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中尾英司

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家族の再生は、ICに「ありがとう」を言うことから始まる

2010/01/13(Wed) Category : (家族)カウンセリング
『この頃、ブログのコメントを読んだり、お母さん仲間と話したりして、思うことがありました』というお母さんからお便りをいただきました。『どなたかの1歩踏み出すきっかけになって』ほしいという思いから書かれたお便りでした。

『けれど、いろんな問題や悩みを抱えておられる方たちに、迂闊に物を言えないのではないか、私自身が思い込みが激しいだけに、まだまだ気持ちを出せない私がこんなコメントをしても大丈夫かなあ』と、心配されていらっしゃいます。


『まだまだ気持ちを出せない』―気持ちを感じる経路が閉ざされていた方でした。生まれて以降外に出されずに蓄積され続けてきた感情は、肉体の中に強引に収めるためにコンプレッサーで圧縮され、硬質な黒く重い塊となり、やがてその自らの重力で核融合をし始め、真っ赤なマグマがその黒い塊の表面に亀裂を走らせている―今にも、ビッグバンを起こす寸前のブラックホール……私が感じたのは、そういうイメージでした。

しかし、それほどの巨大な感情エネルギーを本人は感じることができない。ただ、息をするのも苦しいだけ。そして、脈絡なく「刺す」という単語が脳裏にポッと浮かんでは消える。まるで、その黒い塊から、経路を通らずテレパシーのように脳裏に送られてくるかのようでした。

その塊を胸の奥から取り出したい。ラクになれるのであれば、胸を突き刺すことも怖くはない―ちょっと揺らすとその瞬間に大爆発する爆弾。そういうギリギリの崖っぷちに立っていた方でした。

カウンセリングを始めると、感情の代わりにイメージがどんどん展開しました。特殊能力でした。恐らく、感情にアクセスした瞬間に壊れるおそれがあったのでしょう。ダイレクトに感情を出すのではなく、まずはイメージとして出していく。自我防衛システムがそういう方向を取らせたのかもしれません。

しかし、来る日も来る日も荒唐無稽なイメージが展開していくのを追い続けることも、相当なエネルギーが必要でした。荒唐無稽に見えてそのすべてに意味があるので私には面白いのですが(失礼 ^^;)、わけのわからないことを深層心理から強制的に見せられる本人にとってみれば、苦行以外の何者でもありませんでした。

そういう苦闘の中、お子さん達が変わり、ご主人が変わり、今ようやくICの感情とアクセスしようかというところへきつつあります。その現時点での現況報告です。皆様のご参考にもなると思い、掲載させていただくことにしました。
感謝申し上げます。





★---------------------------------------------------------

いつも、皆さんのコメントに勇気づけられています。
自分と向き合い心の問題に気づくということは、1歩踏み出すまでがなかなか大変なんだなあと、日頃、周りの方々を見て思います。私自身もそうでした。

けれど、それができるとできないのとでは全然違う。
子どもにまで影響してしまう怖さを思います。
まだまだ未熟ですが、身近なことだと思いますので、私自身の今までの後悔の念を込めて、中尾先生に教えていただいたことを少し伝えさせてください。

 

中尾先生のカウンセリングを受けて2年になります。
初めて先生にお会いした時、子どもに対しては、口をついて出る言葉を飲み込むよう言われました。翌日から気をつけました。

黙っていて、仮に子どもに不登校や引きこもり、その他様々な問題が出てきたら、それは全て、今まで子どもを苦しめてきた私の責任だと覚悟しました。
そして、そうなった時は、世間体も常識も捨てて、子どもを否定しないように、一緒に寄り添っていなくてはと思いました。

