自律とは、どういうことでしょうね
私が思う自律のゴールはとてもシンプルです。
「自分が自分の気持ちで生きていること」
思いがあって意志となり、意志が現実を生んでいくのがこの現象界です。
つまり、根っこにあるのは思い(気持ち)。
気持ちこそが自分自身であり、肉体はその表現器官です。
私たちは五感五体を使って気持ちを表現し続けていく―それが人生です。
そして、どのようなときに気持ちが最も喜ぶでしょうか。
それは、人とつながったときです。
ですから、気持ちのままに生きることが社会の支障をなくしていくのです。
一人一人が個性全開に生きて高め合っていく共生社会になるでしょう。
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一見、脳天気な性善説のように思えるかもしれませんね。
でも、生きていること自体が素晴らしいことなんだと感じていますから、仮に善悪二元論で言えば性善説と言うことになるのでしょうね(存在に善も悪もないのですが…それに、そもそも人間の可能性を信じることができなければカウンセラーという職業は成り立ちません)。
私が今わが子に望むことは、ただ気持ちのままに存分に、せっかくの生を受けたこの人生を満喫してほしいということのみです。それ以外にありません。そして、それはすべての人に願っていることです。
なぜそう思うのか。それは、私がわが子を追い詰めた経験があるからです。悔いても自分のやってしまったことは戻せません。後は一緒に背負いつつ遠くから見守るしかないのです。心の大切さに気づいた人は、皆そうなっていくのだろうと思います。
しかも、心の大切さに気づけば、常に「これは誰の問題か」をふまえて行動できるようになります。なぜなら、人の問題に首をつっこむことは、その人の成長を妨げることになることが分かるからです。それこそが罪なのです。
また、たとえよかれと思ってやったことでも、相手が望んでもいないのに手を出せば、手を出した人がカルマを背負うことになってしまいます。自分のやった行為は自分に返ってきます。
そういう罪深さや怖さを知っているから、相手の気持ちは聴いても、相手の問題を引き受けることはしません。それが相手を大切にするということなのです。…このようなことが、相互に理解できている社会があれば、その社会には競争も武器も必要ないことが分かると思います。つまり、気づきさえすれば上記に書いたような共生社会も夢ではないと思うのです。
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しかし、気持ち(感情)を出させない仕組みが散りばめられています。
その仕組みの中で、心は人生脚本や存在不安やIPによってがんじがらめになり、抑圧された感情は「衝動」となってその人を突き動かします。その突き動かされた人生の中で子供が生まれ、子はいろいろな思いを持ちつつ、いつしかその連鎖に巻き込まれていくわけです。
感情は自分が受け止めさえすれば落ち着くので、衝動にはなりません。自分が受け止めようとしないから、逆に衝動化して自分を突き動かしてしまうのですが、まぁ一般的に感情と衝動を区別しませんから、“感情”自体が悪者扱いされ、感情を支配(コントロール)することが是とされます。
ここに巧みなすり替えが行われているのですが、感情=自分自身ですから、要は自分を支配せよと言うことですね。その結果、自分の感情さえ分からない人が増大しているのが現代です。
では、どうなっていくのか。
冒頭の方で、人の気持ちが最も喜ぶのは人とつながったとき、という事を書きましたが、それとは真逆の方向に行くのです。以下は、私が体験している事例です。
親(or子)とつながれない。
友人とつながれない。
社会とつながれない。
仕事とつながれない。
自分の感覚とつながれない。
自分の感情(今の感情及び過去の感情)とつながれない。
自分の過去とつながれない(記憶がない。あるいは、ヒプノなどで過去にさかのぼろうとしたら真っ黒)。
当然、自分の未来ともつながれない…
すべての支配原理の根底にあるのは、分断です。
自然と人間の分離、男女の分離、世代の分離、普通と異常の分離、地域社会の崩壊、家族の解体…ときて、ついには自分が自分とつながれない究極の不安の中に人は置かれるようになっているなぁと感じます。
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このブログでは、あらゆるつながりをとりもどすことをテーマとして記事を書いています。では、どこまでつながると「自律」なのでしょうか。
自分の五感を取り戻したとき。
