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リビング・ライブラリー~わたしを 読んで ください~

2010/03/26(Fri) Category : TV.本.漫画
昨夜、NHK教育で「リビング・ライブラリー ~わたしを 読んで ください~」という番組を見た。タイトルが気になって思わずそのまま見てしまった。

リビング・ライブラリー(Living Library)とは、生きている図書館。どうやら“人”が“本”となって貸し出される場のようだ。「Living Books」(生きている本)となった人は、“読み手”との面談の場で自分の体験を語る。“読み手”が直接質問できるところが、“生きている本”の特徴である。

最初は、人を本として貸し出す? なんとまぁ…と思ったのだが、東京大学先端科学技術研究センターの中邑賢龍教授が「生涯教育」というアピールと「Living Books」というアピールでは、どちらに人が来やすいでしょうか、というお話しになるほどと思った。

本になる人は、ホームレス、トランスジェンダー、薬物障害者、全盲の方、高次機能障害者など、“読者”が興味を持っていても普段接することのない人たちだ。たとえば、ホームレスの人たちはどのようにしてそうなったのか、また日々の暮らしはどうしているのか、という関心を持つ人もいるだろうが、といって直接ホームレスの方に話しかける人は少ないだろう。一方、“本”になったホームレスの方も言っていたが、自分の体験を聴いてくれる人がいると言うことが力になっている。

リビング・ライブラリーは、このように自分を知って欲しい人と知りたい人との間を安全に安心して取り持つ役割を果たしている。なかなか面白い試みだと思った。もとはデンマークで暴力追放をテーマにしたロック音楽祭の企画として始まったそうだ。

互いを知ることで偏見が消える。ホームレスの方の話を聴かれた人の言葉が象徴的だった。聴く前は、“ホームレス”と見なしていたが、聴かれた後は“○○さん”という個人に変わっていた。レッテル貼りされた記号としての人ではなく、自分の同じ一人の人間として名前を持つ“○○さん”に変わっていたのだ。

全世界にこの試みが広がっていると言うが、どんどん広がって欲しいと思う。
性別、人種、信仰、思想、信条、主義、主張などぶっ飛んでいくだろう。そこに自分と同じように悩み生きている隣人を見出すからだ。

自分は普通と思っている人は、普通なんてないんだとわかるだろうし、
自分は特別と思っている人は、なんだ自分だけじゃないんだとわかるだろう



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印象に残ったのは、全身大やけどを負われた女性。
皮膚をこさぎ落とさなければ下から新しい皮膚が出てこない。
病院で容赦なく皮膚をこさぎ落とす場面は、想像するだに地獄だ。

自分を責め、親を責め、世の中を責め、神を責めた。
しかし、ある時、怨念にまみれている自分に気づいたという。

そのときに思ったそうだ。
もしこのまま自分の肉体がなくなれば、“自分”はただの“怨念の塊”だ。

そのときから思考が変わった。
引きこもっていたが外に出るようになった。
出ると人が見る。視線を感じると、その視線を避けるのではなく、そちらを見て会釈した。すると、相手の方も挨拶を返したり話しかけてきたり。

生きていることに、自分に、親に、感謝するようになった。
今は、私もなかなかかわいいじゃない、と思っている。
そして、体験を話したいと思うようになった。

ここに至るまでが5分なのか、10年なのか。
その期間が長いのか短いのか、それはわからない。
そう語る彼女はすべてを受け入れていた。
目が生きていた。


すごい!
彼女は自力で地獄から脱出したのだ。

“怨念の塊”として今を生きていたとき、それはそのまま未来となり、そして死後を迎える可能性も大いにあっただろう。怨念の中をグルグル回っている―それが地獄である。

が、気づきは、彼女の「今」を感謝の日々に変えた。そして自分を閉じこめず、外に出した。それが道を開いていった。

こうして人が真剣に話を聴いてくれる。
また、控え室で会う「Living Books」の方の中には、“人の顔を記憶できない”という苦しみを持つ人もいる。全盲の方は、見えないことが当たり前で見えることの方が“異常”だと言う。性が違う身体に入っている苦しみを持つ人もいる…。

火傷を負った顔にコンプレックスを持っていた自分。どんな顔であろうが覚えられない人。そもそも見える世界にいない人。根本的に性自体が違ってしまっていた人。

彼女はそういう人々と出会い、世界が広がり、性別や人種、障害などを越えて、外見に囚われない魂としての生き方にどんどん近づいている気がする。



今は、人と人を遠ざけるための理屈、教え、仕組みが蔓延している社会だが、数十年前までは声を掛け合う社会だった。この異常な社会の中で、このような試みをはじめ、本物のつながりを求めるいろいろな試みが出てきているように思う。薄っぺらな社会は、やがてはがれ落ちていくだろう。これからが面白い。





Living Library Japan



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所詮今更

 

私も

Sallyさん

私も、「昔はよかった」といわれたら

それでも、今 こんななんだと思います。

じゃ、この先は・・・て。

 

中尾先生に甘えさせてもらいながら。。。

咲太さん、ありがとうございます。

先のコメントを書いたあとで、「また、やってしまった」と何度か悔いました。
小さい頃、親戚の叔母の家に何泊か泊まり、夢のようなあたたかい日々をすごした後、実の家に戻り、「帰ってきてしまった」と布団の中で泣いた記憶があります。
先のコメントは、そういう家で育った私の体感なのです。
人の善意を素直に受け入れられる育ち方をしたかったな~
今はまだ生き直している最中なのかもしれません。
生き直して、生き直して、楽になったころにお迎えがくるのかな~、なんて。

無責任コメントで、どうも。

 

Sallyさんに共感しました

先生のブログにはいつも励まされ、学ばせてもらっています。
どうもありがとうございます。

ただSallyさん、そういった感覚、私もとても共感します。
「人の為に」という大義名分に隠れて、
口にはできない本音を正当化して押し付けたり、
受け入れない人に罪悪感を感じさせるような遣り方をする人たちもいるのは確かなのではないでしょうか。

本当に相手の為を思ってのことなのか、そういう風を装った自分や自分たちの利益の為なのか。
勘のいい人にはどうしても感じてしまうものだとおもいます。
表面的には同じでも、中身は似て非なるものですね。

先生のおっしゃられているのは、きっと純粋に気持ちよく気軽に声を掛け合えるような、装って計算しているのではなく、内面的にもあたたかさのあるあり方のことなのでしょうね。
そういった器の大きい社会には憧れます。
一昔前は本物と偽物が入り交じっていたので、Sallyさんのように感じる人も多いのかもしれませんね。

 

違和感

>数十年前までは声を掛け合う社会だった

こちらでこういう文章をときどき見かけます。
私のセラピストも、「昔はよかった。今はひどい」みたいなことをときどき言います。

私の現在までの体感としては、「昔の方が良かったのなら、なぜ今私は苦しい思いをしているの?」と思います。
そんなに単純な話ではないことはわかっているつもりです。
ただ、「声を掛け合う」というよりも、「みんなで見張り合っていた」ような感じが、どうしてもしてしまうのです。

 
    
 
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