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脳脊髄液減少症―真実を隠蔽する大人と闘う少女

2010/01/18(Mon) Category : 知ってほしい病
一昨日も取りあげたが、3年前にこのブログでも取り上げた「脳脊髄液減少症」。

そのときに知った、中学の体育の授業中の事故で脳脊髄液減少症になってしまったMさんのこと―。まつもと泉さんが地獄に落とされたように、Mさんも一瞬にして地獄に落とされてしまった。

が、学校側のあまりにも不誠実な対応。お母さんは意を決して裁判に訴えられた。以下は、そのお母さんがmixiに綴られている闘いから、許可を得て一部転載したものである。

どのようなことから脳脊髄液減少症になるのか、
表面から病気と見えない病気に周囲がどう対応するのか、
本人がそのことによってどのように二次被害を受け、どれほど苦しむのか、
加えて大人の無理解で不誠実な対応がどれほど心を傷つけるのか

この病気に限らず、同じような思いで苦しまれている方が沢山いると思う。
―その“思い”を知っていただきたい。



■---------------------------------------------------------
事故当時の様子を、加害者となってしまった少年2人は次のように正直に陳述している。

『A先生はほとんど体育館にいなかったことは、前にも述べたとおりですが、授業の終わりのチャイムがなっても戻ってこないこともあったことから探しに行くことがあり、その他にも何かの用事でA先生を探しに行くことも時々ありました。たいてい、職員室か事務室にいて、パソコンに向かっていたり、タバコを吸っていました。』

『好きなものをやるように言うのですが、その他については、指示はなく、A先生自身は、授業が始まるとまもなくして、大概どこかに行ってしまっていたので、実質的には、何をしても自由』という“授業”内容だったようだ。


野放しに放置された無責任な空間で事故は起こった。

『真剣に、思い切り強くボールを蹴りあっていました。S君の蹴ったボールが、Mさんの頭の横に激しくぶつかったのです。その直後、Mさんはうずくまるようにしてその場に倒れこみ、友人たちが、ステージから降りてきてかけより、みんなでステージの前に抱えていきました。そのとき、僕も心配になって近がずいていきました。Mさんはとても苦しそうな表情をしており、普段とは、全く様子が違っていました。

ちょうど、そのころA先生が体育館に戻ってきました。その後、6時間目の大縄跳びが、始まったのですが、その最中に突然その場で倒れこみ、意識を失ってしまいました。そのため、Mさんは、誰かに引きずられるようにして担ぎだされていきました。このとき、Mさん自身が歩いているという感じでは決してありませんでした。この事故以来、Mさんの様子はそれまでと一変してしまい、学校に来ても保健室で過ごすことが多くなりました。』


この子供たちは、真摯に裁判にも証人として出ています。その子供たちに対して、
『Mさんに怪我をさせたのは、あなたなんですよ!あなたが、一番悪いんです。今、宇佐市と裁判になっていますが、宇佐市が負けて賠償金を支払わなければならなくなったら、あなたに請求しますから!』
と脅迫する宇佐市側の弁護士…。




★以下は、被害者のMさんの陳述書である。                  

1-------------------------------------------------------
私は、今から約6年前の5月20日、学校の体育の授業中に男子生徒の蹴ったバレーボールが頭に直撃したことにより、それまで元気に活発に過ごしていた生活が一変してしまいました。

それまでは、風邪ひとつひかない元気な子供でした。沢山の夢もありました。事故の一週間前に、私の書いた「私の夢」という作文が大分合同新聞に掲載されたことで、時枝宇佐市長からも「夢を実現してください。」との励ましのお手紙をいただいたこともあります。   

この事故により私の身体も心も人生の全てが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちてしまいました。この6年間、身体はもちろんのこと心もズタズタに傷ついたままで、癒えることはありません。今からこの6年間を振り返りたいと思います。