自分のICとつながったとき。
自分の人生脚本を発見したとき。
自分が自然の声を聴けるようになったとき。
自分のカルマを知ったとき。
自分の天命を知ったとき。
自分が宇宙とつながったとき……
果てしがないですね。
そう、終わりはないのです。
たとえば、生まれたと思っても気づくとIPに支配されていたり、孤独と向き合ったと思っても知らずゲームを仕掛けていたり、つながろうと意識してもつながってはいけない人生脚本に邪魔をされていたり…。歩き始めてからも、いえようやく自分の足でよちよち歩き始めたからこそ、滑ったり転んだりするのです。それが自分の足で歩くということ。
私は、こう見ています。
今自覚的に自分と闘っている人は、脚本に足下をすくわれようと、IPに惑わされようと、存在不安に耐えられず時に間違った選択をしようと、既に自律しているのです。つまり、
自律とは「自分の気持ちと常に向き合う姿勢」のことなんだと思います。
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私たちはともに、気持ちで生きる世界に向けて一緒に歩いているのです。私も皆さんと同じ仲間です。
このブログに書いていることも、その共に歩いている皆さんから得たものをフィードバックするに当たって、最も説明しやすい用語を持ってきているだけのことで、書かれていることはすべて個々人の体験から来ています。私がお一人お一人から私が学んだものをフィードバックさせていただいているのです。
言い換えれば、書かれていない体験はたくさんありますし、自律に至る道もまた人の数だけあると言うことを実感しています。
日々、私は魂の奇跡と感動の中で過ごしています。1日に受け取る電話の方々。そのお一人のお話の中からもいくつもの発見があるのです。「創造が誘発される」という意味の「創発(emergence)」という言葉がありますが、私と相談者の間で気づきがポコンと出現 (emergence)するのです。
それは素晴らしい気づきの宝庫で、もし私に書く能力がもっとあれば、1日に10本でも20本でもヒントとなる記事を書きたいくらいなのです(もちろん事例の場合は、掲載許可をいただいた上でですが)。しかし、その能力も余力もありません。
それほどに、お一人お一人が自分の中に宝を持っていらっしゃいます。書物を読まなくとも、自分の中と向き合えば深い気づきを得ることができるでしょう。お一人お一人がみな素晴らしい。それぞれの体験と思いの中に宝があります。
だから、
外に意識を向けるのではなく、
思考に意識を向けるのではなく、
気持ちに意識を向けてください。
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私が行っているのは、その方が自分の気持ちと向き合いやすいようにお手伝いしているだけです。答えを持っているのは私ではなく、その人です。
IPが強いとつい方法論にとらわれて、こうしなきゃ、とか、こうでなきゃ、とか、自分はこうじゃないから不安、とかダメなんだ、とか…。IPは四六時中自分を責める準備をしていますから惑わされないでください。
人は人、自分は自分です。
向き合う姿勢を持ったときに、もうあなたは歩き始めています。
歩き方も、ペースも、コースも、人ぞれぞれです。
焦らずにいきましょう。
そして、その人が自分にたどり着けば、あとは苦しみも悲しみも、すべてが自分のものになります。言い換えれば人のせいにはできなくなるということです。苦しみや悲しみがなくなるわけではありませんから、何か損した気分?―とんでもない。1分1秒のすべてが自分の人生になるわけですから、魂は大喜びなのです。
自分の足で歩いて滑ったり転んだりしても、それは苦ではないでしょう?
自分の人生の責任を自分が取ることのできる一生を歩むことができる―それが何より嬉しいのです。
そして、死ぬまでにそういう思いにたどり着けばいいのです。
この1週間の記事の中で登場した方々も、いろいろな目に遭いながら、自分の思いを大切にしながら、一生懸命に歩いている方々でした。
私もまた、皆さんから学びつつ、ともに歩いている一人なのです。
躓くこともあります。
そこに自分と向き合うきっかけがあります。学びがあります。
そして、休んで心が回復したら、また立ち上がって歩き始めればいい。
今、こうして歩いている人が、どんどん増えているように思います。
歩き始めましょう。
あなたは一人ではありません。
【flumpool 「Over the rain~ひかりの橋~」】
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