自律と依存:人は常に人生の踊り場を生きている
2010/05/17(Mon) Category : 自律(自由と責任)への道
【自律と依存】
前項で、『自律とは、依存(執着)を手放すために不断に努力し続ける姿勢そのものにあると言えるでしょう。その人が今ブラックホールであっても、執着を手放しはじめたらもう自律への道を共に歩く仲間であり、逆に今与える人であっても、「当然」という思いが宿りはじめたら闇へと落ちていくのです』と書きました。
『人を破滅に追いやる共依存から束縛し合わない自律までの間はグラデーションのようにつながっていて、私たちはそのどちらにも行くことができる』わけですね。

7,「鬼子母神」と「堕天使ルシファー」-----------------------------
たとえば、他人の子を食べていた鬼子母神は、我が子が神隠しにあったときに子を失う母の気持ちを痛感させられて仏教に帰依し、以降は子を守る神となりました。この鬼子母神は、図で言えばブラックホールを抜けてホワイトホールに向かったと言えるでしょう。
たとえば、力があり傲慢となった大天使ルシファー(光を帯びたもの)は、神に自分を認めさせたいためにその力を使って災いを起こし、結局地獄に封印された堕天使となりました。これは、図で言えばホワイトホールからブラックホールに落ちたと言えるでしょう。
このように誰もが、どこからでも、自律に向かうことも共依存に向かうこともできるのです。以前、【自律とは、どういうことでしょうね】の中で次のように書きました。
『今自覚的に自分と闘っている人は、脚本に足下をすくわれようと、IPに惑わされようと、存在不安に耐えられず時に間違った選択をしようと、既に自律しているのです。つまり、自律とは「自分の気持ちと常に向き合う姿勢」のことなんだと思います。』
結局、「今」の自分の生きる姿勢がどちらを向いているのかということだけなのだと思います。
8,「文化」と「文明」------------------------------------------
さて、「足るを知る」境地にいたれば「奪い続けるブラックホール」(共依存のハラスメント界)から抜け出せたと言えますが、その先も「与え続ける」という神のごとき境地に向かって自律の道は無限に続いていくのでしょう。
しかしそれは、ただアナログ的に連綿と続いていくのではなく、発達段階に応じて祝福(誕生祝い、お宮参り、袴の儀、髪結いの儀、羽織の儀、元服、髪上げの儀、結納、結婚式、銀婚式、金婚式、還暦などの通過儀礼)されながらのことでした。
そして、それらの通過儀礼は個人の発達課題(青年期や中年期の危機など)や家族の発達課題(子の成長に伴う家族ホメオスタシスの移行など)に気づかせるきっかけにもなっていただろうと思います。このように、人を精神的に成熟させる仕組みが社会の中にビルトインされていること―それが、「風習」や「文化」ですね。
ところが物質文明の進展とともに社会的通過儀礼がなくなり、季節の節目を祝う節句も廃れてくると、人は自分の成長を確認するけじめや尺度を失っていきました。代わりに出てきた尺度が学歴や財産や有名度(学校名、会社名他)などです。
これは、自律した人間を嫌う物質文明(←人を道具にしたいので)が、精神的成熟を測る尺度を社会から駆逐し、物質文明に貢献する尺度を社会に蔓延させたと言えるかもしれませんね。
文化は地域風土に根ざした極めて個性的なものです。しかし、今や国際分業という共依存文明がグローバルにまで拡大してしまいました。地域個別文化が駆逐され、世界的共依存文明が広がったのが現代です。
9,物質文明の踊り場---------------------------------------
現代の人類は、自律を妨げようとする物質至上主義の文明の中で自律を目指さなければなりませんので、とても大変です(--;)。でも、物質文明に踊らされた人々が自分に与える評価は、所詮人を幸せにはしないものだと達観してください。
もはやモノがあっても幸せではないでしょう?