2-------------------------------------------------------
あの日の事故は体育の授業中でしたが、いつものように体育のA先生は、「今日は選択授業です。」と言い残し、体育館から出て行きました。クラスメイトたちは、先生のいないことをいいことに、休み時間のように好き勝手に遊びます。外でサッカーをする生徒、風通しのよい出入り口付近で話しをする生徒、2階の卓球をする場所であめやガムを食べる生徒。その日私は、ステージの上で、友達3人と車座になっておしゃべりをしていました。

(略)
私は、ボールを取るために、男子たちに、「ボール、取らせて!」と声をかけボールを拾いに行きました。ステージにいた友達の誰かから、「今何時?」と聞かれたので、ボールを拾いながら、時計を見ようと振り向いた瞬間に右側頭部にボールが当たってしまったのです。

構えることなく、突然に受けた衝撃は、とても強いものでした。私は、意識を失いその後どうなったのかはわかりません。回りが、がやがやしてきたので、このままここにいたのでは、皆に迷惑がかかると思い、友達に支えられながら場所を移動しました。

そばにいた友達から、「大縄跳びは休んで、保健室に行きよ!」と言われたのもあるし、私自身、とても縄跳びを跳べる状態ではなかったので、学年長でもあり、体育の先生でもあるA先生に「さっき、ボールが頭に当たったので次の体育を休ませて下さい。」と申しでました。

しかし、A先生は、「そんなの大丈夫!」と私の目を見ることもなく、軽くあしらい私の申し出を聞き入れてはくれませんでした。私は、痛い頭を手で支えながら、やっとの思いで大縄跳びに参加しました。しかし、何度もひっかかり、力尽きて、再度倒れてしまいました。この時、目の前がまっ暗になり、「私はもうこれで、死ぬんやなぁ。。。」と思って意識が遠のいていったのを今でも覚えています。


3-------------------------------------------------------
後になって知らされたことですが、私は、このあと、Yちゃんに保険室へ連れて行ってもらったそうです。これも後で聞いたことですが、私は、保険室のベッドで、「耳が痛い。」と訴えていたらしく、保健室のK先生は、鼓膜が破れているのではないかと心配し、耳鼻科につれていくことになったそうです。

その後、学校からの連絡を受けた母は耳鼻科に駆けつけましたが、お医者さんは、母を見るなり、「こんな状態の子供をなんですぐに脳神経外科に連れていかなのか! 今すぐに行きなさい。」と怒られたそうです。

私は、首のすわらない赤ちゃんのように、首がガクガクしていたそうです。
耳鼻科から、母の車で、佐藤第一病院に行きましたが、すでに5時を回っていたので、脳神経外科のお医者さんは帰って後でした。その日は、詳しい検査もできなかったので、入院することになりました。この時から、激しい頭痛、耳鳴り、吐き気、めまいなどの症状に苦しみ続けることになりました。


4-------------------------------------------------------
(略)

<引用者注↓>
入院中にA先生が一人で見舞いにきて、『先生が本当のことを親御さんに話しておくから、あなたは何も言わないでいいですよ』とMさんに告げます。しかし、その裏では、『あれは、休み時間に起きた事故で先生たちは、だれも見ていなかった。Mちゃんに後遺症が残ったら、当事者同士で解決してください。学校は、責任とれませんから。』と、関係者の親たちには告げられていたのです。Aさんの口封じをすると同時に、学校は知らぬ存ぜぬを通そうとしたわけです。

つまり、A先生が見舞いに来た時点で、学校側は責任逃れをする結託をしていたと言うことです。A先生のような教師が野放しにされていたということ自体に、この学校の無責任体質が現れていますが、上記事実は学校ぐるみの無責任ぶりを白日の下にさらしています。学校の最大の役割は「きちんと責任を取ることのできる大人になれ」ということを、教師自らがモデルとなって教えることではないでしょうか。


5-------------------------------------------------------
事故から9日間入院していましたが、レントゲンやMRIなどの一般的な検査では、異常が見つからず、私は、退院することになりました。とは言え、頭痛や吐き気、めまいなどの症状が消えたわけではなく、階段の上に立つと落ちそうで怖くて一人で降りることができませんでした。