先生は一言も私を責められなかったのに、私はカウンセリングの翌日から1週間、自分の罪を思い、涙が止まりませんでした。


 
私は本当に、鬼のように厳しい母親でした。
 
『早く起きなさい。』
『ご飯をしっかり食べて。』
『顔洗った?』
『靴を揃えて。』
『早く寝なさい。』
『ゲームはダメ。』etcetc…

言わなくなると、子どもたちは最初は不安だったようです。
それでも子ども達2人は10日間、ゲーム漬けになりました。
何かに取り憑かれたようにゲームに向かい、声をかけても気づかない様子。
それも深夜まで。私たちが寝てしまってもまだやっていました。
不安ではありましたが、それでも子どもたちは、自分のことを自分で判断して行動していました。

私が口を出す必要なんかなかったんだと思いました。
そしてそのことに、一抹の寂しさと物足りなさを感じました。
―存在不安ですね。(>_<)



子どもに対して口をついて出ていた言葉は、私が子どもの頃から母に言われてきた言葉。私自身の意志で、子どものために良いと判断して発した言葉ではありませんでした。

必ずしも言う必要のなかったその言葉の数々で、どれだけ我が子を苦しめてきたことか。―そう思うと、言葉を飲み込むことは、私にとって”我慢”ではありませんでした。

心配する主人と、
「騙されたと思って、1ヶ月だけやってみよう。それが失敗だったらまだやり直しはできる。」
と話しましたが、さらに、
「もう3ケ月やってみよう。」

―そして2年が経ちました。



もちろんその間、私たち夫婦も自分と向き合うことをやってきていますが、子どもたちも、親に対してイライラを出し、怒り、暴言を吐き、必死に自分と闘ってきたことと思います。その間の子どものつらそうな顔は親として本当に耐えがたく、今思い出しても涙が溢れます。

子どもたちのそれほどに溢れるような思いを全て、
それまでの私は抑えつけてきたのです。

子どもの気持ちにも、
曇った表情にも、
作り笑顔にも気付かないで・・・。



まだまだ我が家は発達途上。
私自身の課題も山積みです。

けれど、
子どもの表情からはギスギスした様子がなくなり、
イライラも穏やかになり、
親に暴言を吐きながら嬉しそうに笑っています。

パンクして気持ちをぶつけることもありますが、切り替えが速く、ケロッとしています。私たちを労わってもくれます。

夫婦げんかもめっきり減り、家族みんなが心のコップのメカニズムを理解し、世代間連鎖を思い、カチンときても、気持ちの本当の矛先がお互いに分かっているので楽です。(子どもの矛先はもちろん、親である私たちです)



小~中学生の3人の子どもたちは今日から3学期です。
冬休み中、親は、勉強・お手伝い・不摂生etc、一切口出ししませんでした。

やりたくなかったら、無理にやらなくていい。
ありのままの心でいられれば、誰に言われなくても自ずと出来るようになる。

お友達と散々遊び、部活に精を出し、ゲームにテレビ、昼夜逆転するほどの夜更かしをして、最後の2~3日で徹夜して宿題を仕上げ、今朝は満足気に出かけて行きました。(宿題も、やりたくなかったら無理にしなくていいと言いましたが)



以前の生活からは考えられません。
すべて私が制限し、きちんとした生活を崩すことを許しませんでしたから。

けれど今、なによりも、子どもたちのその焦りのない、落ち着いた表情が、私たち親の宝物です。

そして、自分で判断して行動した全てのことが、本人たちの糧になると思います。



今まで、いろんな経験をさせてあげなくて、制限ばかりしてごめんなさい。
大切なことだったのに。

せめてこれからは、思う存分に自分の思ったように行動して生きてほしいと思います。それが生きる力なんだと、心から思います。
(いつも先生が言われるような言葉が出てきたことが、自分でも意外です。)



この2年で、私たち夫婦は、人にとって一番大切なものは何かということを感じられるようになりました。

心を大切にすること。

一人一人の人権が尊重されること。

口出しせずに見守ること。



今までの価値観とは180°違いますから、それができるまでには時間がかかります。
IPも強いですし、ICがパンクすることもあります。
けれど、今私たちが目指していることに間違いはないと信じられます。


