「親の投資」という概念から脱却し、創発的人間関係へ
■親の投資(Parental investment)-----------------------------
投資という経済学の概念をロバート・トリヴァースが子育て(進化生物学)に適用したもので、子育ては子の利益のために親が資源(時間、金、体力など)を投資することと見なした。
生物は、自己の維持発達と種の保存(繁殖)という2つのことをするのだが、この2つをするに当たって資源は限られている。たとえば「時間はすべての人に公平に1日24時間しかない」。それを子どものために費やせば自分の時間は限られてくる。
このように自己投資が減れば、その分だけ将来の自己の成功度は下がってくる。つまり、現在育てている子の成功と、将来の親自身の成功はトレードオフ(一方を追求すれば他方を犠牲にせざるを得ないという二律背反)の関係にあるとみなす考え方だ。
妊婦を例に取ってみると、胎児は全面的に親から資源を得ているのに、母親は一方的に自己資源(時間、金、体力、栄養など)を子に奪われているということになる。カルシウムが奪われて歯が抜けたりする側面に注目すれば、この見方はリアルに感じられるかもしれない。
また、子育てに参加することなく社会的成功を収めていく夫に対して、子育てに縛られて社会から取り残されている感を抱く妻にとっても切実に感じることかもしれない。
さらには、パラサイト・シングル(親と同居し、親に依存している未婚者)を抱えて困っている親もそのように感じるかもしれない。
■概念により提起される課題---------------------------------
産業革命当時のイギリス社会のあり方が「弱肉強食」の思想を生み出したように、人間社会の現実が新たな思想や概念を生み出す。そういう社会を作ったのも、そこから概念を抽出するのも人間なのだが、それが真理ではなくとも、その社会をうまく説明してくれるものであれば社会に広まる。
広まって以降は、その概念が枠組みとして機能するため、今度はその概念を基にスタンプ集めが始まっていく。そして、次の発展段階に行くまでは、それらの概念が普遍的なものとして扱われたりする。
さて、投資という考え方に立つと、会社経営と同じく限られた資源をどのように配分するかという課題と投資効率という課題が浮上する。つまり、“考え方”により新たな“課題”が設定させられたり、明確化されたりするわけだ。
ここでは、次の2つの課題が設定される。
1,自分自身の生存の維持と子の要求のバランスをどうとるかという課題
2,子への投資効率という課題
そして、親は提起された課題についてあれこれと考えつつ不満を抱えながら生きるということになる。
1では、例に挙げられていたのは、子どもとじゃなく大人と会話したいとか、母親ではなく女性としての生を楽しみたいとか、ご近所ではなくもっと広く社会とかかわりたいとか…そういう不満だった。
2では、学歴社会にあってはどのように効率よく子に学歴をつけさせるか、早く大人にするかという悩みになる。
■資源配分の実例-----------------------------------------
私が会社人間だったとき、特に組織改革でプロジェクトリーダーをやったときは、人、金、時間という資源をどう配分するかという問題についてはプロだった。
各地から優秀なメンバーを集めて会議を開くわけだから、経費対効果を考え、無駄な時間は過ごさず本質的な議論をどんどん進めていった。分秒単位でタスクはあるから、誰とどのくらい会うのかも“選択と集中”を要した。その中に家族との時間も組み込まれるわけだから、私の起きている間の時間は仕事と家庭サービスと自分の時間に極端なアンバランスで3分割されていた。
資源の中でも特に重要な時間―会社でのタイムマネジメントはかなりハイレベルで行っていたので、この時の私ならば、子育てにおいても「有限な資源」をどのように配分するか、という上記の考え方をなんの疑問もなく受け入れたかもしれない。
実際、子どもが乳幼児の頃、子どもと一緒にいると2,3時間で天候が変わるように状況が変化していくので気が休まるヒマもなく、時間の使い方にメリハリがなくなって「こりゃ仕事より大変だ」と思ったことがあった。
そして、組織改革は成功し、会社で評価を得て世俗的な自己実現という意味では充実していた。つまり、上記の概念でいえば、家庭や子育てへの投資が少ない分充実した成功を得ることが出来たということになる。
