夫婦再生物語-(9)両親への感謝と個性(固有の体験)を誇れ
■侵入感知センサー------------------------------------------
『二人が積み上げてきた歴史がものを言った』―その歴史を振り返ってみました。
押しつけてくる過干渉な父と心配性の過保護な母。
よく見られる両親の図ですね。
“押しつけ”も“心配性”も、“侵入”というメダルの裏表でした。
その環境の中で生き延びるために、私は“侵入”を徹底排除する侵入感知センサーを身につけました。
花粉の侵入にさらされ続けると、ほんのわずかな侵入もくしゃみや鼻水などで徹底排除するアレルギーが発症(過剰な自己防衛網が確立)しますが、親の侵入にさらされ続けた私は、“侵入”に対する過剰な自己防衛網ができてしまったのです。ですから、“侵入”ではないことも、私のセンサーは“侵入”と判断し、拒絶排除の行動を取るのです。
ただ、そのセンサーは普段は働くことがありません。友人、師弟、同僚、先輩後輩、上司部下…あらゆる人間関係は、そこに予め境界があるので安心しているのでしょう。だから、自然体でいられます。
逆説的ですが、私が誰と接しても自然体でいられるのは、侵入を警戒しなければならないほど“身内”の存在ではないからだったのでしょう。スイッチが入るのは、相手が身内と言えるほどに近い存在になったときだったのです。
■すべては“関係性”の問題-----------------------------------
源家族のあり方に反発はしていても、身体はそのあり方を身につけています。
結婚して私が妻に押しつけたのは“中尾家”モデルでした。
一方、実の父を知らぬ妻は理想の夫像、父親像を私に押しつけてきました。互いに互いのあるがままを見ておらず、それが相互に苦しめ合うことになったのです。
また、私にとって心配されるということは侵入でしたので、心配することもされることも極端に嫌いました。おまけに会社三昧となって家庭のことは妻に任せっきりになっていきました。すると、私が心配しない分、妻の心配性は加速していきました。すべては個々人固有の問題ではなく「関係性の問題」なのです。
いつしか妻は、私にとって“押しつけてくる父と心配性の母”のような存在になっていました。その結果、私のセンサーは警戒し続けることになり、妻が少しでも侵入の気配を見せると、とたんに拒絶しました。時に激しく爆発的に。
妻は訳がわからなかったと思います。どこで地雷を踏むかわからない妻にしてみれば、私の顔色をうかがうようになっていったのは無理もありませんでした。
ところが、妻がこちらを伺うそぶりを見せると、私の方は痛くもない腹の中を探られるような気持ちになります。つまり、私にとってそれは“侵入”されていることになるわけです。だから、怒りが湧く―そういう悪循環に陥っていきました…。
■過敏センサーに動かされたゲーム------------------------------
今思えば、隣人から恋人の関係になった時から、侵入感知センサーにスイッチが入っていました。恋人時代に一度別れたことがありましたが、それも過敏センサーにより私が重く感じたことが原因だったと思います。
ですから、結婚後も私が意識せずとも24時間勝手にレーダーを回していたのです。当然妻はセンサーに引っかからないようにビクビクし、そのビクビクがまたセンサーを刺激し、そのたびに私は「侵入するな!」と拒絶し…。結局私は、自分のセンサーに踊らされて、親に言いたかったことを妻に言って怒りをはき出す代償行為のゲームをやっていたのです。
その私に妻は「怒りんぼ」とレッテル貼りし、私はその位置に固定されることになりました。そして妻は、自己防衛からことあるごとに「怒らないで」というフレーズで私を迎撃するようになったわけですが、実はこれもまた代償行為でした。
結局、子供たちから見れば「どっちもどっち」という状況で、お互いに硬直したゲーム(親にいいたいことの吐き出し合い)を続けていたわけです。
■ゲームからの離脱------------------------------------------
しかし、会社を辞めるなどの環境激変の中で互いが足を引っ張り合っていることがわかってきました。そして、心の学びの深まりとともに私がゲームを敬遠するようになっていきました。