気持ちを出すことを知らなった私の40年余りを、
子どもを苦しめてしまった大切な10年余りを
この数年で取り戻せるのなら、
そして、
家族みんなが本当の幸せを得ることができるのなら、
こんなありがたいことはないと思っています。



そしてできるなら、いずれその幸せが、地域に、社会に波及しますように。


皆が楽に、穏やかに生きられますように・・・。








★★-------------------------------------------------------

以上がメッセージです。
combさんのコメントにもメールをいただいておりました。

『「自分と向き合う」ってどういうことでしょうね』のcombさんのコメントを読んで、また泣けて泣けて仕方ありませんでした。私も同じ。さぞかしおつらいだろうと思います。けれど、妹さんの裁判を通じて、よくご自分のことに気付かれたなあと、尊敬します。
家族になかなか解ってもらえないことは、きっと本当につらいだろうと思います。それでも、子どもを受け止めるのは母親でなくちゃと思います。母親に受け止めてもらえない苦しさは、私たちが一番よく分かっている。母親が受け止めてくれたら、親にぶつけられたら、こんな思いはしなくてもいなくてもいいのだから。 その気持ちはきっと子どもも同じ。』

気づいた親は、みな同じ思いを抱いています。自分を責め、子に借りを返したくて償い(軌道修正)を急ごうとします(私もそうでした)。しかし、借りを返すことは親がラクになるだけのこと。自分が犯してしまった間違った結果を見ないようにしたいだけのこと。子は違う形で追い立てられることになります。

親が自分自身を責めることを子は望んではいません。
子はただ分かってほしいのです。
分かってもらうためには、親がICを救わなければならないことを子は知っています。だから、親が自分を救う決意をしたときに子は喜ぶのです。

折しも今日、自分を救うために一人家を出てアパート暮らしを始めるお母さんからお電話をいただきました。お母さんがおかしくなったと大反対していたお子さんが、お母さんが決意し行動したとき優しい笑顔になったそうです。その笑顔の意味がお母さんには分かりかねました。子は母親の決意が本物かどうかを無意識に試していたのですね。この優しい笑顔が子の本当の心なのです。



★★★----------------------------------------------------

でも、自分の親には受け止めてもらえない。
自分にできても、親にはできないこともあるのです(時代背景も大きく異なります)。そのときどうするか。以下も、この方の最近のお便りからです。


『優しくしてほしかったのはいつの私だろうと、頭の中で捜しに出かけてみました。すぐに、小学生のころの私が浮かびました。夜寝る前に、ベッドの上に座ってお祈りしている私。

「幸せになれますように。
いい子になりますように。
我慢できる強い子になれますように。」

思わず涙が溢れ、抱きしめました。

「もういいよ。そんなことしなくても大丈夫だよ。必ず幸せになれるよ。」
それでもその子は私に気付かず、全身をコチコチにしてお祈りしています。
(イメージというよりは実在の私です)

親に叱られても自分が悪いと心から思えない自分が不安で怖かった。
どうしたらいいのか分からなかった。
反省できない私はおかしいんだ、いい子にならなくちゃ。
私は甘やかされてきたから我慢が足りないんだ。
・・・でも、どうしようもなくて、怖かった。
お行儀よくしてお祈りしないから、神様に届かないんだ。
すぐに気が散ってしまうから叶わないんだ。
そう思って、ベッドの上で正座して、一生懸命手を合わせていました。
泣きながら祈った日もあったと思います。


最近聞いた歌の一部が頭の中で流れました。

♪もっともっと頑張らなくちゃ でも僕の心は息切れしてた
 「時には立ち止まり 疲れたその羽を
  休めなさい 休めなさい 
  君はまた 飛び立つのだから」
 【aqua timez 「ハチミツ」】