それと引き替えに妻は子どもに縛られて自分の成功はトレードオフになり、その不満は夫や子に向かうということになる。
■子供の豊饒と大人の陳腐----------------------------------
けれど、私は退職した。勇気あるねと言われるが、そうではない。
「ここにいると退化する」―そういう危機感を切実に感じたからだ。
大企業だったので、優秀な人間もユニークな人間もたくさんいた。
が、つまらなかった。
そして、会社システムを変えるのではなく家族システムを変える仕事に転身した。家族カウンセリングを続ける内に、大人が大きな子どもであること、子が親を背負っている事例だらけであること、人は生まれたときから高い知性を持っていること、今の社会システムが人をロボットに退化させていることがよくわかった。
そして、はいはいしている0歳の時点で自殺を考えていた人、1歳の時には親族の権力関係を把握していた子どもなど、子の悩みの深さや子の世界の豊かさを知れば知るほど、自分が子どもに深くかかわらなかったことを残念に思ったのだ。
■創発的人間関係------------------------------------------
今私は、老人、大人、子どもを問わずすべての人のIC(インナーチャイルド)を救う仕事をしているが、それは楽しいからだ。人が活き活きと蘇っていくのを見るのが嬉しい。人が生まれ変わり育っていくのを見守る親としての喜びを繰り返し味わっている。そして、何より自分の魂の救いと成長につながっていることを実感している。
つまり、すべての人と一方的な関係ではなく、ギブ&テイクでもなく、互いに高めあっていくエネルギー循環関係にある。私と相談者の方は、相手が大人であれ子供であれ「創発」の関係なのだ。
ここでいう「創発」(emergence)とは、「私と相談者の相互作用によって予期しなかった全体的な特性(個体レベル、家族レベル、家系レベル、魂レベル…いろいろあります)が発見されること。そしてその特性が人生の各出来事に再び解釈を与える。こうした全体と個別な出来事との相互作用が繰り返され、自分及び相談者の方それぞれが深まっていくこと」―まさにemergence(脱皮、羽化、気づきの現出)を繰り返していくのである。
実は、プロジェクトが成功したのもプロジェクト会議の場が創発の場になったからである。功利的人間最右翼の人が「ダブルブッキングしていたけど、こっちが面白いからこっちに来た」と言ったのは、こちらの会議でその人が人間的成長を感じたからに他ならない。
■「有限な資源」という概念の消失----------------------------
会社員時代は枠組みの決まった中での創発だったが、今や「生きる」ということ全般にかかわる創発である。面白くないはずがない。
すると、「資源」という概念が私の中から消えた。
また、創発は無限なので「有限」という概念も消えた。
つまり、人を無益な競争に駆り立て、生活の隅々&人生全般にわたってどうバランスさせるかということに時間と思考(IP)を費やさせ、戦術だの戦略だのタイムマネジメントだのに汲々として「心」と向き合わせなくする諸悪の根源―「有限」な「資源」という呪縛から抜けることができたのである。
(権力者は、この「有限な資源」という概念をあらゆるところで用いて不安をあおり、人々を操作している。ちなみに、「水」という資源のすごさを科学的に知ると、物理的資源もそれがあれば十分ということもわかってくるだろう)
■時間との一体化-----------------------------------------
乗り換える船もないままに会社を辞めるときは、とても不安だった。3ヶ月先までびっしり埋まっていた手帳が明日から以降空白になった。3年計画が立てられたのが、3ヶ月先は何をしているかわからなかった。しかし、その生活に身体が馴染んでいったあるとき、不思議な感覚が訪れた。
「1瞬1秒がすべて自分の人生」
そう実感したのだ。私の人生の時間は仕事、家庭、自分などに分断されておらず、1瞬1秒がすべて自分の人生という完全なる自由と、誰のせいにもできない(自分の思うがまま)という責任の喜びを感じたのだ。
「自由と責任」
という言葉がお題目ではなく、内実の伴ったものになった。
時間と自分が一体化し、自分が時間とともにあるようになった。
つまり、私にとって時間が自分の“外”にある“有限な資源”ではなくなったのだ。“自分とともにある”ものだから、分割したり、有効活用したり、効率を考えたりしなくてよくなった。
「今」という時を楽しむようになった。