それ以来、自転車にも乗れなくなってしまったので、学校へは、母が車で送り迎えをしてくれていました。6年たった今でも自転車には、乗ることができません。

私の体調不良を心配した母が、何度か、学校に出向いて私ことを担任の先生や校長に相談していたようですが、そのことに対して、私は、校長先生に呼ばれました。
「親に車で送り迎えをしてもらわんで、一人で歩いて来なさい。親がきてかなわん。」と言われました。

私の体調の悪いことを心配して、当時妊娠中だった担任の先生の赤ちゃんが、流産したらかわいそうという思いもあったので、母には、「もう学校に行って私のことを先生たちに相談しないで欲しい。」と言いました。母は納得してくれて私の様子をみてくれていました。

日を重ねるごとに頭痛や吐き気がひどくなり、特に雨の日は、起き上がることはできませんでした。学校も休みがちになりましたが、先生や友人、親たちに心配かけたくなかったので、いつも元気なふりをして気力だけで学校生活を送っていました。3年生になったとき、大好きだった担任の先生は産休に入り、学校には来なくなってしまいました。

このころから突然意識を失ったり、過呼吸のような症状がでたり、手がしびれて鉛筆が持てなくなってしまいました。そして、とうとう、精魂尽き果てて学校にいくことができなくなってしまいました。


6-------------------------------------------------------
10箇所以上の病院にかかりましたが、当時の大分県の医療の遅れから、異常が発見されることはなく、どこの病院に行っても「異常なし。」でした。こんなに身体は、ボロボロで、歩くことさえできないのに、異常がないと言われるのです。病院に行くたびにがっかりして帰路につきました。

そして、最終的に、医者に言われたことは、「精神的なことから、鞭打ちの痛みが増幅せれているんだと思われます。今度はそちらの方面から治療してみてはどうでしょうか。」

こう診断されたのには理由があります。
それは、体育のA先生がついた嘘に原因があると医者たちは口を揃えて言いました。13歳という多感な時期に、「嘘をついてはいけません。」と教える立場の教師が、事故の真相を隠し、親や私をだましていたことが、1年以上たって発覚したので、「私が精神的に傷ついている。」と診断したのでした。

私は、とにかく一日も早く元の身体に戻りたかったので、精神病でもなんでもいいからちゃんと治療して、以前のような元気な身体にもどることを望んでいました。そんな訳で、2ヶ月近く、神経科の病院に入院することになりました。そこでは、毎日、薬漬けの日々でした。

しかし、実際には、それが原因ではないのですから、激しい薬の影響で、ますます、身体は悪化してしまい、とうとう廃人のようになってしましました。生きているのか、死んでいるのかわからないような状態でした。


7-------------------------------------------------------
退院してからも、学校に行くことはできませんでした。
こんなに辛い思いをする位なら、死んだ方がましだと、だれもいない家の台所で包丁を胸に突き刺そうとしたり、マンションの最上階から飛びおりようとしたこともありました。

体調不良の原因がわからぬまま、校長先生という立場の方から、「悪霊のせいだ」と言われたこともあります。

医者も、親も、学校の先生も、そして私自身も本当の病名がわからなかったので、「とにかく頑張るしかない。」と、わずか、2キロの道のりを2時間かけて学校に行きました。やっと、たどりついた学校で先生に言われたことは、「社長出勤で、いいご身分やな!」でした。

「こうたびたび、倒れたんじゃ、こっちの身が持たん!倒れるくらいなら学校に来るな!」など、先生たちから、冷たい言葉が浴びせられました。そんな毎日の連続でしたから、私にとって学校は「怖いところ」でしかありませんでした。

また、私が、保健室で寝ていると、先生が小学5年生のドリルを持ってきて、「これでもやれば、、、」とぽんと渡しました。私は、受験生です。こんな馬鹿にされた話しはないと思い、保健室のベッドで泣きました。私だって教室で、みんなと一緒に勉強したかったし、以前のように活動的に学校生活を送りたかった。受験勉強をして高校にもはいりたかった。