私たちは、そんな親じゃなかったなあ。そんなホッとできるような思い出、私にはないなあと思うと、何とも言えない気持ちになって涙が出ます。
 
『完璧じゃなくていいよ』『カッコ良くなくていいよ』
そんなホッとするような優しい言葉を、私がかけてあげなくちゃ。
苦しかった小さな私を思い出し、涙が溢れてきます。

「貴方が悪かったんじゃない。責めないで。苦しまないで。親のいうことがきけなくたって、悪くなかったんだよ。そのままで良かったんだよ。でも、誰にも受け止めてもらえなくて、苦しいね。つらいね。言うこときかないと、許されなかったもんね。居場所がないよね。」

こんな苦しい思いに、よく耐えてきたなあと思います。
そして、幸せになりたいと、その方法さえ分かればと、希望を捨てずにいてくれた私に、頑張ってくれてありがとうと思いました。』




★★★★--------------------------------------------------

子は、あなたが自分自身を責めることを望んではいません。
あなたが自分を責めている間、子はなおもまたあなたを背負い続けることになるからです。

あなたが自分を責めて喜ぶのはIPだけ。
子どもは悲しみます。

子を自分から解放したいのであれば、
あなたがIPにかまけず、自分で自分のICを背負う決意をすることです。

あなたがICと向き合う決意をし、その決意が行動という形で子に見えたとき、子ははじめて安心して、あなたを背からおろすことができるのです。

どうか、自分を責めないでください。
あなたは、その環境の中で精一杯頑張ってきただけなのです。
あなたに責められるいわれはどこにもありません。

自分を責めるのではなく、自分を許しましょう。
そして、自分を支えてきてくれたICの労をねぎらい、「ありがとう」を言いましょう。

家族の再生は、
あなたが自分を責めることからではなく、
あなたが自分(IC)に「ありがとう」を言うことから始まるのです。



















小さい私へ―

よく頑張ってきたね

ほんとに、よく 頑張ってきたね

辛かったね。泣きたかったね。哀しかったね。

でも、ポーカーフェイスで、素知らぬ顔でやってきたね。


ここまで私を支えてくれて、ありがとう。

心から、ありがとう。



もう、頑張らなくていいんだよ。

自分を責めなくていいんだよ。

大人になった私が見守ってあげる。

だから、もう一人で抱え込む必要はないんだよ。

ゆっくりお休み。

今はただ、見守られてゆっくりお休み。

何者にも縛られない気持ちのいい朝が待っている。

だから、今はゆっくりお休み。





ありがとう











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心を寄せていただいた皆さんへ

中尾先生、この記事を掲載してくださり、本当にありがとうございます。
実は大地のぬくもりさんに返事を投稿した後、すぐにこの記事がアップされていることに気付いて読みました。読み進めてすぐに、先生が気持ちで、心で返してくださっている、ということに気付きました。何度も何度も読みました。ただただ、涙が次々に頬を伝い、気付いたら明け方までPCの前で釘付けになっていました。私は今まで誰かに自分の悩みをほとんど話したことがありませんでした。ですから、このように受け止められたこともなく、こうして多くのみなさんから共感の言葉をいただいて、温かく包まれるような、ホッとするような、その反面、私がコメントを書いたことで、PCの向こうにいらっしゃるみなさんの心をかき乱してしまって、何か申し訳ないことをしたような、いたたまれないような、しばらくの間、脱力というか、放心というか、何かを伝えたいけれど、どう表現していいのか言葉が浮かんでは消え、まとまらず、の繰り返しでした。私のコメントに共感くださり心を砕いてお気持ちを寄せてくださった方にお礼をお伝えしたくて、とても遅くなってしまいましたが、書かせていただきたいと思います。

