「離」の章:親への執着を手放しハラスメント界から離れる時、生きる意味が見えてくる
さて、前項のコメントで、お金を「親に出してもらった場合でもだめなのか・・・」とありました。それは無意識に飲み込まれている場合とお考えください。要は意識の問題です。親のために頑張ってきたのだから、その慰謝料のつもりで遠慮せずに脱出費用を出してもらっていいのです。親が無意識でどのように押しつけてこようとも、こちらが罪悪感(←IP)など持たずに堂々と受けていればいいのです。何事も自分に無理をさせないこと(←無理をさせる方向に考えるのがIP)。まずは脱出して身の安全を確保すること。
…では、「離」の章です。
■「離」---------------------------------------------------
このブログでは、人を道具にする人のことをハラッサーと呼び、人を道具にしあう関係=共依存関係で成り立っている世界のことをハラスメント界と呼んでいます。ハラスメント界では、人は役割を押しつけられ機能として生きることになり、思考(IP)で生きることになります。あなたがこうすればいい、と相手に押しつける「Youメッセージ」の世界であり、Doingしあう世界です。
それに対して自律界とは、自分の思いを「Iメッセージ」で伝える世界であり、互いを認め合うBeingの世界です。どの人も気持ちのままに全的に生きることが出来ます。
この二つの世界が同時に存在しているのですが、ハラッサーは道具になる人間しか相手にしようとしませんから、自律した人間には手を出しません。
「波長が合う」という言葉がありますが、やはり同じ波長の者同士が引き合っているのですね。ですから出逢った相手が自分の鏡となるわけです。
こうして共依存者(ハラッサー)は共依存者(ハラッシー)と出逢い、自律した人は自律した人と出逢っていくわけです。共依存者は、自律した人との出逢いは無意識にスルーしています(人生脚本にあわない人間は舞台に登場させません)から、自律した人間などいないと思っていますし、本人からすれば自律した人など見たことがないわけですから、自律界などあるはずがないと思っています。
また、地域によっては「波長が合う」「類は友を呼ぶ」現象で、共依存者が集まっている地域もあります。「ご近所迷惑」や「近隣トラブル」は、意識を自分の“外”にむけるための何よりのご馳走だからですね。奥まった地形や迷路のような地形の所に吹きだまりのように集まってきたりすることもあります。そして、そういう地域で育った人は、人間社会がすべてそういう社会だと思ってしまいます(それに、親も「人を信用するな」という刷り込みをしていますし)。
その上、「断」の章で書きましたように、自分自身がハラスメント界を離れたくないのです。なぜなら、そこに親が棲んでいるからです。そして、次のような形でハラスメント界と付き合い続けます(無意識です)。
1,自分が親からされたことと同じような環境の中に身を置いたり、同じようなシチュエーション(状況)を作り出す。
→脳内親にその姿を見せるため(脚本ちゃん)
→なぜ、親がそうなのかを無意識に探るため(謎解きちゃん)
2,親と同様な相手(代理親)を見つけ出し接近する
→親の心理を無意識に探るため(謎解きちゃん)
→自分を理解してもらうための議論や怒りをぶつけるため(代償行為)
3,自分が親と同じ立場になれる相手を見つけ出し接近する
→自分がすることで親の心理を疑似体験するため
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たとえば、親の受け皿となった人は他人の中でも受け皿となることで役に立とうとします。その役割を演じている姿を脳内親に見せることが脚本ちゃん(人生脚本)の喜びなのです。
同時に、他人からも自分が受け皿(道具)にされることで、自分を道具にした親を庇うことができます。「私を道具にしたのはお母さんだけじゃないよ。他人もそうするよ。だから、お母さんは悪くない。私に問題があるんだよ」という虚構を維持できるのです。母親に絶望したくない子どもは、苦しくてもこの虚構を維持しようとします。
一方で、虚構を維持するゲームを続けながら、なぜ母親は自分にそうしたのかという謎を解き続けていますし、自分がどれほど不幸になれば母親は心配してくれるのか、ということも密かに気にしています。
そういうゲームの中で、母親に言えなかった怒りをぶつけたり、逆に母親の立場になってみたりすることで、自分の気持ちを吐き出したり、母親の気持ちを疑似体験したりしているわけです。
けれど、このゲームは終わることがありません。というのも、代償行為で出している感情はホンモノではないので、それが母親への怒りと自覚できるまで永遠に続きます。つまり、怒りなどの感情の吐き出し先を求め続けると言うことです。
では、母親への怒りと自覚できるかというと、母親に見捨てられたくないので、無意識に気づかないようにしています。
また、自分に問題があることにしておけば、親への“可能性”は残り続けます。“可能性”を失いたくないために、自分に問題があることを“証明”し続けなければなりません。そのために、自分を認めてくれる自律界ではなく、決して自分を認めようとはしないハラスメント界に居続けるのです。
その上、「心のコップ」の蓋を開くと不安感情がとび出してくるので、それを見たくないためにインナーチャイルドは封印されたままになり、脚本人生劇場が延々と続いていくことになります。
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離れましょう。
親の本性を見ることは、絶望することではありません。
親もまた弱き人間だったのだと知ることなのです。
そして、それが精一杯の人生であったと知れば、親も自分も悪くはなかったのだとわかるときが来るでしょう。
親に執着する根源にあるのは、「自分は生きていていい存在なのか」という問いなのではないかと思います。でも、親はそれを証明してくれることは決してありません。もしそれをしてしまったら、この世にたった一人取り残されるのは親のIC(インナーチャイルド)だからです。
離れましょう。
自律界の人々こそが、あなたは「存分に生きていい」と認めてくれるでしょう。
すると、自分の気持ちを自分が受け止める余裕も出来るでしょう。
自分で自分を救うことが出来ることがわかれば、親への思いも変わってくるでしょう。
そして、それらの経験を経たとき、あなたは体験の意味がわかるでしょう。
そのときこそ、自分がなんのために生きているのかが見えてくるのだと思います。そして、自分のなすべきことが見えてくると思います。
生きる意味、自分がなすべきこと―それは、このような自分との闘いの中から見えてくるものなのだと思います。