あの時のボール一つが、私の人生を変えてしまったことが今でもとても悔しいです。もしあの時、A先生が、生徒任せの授業ではなく、ちゃんと授業をして、監督してくれていたなら、男子生徒たちも蹴ってはいけない場所で、蹴ってはいけないバレーボールを蹴ることもなかったはずです。

私もこんな人生ではなかったはずです。
私は、以前の元気な身体を返して下さい。と言いたいです。


8-------------------------------------------------------
絶望の淵をさまよっていた私に一筋の希望の光が見えることになります。それは、2004年12月のことです。朝の情報番組で、最近になって分かってきた病気、事故などの身体の衝撃により、発生する脳脊髄液減少症(その当時は、低髄液圧症候群)が紹介されたものでした。

症状が私と全く同じなので、私は母にこの検査を受けたいと言いました。母は、大分県内の大きな病院の何箇所かに連絡とってくれましたが、県内には、当時、専門医がいませんでした(注:現在はいます)。インターネットから九州で2人しかいない専門医を見つけることができ、奇跡的に検査ができることになりました。

私がたどり付くことのできた医者は、熊本県の荒尾市民病院の脳神経外科、不破先生です。先生は、「自分を探しだしてくれてありがとう。」と言って下さいました。

そして、RI検査という特別な検査の受け、その結果、13ヶ所から、シャワーのように髄液が漏れだしていたことがわかりました。不破先生は、「今まで辛かったね! 画像を見ればよくわかる。」と言って下さいました。

私が事故から一日も開放されることなく続いていた体調不良の原因が、はっきりと画像に表れたのです。私は、原因がわかったことのうれしさと未知の病気に対する不安から涙が溢れ出たのを今でもはっきり、覚えています。

不破先生は言いました。「よかったね!このまま分からなかったら、硬膜下出血で死ぬことだってあるんですよ!」っと。また、「こんなに沢山漏れている患者さんは、初めてだ!」と。


9-------------------------------------------------------
私は、この病気の唯一の治療法であるブラッドパッチという治療を受けました。13ヶ所という多くの場所から漏れていることから、1回では塞ぎきれないので、2.3回の手術が必要ということでした。

不破先生のおっしゃるように、一回目の治療の後、よくなったと思われましたが、それは一時的なもので、その後2回、全部で3回の治療がほどこされました。
この治療や検査は、決して、100%安全なものではなく、放射線物質などをいれて検査をしなくてはならないので、ある意味危険なものです。でも、現状では、これに頼るしかすべがありません。

脊髄に注射をしたことのある人ならわかるように、この検査や治療は、激痛を伴います。一時的ではありますが、足がしびれて歩けなくなることもありました。こんな痛い思いを私は6回もしているのです。

この治療のお陰で、改善された症状もありますが、まだ改善せれていない症状もあります。自律神経の異常により、腸の動きが止まっていることも最近わかりました。この事故の後遺症により、今もさまざまな苦しみと戦っており、病院通いが絶えません。しかし、以前のような寝たきりで、歩けないような状態ではありません。


10------------------------------------------------------
私の体調不良の原因が、身体への衝撃による髄液漏れという事実がわかったことから、精神的には開放されました。

私は、「怠け者」でも「精神病」でも「悪霊がとりついている」でもなかったのです。

ちゃんとした病名が付けられたことで、まだまだ完治とは言えませんが、絶望の淵をさまようことから開放されました。

ただ、またいつ再発するかという不安はいつもあります。
また、寝たきりになってしまうのでないか?
また、歩けなくなってしまうのではないか?
私たち、患者は、そんな不安に怯えながら一生暮らしていかねばならないのです。

また、女性として生まれた以上当然、味わうべき幸せ、子供を生んで育てたいという願いは、叶えられそうにはありません。子供をお腹の中で育てるという当たり前のことが、この身体では無理だと思います。自分の身体を支えるのが、やっとですし、出産により症状が悪化することも十分に考えられるからです。