ご自身も闘いの最中にあって、心乱れた私のコメントにお気持ちをお寄せくださり本当にありがとうございました。とても思慮深く、ご配慮をされて中尾先生にお便りされていることにも、とても感心してしまいました。
気持ちを自由に吐き出すことができない苦しさというのは、そういう状況に置かれてきた人でなければなかなかわかりにくいものです。感情を出すこと、特に怒りや悲しみを表現することを禁じられる環境に育ってしまうと、絶えず自分の気持ちには鈍感にならねばやってはいられないからです。ひとたび自分の気持ちに繋がってしまうと、何もかも全てが崩壊してしまうほど、立ってはいられない。わたしがそうでした。それなのに、心の虚ばかりが一方的にどんどん溜まってしまう。自我を感じないようにしなければ生きていることさえ辛くなってしまうからだと思います。歪んだ磁場の環境の中で我慢を強いられ、それが当たり前のように習慣になってしまうと、感情を見ないように、気持ちを見ないようにするしかない。これは最後の安全弁のようなものなのかもしれません。

私にも大きな存在不安がきっとあるのだろうと思います。言葉も満足に持たない幼いころの原風景があります。母は、押し黙って私を乳母車に乗せ、母の実家にぐいぐいと連れて行かれるたび、何とも言えない不安がありました。母の実家は稼業に多忙で、従姉妹たちは親から怒鳴り声を浴びていました。そういう中へ母はいそいそと毎日のように幼児の私を連れて出向くのです。目の前に母はいても、母の心は祖父母しか見ていなかったと思います。母が何かと「体が弱い」と言うたび、叱られるようなことをすれば置き去りにされてしまうのではないか、そんな不安にも苛まれました。それは、私が泣くといつもむしゃくしゃとしながら「きっつ嫌い!」「神経質だ!」と嫌われるので、懸命に自分の状況を解るように説明しようとすると「理屈っぽい!」「屁理屈を言うな!」とたちまち否定されるからです。さらに感情が高ぶって泣き叫ぶ私の尻を打ち「泣かずに話しなさい!」と言われるので、しゃくりあげながら話そうとすると「やかましい!」といって拒否され、しまいには気絶して泣き止むまで放置されることもたびたびありましたから、何をどう言っても私は理解されることは一切ありません。母の言に抵抗する術はないのです。小学校に上がったころだったか、幾度となく「ボケておむつをするようになったら、あんたに嫌われるだろな?」と私の顔を覗き込んで確認する母に、そんなことないよ、と言うしかありませんでした。自分の将来には楽しいことは何もない、生きる意味ってなんだろう、生きていても仕方がない、そんなことをぼんやり考えていることも多かったように思います。

私も本当に、鬼のように厳しい母親でした。子どもの気持ちなど考慮するという余裕は全くと言っていいほどありませんでした。無意識でしたが、親の愛情に飢えていた私は、母に認められることしか念頭になかったのです。自分の軸足を親に置いていると、子どもに愛情を注いでいるようでいて、実は親の気持ちに沿うことばかりを考えているのです。私が気付きを持たないまま、娘たちは成人してしまいました。取り返しのつかない長い年月を思うと、心がかき乱れ、たちまちIPが立ちはだかります。焦るあまり、自分は間違っていない、と思いたくて、娘の気持ちや考えを非難したり、子どもの気持ちを聴かなければ、と思いながら全く正反対の態度してしまいます。そうやって子どもを追い詰めて自己嫌悪にも陥ります。子どもに起きている現象は自分がしてきたことの鏡。知れば知るほど辛くなりますが、その一方で、そこまで娘たちは健気に頑張ってきていたのだと思うと、もう娘たちを待たせ続けるわけにはいきません。踏みとどまることを「我慢」という負の感情ではなく、明日に向けての希望に変えていきたいと思います。どうしても踏みとどまれない時には、やはり私が子どもから離れることが必要なのでしょう。

