ネットという世の中を見る窓(ブラウザ)のあり方から思ったこと
以前も横スクロールがついている記事があったとIE7を使っている妻から1度だけ聞かされたことがあったが、原因不明。今回は結構横スクロールがあって、これじゃあ記事読む気にならないなぁ…。ネットで調べると、そのようなバグがあるようですね(尚、どうしていいかわかりませんので、読みづらい方はごめんなさい)。
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OSやブラウザなど、土台となる仕組みは、あの重量力士達が存分にぶつかり合って暴れてもびくともしない土俵のように磐石でシンプルでなければならないと思う。シンプルだからこそ、その上で多彩なぶつかり合いができるし、多様なドラマを生み出すことができるのだ。
ブラウザから見る眺めは、どのブラウザから見ても同じでなければ、ネットの世界を見る透明な窓の役割を果たさない。Firefoxから見て正常であっても Internet Explorerから見てスクロールバーがついていれば、IEしかしらない人にとっては、その記事には最初から訳のわからないスクロールバーがついていることに等しい。コメント欄など枠からはみ出していた。
ブラウザという“窓”がゆがんでいるのだが、そのことを知らない人にとっては、そのゆがんだ窓を通して見た世界が“事実”だと思ってしまうのだ。
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このことは家庭環境についても言える。
親が子どもの土台である。
親という土俵がシンプルで磐石であれば、子どもはその上で存分に力を発揮することができる。そして、土俵の上で大いに遊びながら、体は土俵というもののあり方(Be)を身につけていく。土俵が世界であるから、そこで身につけるものは、ものの見方考え方感じ方―それらすべてである。そして、それらを身にまとったまま外に飛び出していくのだ。
その土俵が歪んでいるとしたらどうだろう。
たとえばFirefoxという土俵では普通に見えるコメント欄が、IEという土俵から見るとはみ出ている。コメント欄のあり方は同じでも、片方は土俵の中に収まり、片方は土俵からはみ出ている。つまり、子どものあり方は同じでも、片方の親から見れば“はみ出しもの”になってしまう。すると、その子は自己防衛のためにスクロールバーなどを勝手につけて窮屈に自主規制しなければならなくなる。そして、自分を見せるためにあっちへ行ったりこっちへ行ったり(スクロール)して、うろうろすることになる。
家庭という土俵で身につけたその処し方で世間に出ていくわけだから、生きにくいことこの上ない。IEというブラウザでネットの世界を見るように、IP(インナーペアレンツ)というフィルターを通して社会を見ることになるので(本人が気づいているにせよ、いないにせよ)大変なのだ。
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環境とは、このように知らない間に自分のあり方を規定しているものだ。そして、それに気づくことは、水槽にいる金魚に「あなたの周りには水があるんだよ」ということを気づかせることくらいに難しい。
理想の環境は、魚にとっての水や人にとっての空気―そこにあることを感じさせない。水質汚染や大気汚染で、それがそこにあることがわかるようになると、生きているプロセスのすべてにどんとのしかかってくる。
自己主張してくるOSやブラウザは、サービス過剰で重たい。まるで「お膳立て症候群」の親を見るようだ。
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私は、自分を取り巻く“環境”について気づいてもらうことをしているけれど、それは気づかなければ持たない、というその人のICの声が聞こえるからそうしているわけで、気づくだけで一挙に解消していく気持ちもあれば、返って浮き彫りになってくる気持ちもある。だから、気づいた後はその人の流れで変わっていくしかないし、それでいいと思う。
これまでの経験から言えることは、どんなことに対しても、ゆっくりと焦らずに、自分のペースで一歩一歩歩いていくしかないということ。愚痴りたい気持ちは大いに愚痴り、嘆きたい気持ちは存分に嘆き、羨望も恨みも憎しみも表現して、そうして歩きながら、少しづつフィルターの汚れを取り除いていって、曇りなき目で自分を見られるようになるといいな…。
ネットという世の中を見る窓(ブラウザ)のあり方から、いろいろと思考が浮遊してしまった。どのブラウザがいいよということではありません(念のため)。