私がそのセンサーの存在を認知する(=私が“侵入”に対して過敏であると自分でハッキリと口に出して認める)ということは、無意識下にあったセンサーが意識上に引き出されるということです。つまり、私が自覚的にそれを利用することができるようになるわけです。そして、私はそれを利用しました。
私は、注意深く、妻の言動に侵入の要素がないかを「感視」しており、安心して近づいたり、敬遠して遠ざかったりしました。つまり、センサーに踊らされて怒りをはき出すゲームになっていた部分をなくして、センサーをセンサーとしてのみ活用するようになったわけです。
妻の方からすれば、私から感情をぶつけられることがなくなり、私が近づいたり離れたりするというフィードバックのみを受けるようになったわけですから感情のバトルになることはなく、互いに相手を鏡として自分を振り返るということができるようになっていきました。それが妻の成長を加速させました。
その成長の間も、私の過敏センサーは妻の“安全度”を確認していたのです。そして、安全だというゴーサインを感知して、奥の奥に隠れていたICが出てきたのだと思います。
■奇跡を可能にした過敏センサー-------------------------------
このように振り返ってみると、リンゴの実が枝を離れる瞬間を見事に捉えることができたのは、まさに私のセンサーが研ぎすまされていたからに他なりません。これほど研ぎすまされたセンサーを私が持っていなければ、奇跡とも言えるこの瞬間を、私はものにすることができなかったでしょう。
1日にも満たない間に、互いへの諦めが深い絆へとコペ転してしまう。
それが成った背景には、長い長い積み重ねと忍耐の歴史とがあったのです。
そして、過敏センサーが妻の成長を見極め、奇蹟を起こしてくれたのです。
ですから、奇蹟は奇蹟なのですが、起こるべくして起こった奇蹟でした。
■両親への心からの感謝-------------------------------------
結局、過敏センサーが悪かったのではなく、私がICを受け止めていなかったことがゲーム人生を送らせることになっていたわけです。
逆に、奇蹟を起こした立役者は、リンゴが熟すまで待った私の「忍耐」と、リンゴが枝から落ちる瞬間を感受した「過敏センサー」の2つでした。
いろいろな押しつけをして「忍耐」を教えてくれたのは父でした。
そして、私に「過敏センサー」を形成させたのは母です。
実は、以前虎井さんのリーディングの時に両親のことも聴いていたのですが、父は過去生でも忍耐強い人でした。私は、その忍耐強い魂から忍耐の心を学んだのかもしれません。
そして、過敏センサーもまた、身につけようと思って身につけられるものではありません。しかも、そのセンサーがあるからこそ、そういう人々の心模様もわかることができますし、今の仕事に貢献しています。
何より、私と妻をしっかりと結びつけてくれ、私を百年の孤独から救ってくれたのは、「忍耐」と「過敏センサー」の2つだったのです。
私と妻を救ったのは、両親からのギフトでした。
私が苦しんだ押しつけと心配性という侵入。
しかしそれが、究極に私を救うものに転化するとは!
私は、この壮大なカラクリに気づいて感動しました。
結局、自分の人生ですから、
自分が自分を救うしかないというところに辿りつきます。
そのためには、自分で自分を救える力と能力を身につけなければならないわけです。それは半端なことでは身につきません。私の両親は、自らを助けることのできる力と能力を、あのような形で私につけてくれたと今は思えるのです。
両親以外に、それができる人はいませんでした。
ですから、今、心から言えるのです。
お父さん、お母さん、ありがとう。
★個性(固有の体験)を誇れ---------------------------------
身についたセンサーを恨む必要はありません。
これまでの半生をゲーム人生と悔いる必要もありません。
そこから得たものが私の基礎をなしています。
私の体験全てが私の個性なのです。
すべては、私だけの固有の体験。
あなたも同じ。
それがどんな体験であっても、それをあなたは誇ってください。
その中に、自分を救う鍵が隠れています。
あなたの体験の中にギフトが隠されています。
大切なことは
過去を悔いることでも否定することでもありません。
ただ事実を真正面から受け止めること。
そして、
今どこにいるのかを、心の目でしっかりと確認することです。