妹の「精神的DVを受けているかもしれない」という遠慮するような私への一言は、ずっと何故だかわからないけれど、なんとも不可解な妹の家族関係がいったい何であったのか、突然、稲妻が闇夜を照らすように私の目の前にはっきりと現れました。次第にぽつりぽつりと告白する内容は、私を驚愕させる事実ばかり。それは身体への暴力もあったけれど、心理的・経済的・性的な暴力や、威嚇・強制・脅迫をしたり、子どもを利用してこれらを行うこと、異性の特権を振りかざしたり、明らかな事実の矮小化・否認・責任転嫁、そして社会的な隔離…という吐き気を催すような、ありとあらゆる暴力。彼女は見えない鎖に手足を繋がれていました。そして、どんなにもがいても逃れられない、アリ地獄のような歪んだパワーゲームが、閉ざされた家庭内で繰り広げられていたのでした。加害者は子どもの前では良い父親を巧みに演じながら、そうとは気付かせないよう真綿で首を絞めるように妻を苛め抜き、追い詰め、自殺という名の巧妙な保険金殺人を企てていたのです。それはまるで映画「裏窓」のような不気味さでした。私は、彼女が曝されている暴力の証を記録保存しながら、妹の苦境を外に向けて発信することに必死でした。それと同時に、この因果は自分の育った家庭にある、ということも頭の片隅で漠然と感じていました。

DV被害者にとって、脱出や離婚をすれば全ての問題が一気に解決するわけではなく、むしろこれから
の人生をいかに生きていくか、自己の回復に長い時間が必要です。彼女は長年に亘る虐待を受け、自信を失い、心身が衰弱して廃人になってしまったかのようでしたが、今を思い悩む私に、中尾先生の言葉と同じ意味を持つ浮き輪をしっかりと投げてくれたのです。
以下は、私の置かれている状況に思い余って、妹に心情を吐露した時のやり取りです。

comb「ずいぶん昔、○○ちゃん(妹)との会話の中で思い出した事があります。
『子に対して無条件の愛でなきゃ』『たとえお金がなくても親は子に、お金がないなんて言っては駄目』と○○ちゃんが話していました。その時、私はその意味が理解出来ずにいたのです。
○○ちゃんは、こうした子育ての概念をどんな機会に知ることができたのですか?
私の子育ては間違った態度だった。今、その大きなつけが表面に出てきて、私はとても辛い。
いや、私が押し付けてきた親の価値観に苦しみながら、
私に愛されたいが故に頑張ってきた娘たちがどんなに辛かったことか…。」

妹「概念ね~…、そんなオーバーなものじゃないんよ…。
一言で言うなら母という反面教師のおかげかな。

私は、物心ついた頃から苦しかったんよ。
何だか、いつもありのままの私ではダメってメッセージを受け取っていたように思う…

何か母の気にいるような子どもでないと存在してはいけないよう感じてた。
小学校の頃から死にたい気持ちがあったんよ…。
あるがままの私では認めてもらえなかったから。

中学生の時、先生の前で
「お姉ちゃんは、凄くハキハキしてるのに、この子は、もの言わなくて、こんななんです…」って!
そりゃないでしょ!と今の私はツッコミたくなるけど、
当時の私は、それを何も言わず何も感じない振りをしてニコニコして聞いていた…

本当は、
凄ーく、悲しかった。
凄ーく、傷ついた。
ひどい!って怒りたかった。

でもそんなことしたら、待ってるのは
やんちゃ、我が儘…というさらなる値引きレッテル貼り。

うーん、だぶるばいんど、じゃ~!
ツレーよ!辛すぎる!