11------------------------------------------------------
多くの人がそうであるように、こんな病気があるなんて、知らなかったから、医者を含めて、誰もが皆、無知だったから、私は、身体だけではなく、味あわなくてもよかった二次的被害の苦しみもたくさん経験してしまいました。

今だに続くこの不毛とも言えるこの裁判もそのひとつです。
A先生は嘘をつき続けるので、証言がころころ変わります。証言に一環性はありません。
(略)
私は、教師である先生が嘘をつき続けることがとても悲しいです。

このことに対して、東京の文部科学省の担当官も、大分県教育委員会の担当者も「そんな馬鹿なことを言うなんて信じられない。宇佐市はいったい、何が言いたいのでしょうか?」とあきれています。

いつもの体育の授業と同じように、事故の日も体育館にはいなかった。職務怠慢・職場放棄ゆえに起きた事故であることを早く認めて、嘘を重ねるのは、もう止めて欲しいと思います。私は、先生たちの嘘で、心が傷つき、苦しんでいます。

今から、5年前の2004年12月、私は、学校に呼ばれました。
A先生が謝罪をしたいという理由からでした。A先生も、校長もあの時、「Mさんを苦しめて申し訳ありませんでした。」と深々と頭を下げて謝罪しましたが、あれは、いったいなんだったのでしょうか?何を、あやまってくれたのでしょうか?

いつまでも、嘘をつくのは止めてください。



最後に一つ、私の思いを綴った詩を紹介します。




-------------------------------------------------------
 『同じ空の下』

痛い 痛い 痛い・・・・・
イタイ・・・・ イタイ・・・・イタイ・・・・
ガマンの限界を超えた痛みは
私の身体をナイフで刺しました

目の前が真っ暗になりました
気付くと涙目で笑顔を見せる母がいました
「何で私が・・・・?」
と母の前で泣きじゃくりました

同じ空の下、笑ってる大人がいます
同じ空の下、泣きじゃくる私がいます

私の痛みを知らない大人達は
一つ、また一つ、ウソをつきます
そのウソで母が 姉が 弟が 私が
涙を流して傷つきます

心も身体もボロボロの私が
ここで生きています





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子ども達に最善の利益を

 僕は今は無職ですが、かつては約30年学校で勤め、そのうち10年以上は障害児学級を担任していました。自分の子どもが二人いますが、一人は長年低髄液症候群に苦しんでいます。
 上のMさんのことを読んで何回も怒りや悲しみで涙が出そうになりました。学校に勤めていた者として、とても他人ごとではないと受け止めたからです。一日も早くMさんの症状が改善されますように、心からお祈りします。
 そして日本の医療が患者や国民のためのものになりますように願っています。だってまだ、この病気の治療に保険がきかなかったり、治療ができる病院やドクターが少ないために1年や2年も待たなくてはならなかったりする現実があるのですから。

 

腐敗が酷すぎます

今年も、子供は見捨てられたままでしょうか!
 不登校、退学者20万人、精神疾患休職教員5400人。こんな学校に通えば、ひきこもり、ニート、うつ病、失業者となり、4万人の自殺者が出るのは当然です。
日本国民は、なぜこんなデタラメ教育を許しておくのですか。子供の不幸を見て見ぬふりする堕落した日本人こそ、自民党・官僚政治の愚民化政策が作り出した愚民です。
教育現場から、愚民化教育のおぞましい実態を詳細に暴露したのが「『おバカ教育』の構造」(阿吽正望 日新報道)です。時代錯誤の文科省官僚は、この知識時代に愚民化教育を行い、若者を貧窮させ、犯罪に走らせ、国家衰退を作り続けているのです。
受験競争で時代遅れの知識を詰め込ませ、世界最低となった大学に進学させ、外国語もIT能力も金融や法知識もない若者を育てれば、国が滅びます。これは、薬害エイズや薬害肝炎を起こした厚労省を越える官僚の大罪です。
今年こそ親たちは、子供を救うために立ち上がるのでしょうか。それとも、薬害肝炎やエイズ、原爆症患者、沖縄と同じに、子供を見捨てるのでしょうか。

 
    
 
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