリートから心へ」というスローガンは、潮目が変わったことの象徴だった。それは、存在不安を持つ第一世代の退潮と、心に飢えを持つ第三世代のニーズの登場という潮目の変化を表していた。
そして、政治の中核を担うのは50代―私たち第二世代である。
第一世代を背負ってきた第二世代は、今、その重荷を下ろすと同時に、「親の子」から「子の親」になるために自律することが望まれている。そのために第二世代は、心を亡くす忙しい社会から一歩身を引き、まず自分自身を救うことが必要だ。
いずれにせよ、これからようやく戦争でずたずたにされてきた日本民族の心のケアが始まるのだ。これからが本当に、「平和」という言葉に実感が伴ってくる時代になってくるだろう。
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ハラスメント界は、今や社会全体に広がっている。
親から愛されず、存在不安を抱えた人々で日本は満ちあふれている。
いまや「子どもの国」ではなく「餓鬼の国」だ。
だが、潮目は変わった。
これからは、「カタチ」ではなく「ココロ」の時代がくる。
「代償行為」では満たされず、「本物」を求める時代になる。
心が追い詰められている第三世代に対してニセモノは通用しない。
これからは、自分の気持ちに正直に生きる人が浮かばれる時代になる。
ハラスメント界と自律界は分かれていくだろう。
存在不安のある人間は自分の内側を見たくないので、常に気をそらす対象を外に必要とする。だから、ゴチャゴチャしたところやトラブルは、意識表層で文句を言いつつ深層心理ではウエルカムなのである。なぜなら、常に文句を言ったり心配したりすることで、自分の心の内側を見なくてすむからだ。それ故、近隣トラブルの多い地域になぜかハラッサーが引っ越してきたりする。類は友を呼ぶわけだ。
また、ハラッサー(人を道具にする人)は、相手が道具になり得る人間かどうかを敏感に察知する。だからなり得ない人間(自律した人)には近づいてこない。そして、よく「波長が合う」というけれど、自律した人は自律した人と出会う。つまり、ハラッサー達はゴチャゴチャと集まり、自律した人々は自律分散した形で棲み分けが進んでいくだろう。自律分散する人々の受け皿となるのが、自然と共存&循環できる地域だと思う。
こんな地域がいいなぁ(↓)
「里山っ子たち」
自律界の人間になることは誰でもできる。
ただ、自分の気持ちと向き合えばよい(これが難しいけれど…できる)。
その後に待っているのは、生きることを楽しめる人生だ。
なるべく多くの人に、自律してほしいと願っている。
ハラスメント界は、これから消えていくのだから。