私は、自分と同じような辛い思いをさせたくなかった。

子どもは、ありのままでOKじゃん。
親の思い通りの子どもを演じなくても安心して過ごさせたい。
私は、母みたいになりたくないと小学生位からずっと思ってた。

母のようにならない為に、子どもに夫の愚痴だけは、聞かせたくなかった。
夫婦の問題は、夫婦で解決することで子どもに責任はないんだから。
母が父をこけおろしてる姿は、到底、夫を立てているように感じられなかった。
尊敬もできなかった。

母の愚痴は「父の側になるな」みたいな、引き離しを子ども心に感じてた。

私は、そんな不幸せな母の姿を見たくなかった。
母の幸せな姿を見たかった。

人間、幸せじゃないと自分より弱い人を無意識に否定したくなるのかね…。

子どもは、生まれた時からひとつの個性をもった人間なんだから。
親の分身じゃないんだから。

きょうだい比べなくていいじゃん。
みんなありのままでいいのに。

でも、あの実家では、子どもは愚かな生き物だから躾ないと!自分達の言うこと聞かさないと!・・・なんだよな。
人として尊重されないんだよな…。

哀しきかな、言うこと聞いても否定は、止まぬ永遠に。

自分達を認める為にダメな存在が必要だからなんだよな。
ありのままの自分を認めないからありのままの子どもを認めることはできないわな…。

本来は、どんな子どもでも花、開くんよね。
ありのままを認め育てたら。

まあ、母はハキハキした子どもが好きだったんだろうけど、
それを押しつけられても私は、そうなれなかったし、
そう言われれば言われるほど、ありのままの自分がダメと感じたから。

自信も根こそぎ!無くなっていったから。

でも、もう被害者は辞め!
叩き潰された自信を回復させるのは自分。
要らないメッセージを大事に抱えてる必要はない。
要らないメッセージを捨てるのは、他の誰でもなく私なんだから!

どうしようもなく、しつこくつきまとうメッセージで困るわ…

あぁ、紅葉が美しすぎて泣けてくる。

イチョウにはイチョウの美しさが
モミジにはモミジの美しさがある。

イチョウはイチョウでいいのです。モミジはモミジでいいのです。
イチョウもモミジも誰に教えられなくてもこんなに綺麗に色をつける。

人も一緒だと思う。

環境が整えば本来持ってるものを輝かせることができるもんです。
あれこれ世話をやかなくとも。

親として良かれと思ってやってきたこと、過去の自分を責めても何も生まれない。

反省ができればそれでOKじゃん。
過ちを認め傷つけたことを謝まったらそれはもうおしまいにして、手放していいと思います。
大事なのは過去ではなく今!
過去と他人は、変えられないけど未来と自分は、変えられる!

わーい!

反省したら自分を許しましょう、
自分を許さないと他者の失敗も許せなくなるのでは?

それは苦しいことだと思います、自分も自分の周りの人も。

許しませう、許しませう。

ありのままあるがまま。

人間は、失敗する生き物です。

人間には、失敗する権利があるんです。
('-^*)ok」

妹を助けてきたと、どこか思い上がっていた私は、この言葉で逆に助けられました。単身脱出したこと(そうせざるを得なかったけれど)を陵駕するほど、こうした力強い言葉を書けるくらい、自律に向けて懸命に自分との闘いをしている様子に、脱出に向け背中を押した私の気持ちも少し軽くなりました。

子どもの頃から妹が苦しんできたことは、まさに自分が娘たちにしてきたことなのです。これからわが子に起きると予想されること、どういう姿勢で対応すればよいのかわかりませんし、まだまだ、私は津波に襲われるように不安感が何度ももたげます。でもこうしてみなさんが私の気持ちに共感してくださり、温かい言葉で包んでくださったことで、決して独りではないんだと、見守られているのだと感じることができました。

長い間をかけて形成された私の性格はそうそう簡単には変わらないとは思うけど、意識するのとそうでないのとは違う、と思いたいです。常に意識していないとたちまち暴走し、子どもをコントロールしている言葉が勝手に口から飛び出してしまったり、IPが口出しをして迷い、泥沼に嵌り溺れることはあるけど、それでも少しは前に踏み出しているのかな、とは思っています。