そして、今目の前にあることをきちんとやっていけば自ずと道が開けていくということを苦しみの体験の中から知った。
■「時間は公平に1日24時間」というまやかし--------------------
自分が時間と一体化すると、「時間はすべての人に公平に1日24時間与えられている」というまことしやかなまやかしが、どれほど人間をスポイルしているかに気づいた。
この考え方は時間を外在化させる。人と時間が切り離される。
つまり、人が人生(時の経過、プロセスそのもの)から切り離されるのだ。
人が自分の人生から疎外されている―こんな馬鹿なことはない。
プロセスとともにある(Be)ことができないので、「今」を生きることができない。何らかの結果や成果でしか自己を表現できなくなるので、実績だの効果だのという結果を追い求めるようになるから、「今」は将来の結果のためにしか存在しなくなる。だから、Doing の人生になる。
そして、結果に辿りつくための効率やスキルなど、「How to Do」のみが追究されて、「How to Be」は顧みられなくなってしまった。結局、どこまでDoingし続けても幸せにはなれない構図ができあがった。
『自分の感情(光)を封印したまま、闇の中でグルグル回り続ける。
まるで闇の回転体に閉じこめられたハツカネズミのように、走れども走れども出口はなく、人とつながることもない。走らされている間にGDPは積み上がるのでしょうが、そこに喜びも手応えもない。どんなに走っても同じ地点にとどまり続けて、結局自分の人生を一歩も歩くことはない。
人生を歩くことなく生かされる―これこそが地獄ではないでしょうか。』
【ブラックホールは実際にエネルギーを吸い取っている】
■子は福音----------------------------------------------
こういうことが理解されてくると、世俗的な自己実現などどうでもよくなってくるだろう。世間のレールに乗っている人が羨ましく見えていたのが、実は概念に踊らされているだけではないかと見えてくるだろう。自分一人取り残されたと思っているのが、実は最も大切なことに気づくチャンスを与えられているのでは、と思い至るだろう。
そして、「育児は育自」の言葉通り、子育てこそが自分のICに気づき、自分を救うチャンスであり、自分を深めてくれることがわかるだろう。
また、「子は親の鏡」という言葉通り、子は投資の対象などではなく自分の本当の姿を見せてくれるありがたい鏡であることがわかるだろう。
私はキリスト教信者ではないが、迷っている親御さんに言うのは、「子に導かれよ」ということである。
マイミクの方の7歳になる女の子がお母さんに、かつてこう言ったという。
「おかあさんは、わたしの外側を育てて。
わたしは、わたしの中のわたしを育てるから。」
素晴らしい!これが真実だ。
生命というものは、本来まっすぐに成長する資質を持っている。
学問などしなくても、人は豊かな人生を全うすることができる。
親が介入しなければ、人類は素晴らしい社会をつくることができる。
こんな子供たちがそのまま大人になってくれれば、なんと魅力的な楽しい社会だろう。考えただけでワクワクする。そこでは、私はホモルーデンス(遊び人)のまま違う人生を歩いているだろう。このような七面倒くさい文章など書かず、感性のままに生きているだろう(笑)。
■答えは自分の中にある-----------------------------------
親は子のために自己資源を投資するなどというつまらぬことを考えなくてよい。子と一緒になって、もう一度若返って人生を楽しめばよい。あるいは、活き活きと生きている姿を子に見せていればよい。
ロボット化した大人や社会と付き合ったところで、それは自己の充実や成長につながらないことがわかると思う。一番自分を成長させてくれるのは、いつの時代も常に子どもなのだ。
その子育てと自己の成長とを対立軸で捉えようとする「親の投資」という概念は、IPの陰謀か?(^^;)と思ってしまうような概念だ。ショーウインドウには様々な理論や概念、思想やイデオロギーが並んでいることだろう。あるいは、並べさせてもらえない隠された真実もたくさんあるだろう。
偉い人や学者が言っているとか、世間の多くの人がそう思っているから、と安易に生き方や考え方を取り入れたとき、自分の人生そのものを失ってしまうことさえあるのだ。怖いでしょ?
ショーウインドウに手を伸ばすのではなく、自分の気持ちに聴いてほしい。
答えは常に自分の中にある。