世代間連鎖の怖さを知った私にとって、もっとも悲しく辛いことですが、娘たちに与えてしまった毒を、与えた当の毒親が意図して取り除くことはできないのかもしれません。それは、毒を持った親にとっての子どもというのは、そうしようと思ったら自由に扱うことのできる生きたモノ、子の視点から見れば毒親の自分勝手な行為だから。

私はこれまで娘たちにしてきた仕打ちを「辛い思いをさせてきてごめんなさい」と心から詫びたい。でも、決して自分が子どもに許しを乞うために詫びてはならない。それは自分が楽になるためにしているだけであって、子の気持ちを拒否することにほかならない。私が不用意に詫びてしまえば、子は愛されたいが故に、健気に親を許そうとしてしまう。子が気持ちをぶつけることができない鉄壁のような親ではなく、子の気持ちを受け止められる柔らかい親になりたい。子が自分の思いを自由に吐き出して、その気持ちを親がしっかりと受け止めて、初めて子に詫びることが許されるのだと思います。

まだまだ混乱し行ったり来たり、同じ所をぐるぐる回っていたり、とても苦しいけれど、自律の歩みを進めていらっしゃるみなさんを感じながら、私も諦めずに自分に向き合っていこうと思います。
感謝をこめて、みなさまへ。

 

夢の中で

今朝夢の中で自分の見たくない感情に出会ってしまい
すごい恐怖を感じました。
ムリだ!こんなものと一人で戦うなんて怖い!!!逃げ場がない!!と感じたところで目が覚めました。
 とても怖かった。
おとといの朝、ふと 自分が自分の感情のごきげんをとっているという感覚に気づきました。私は、自分の感情が荒れるのを恐れていて、いつも裏道をさがして行動してしまう。
朝起きて、台所でごはんの支度をしているだけ という単純な
状況の中で、どうしてこんなに自分のごきげんをとることに
力をそそいでいるのか
という 異常な状況に気づいてしまいました。

 

今日の記事を読んで、やっとホッ・・。と出来ました。
最近の記事やコメント欄を読んでいると、心が共感のるつぼになり、
ザワザワ・・「あ~なんか伝えたいぃー」
「う~でも、生まれたてすぎで言葉がわからん!」
PCの前で「気持ち分かりすぎ・・。辛すぎ・・。」と思って泣き。
「なんてあったかい言葉なんだ。」と自分まで受け止められてしまい号泣・・。
あまりに体力消耗するのでPCから離れたいけど、心がざわつく。

私も、中尾さんのカウンセリングを受けるまで、何十分もお祈りをしないと夜、寝られませんでした。
それこそ、小さな時から。
それも、自分いい子にするので、身のまわりに不幸がおこりませんように(念!!)というような・・・。
(どれだけ不安な毎日だったのか・・。)
そんな、がんばりやの小さな子があちらにも、こちらにもいたのかと思うと
何ともやりきれない気持ちになります。
小さな私は、その友達のとなりに行き「もう、お祈りやめよっか。楽しい話しながら一緒に寝ちゃおっか?」と言いたいようで・・。

そして、大人の私は今までの人生、だれも教えてくれなくても必死に考えて、一番いい!と思うことがんばってきたのに、「まだ間違ってるいうな!ちくしょー!!」と、
ちゃぶ台ひっくり返したい気持ちが痛いほど分かり・・。

でも、間違えた事実は消えず。

私も親を許すのでも、子どもから許されるのでもないな。と最近、実感しています。

私も本当に大きい荷物を子どもたちに背負わせてしまった。
今は、荷物をおろした自分の姿を見せて、子どもたちが自分の荷物の重たさに気づくのを
待つしかないのかな。と感じています。
早く気づくといいな・・。とやっぱり思ってしまいますね。
でも、自分で気づきたい。だから、やっぱり見守るしかないよな・・。と。
今日の記事を読んで、この気持ちでいいんだな。とホッとしました。

久しぶりに、よく寝られそうです。感謝。




 
    
 
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