既にモノを生産し消費させる方向の価値尺度は、人の心にそぐわなくなっていますので、やがて消えていくでしょう。
現代社会の価値尺度に苦しんでいるのは、あなたは一人ではありません。物質文明は、なるべく早く人を道具にしたいので、幼児教育に始まって休むことなく人を追い立て続けます。それは同時に、人が自分と対話する時間をなくして、ロボット化を促進していることになります。
つまり、物質文明は、人を「心」から立ち退くように追い立てているのです。
これだけ心の病が蔓延しているということは、心が置いて行かれているということ。置き去りにされた「心」の叫びなのです。
同時にそれは、物質文明の評価(押しつけ)やスピードに不満を持っている人が増大していることを示しています。人を幸せにしない文明は所詮幻。バブルがそうであったように、やがて線香花火のように消えていくでしょう。
実際、モノを欲しがらない、あるいはシェアするのが当たり前、権威をありがたがらない―そういう20代が増えています。物質文明の象徴である自動車。その運転免許もいらないという若者が増えており、時代が変わりはじめたなぁと感じて私は内心ワクワクしています。
私たちも若者に遅れず、もう踊らされるのはやめましょう。物質文明の土俵から一抜けしましょう。会社で忙しく働いて、週末は飲んで、休暇は車でレジャー…でも、「心」は空洞化している―それは幸せではありません。ただ踊らされているだけです。
今、そういう世間のレールから外れている方は、自分だけ取り残されて不幸なように思えるかもしれません。が、世間の方より先に「心」と向き合うチャンスを与えられているのです。新たな時代を拓く人たちなのです。
10,人生の踊り場--------------------------------------------
それから、外部環境がどうであれ、上記の発達階段を一つ一つ上っていくのは、いつの時代も同じなのです。
階段の途中にある踊り場で休んだり、
そこからしばし風景を眺めてみたり、
下の踊り場に忘れた物に気づいて取りに戻ったり、
同じ踊り場でグルグル回っていたり、
次に向かって一歩を踏み出しては後ろ髪を引かれて戻ったり……
そういうことをしながら、自分のペースで歩んでいくのだと思います。
人はある意味、常に人生の踊り場を生きていると言えるでしょう。
ですから、時代や社会の状況に囚われず、また上がったり降りたりグルグル回ったりする自分をも責めず、それをしたいだけすればいいと思います。
そのときに大切なことは、『自分が自分の気持ち(IC)を感じ、それを表現し尽くすこと』だと思います。
【夫婦再生物語-(10)インナーチャイルドを受け止めることが自分革命】
★----------------------------------------------------
鬼が神になることもわかり、天使が悪魔に堕ちることもわかりました。
現代社会が精神的成熟尺度を捨て、物質至上主義尺度で動いていることもわかりました。
しかし、外部環境がどうであれ、結局は自分の問題であることがわかります。
自分という「命」の原点に立ち戻って考えましょう。
「肉体」を持つ原点に戻って考えましょう。
文化や文明、天国や地獄などの“外部”がどうであれ、生きることは極めてシンプル。
感情を表現し尽くすこと―それが生きることだと思うのです。
前項で、『自律とは、依存(執着)を手放すために不断に努力し続ける姿勢そのものにあると言えるでしょう。その人が今ブラックホールであっても、執着を手放しはじめたらもう自律への道を共に歩く仲間であり、逆に今与える人であっても、「当然」という思いが宿りはじめたら闇へと落ちていくのです』と書きました。
『人を破滅に追いやる共依存から束縛し合わない自律までの間はグラデーションのようにつながっていて、私たちはそのどちらにも行くことができる』わけですね。

7,「鬼子母神」と「堕天使ルシファー」-----------------------------
たとえば、他人の子を食べていた鬼子母神は、我が子が神隠しにあったときに子を失う母の気持ちを痛感させられて仏教に帰依し、以降は子を守る神となりました。この鬼子母神は、図で言えばブラックホールを抜けてホワイトホールに向かったと言えるでしょう。
たとえば、力があり傲慢となった大天使ルシファー(光を帯びたもの)は、神に自分を認めさせたいためにその力を使って災いを起こし、結局地獄に封印された堕天使となりました。これは、図で言えばホワイトホールからブラックホールに落ちたと言えるでしょう。
このように誰もが、どこからでも、自律に向かうことも共依存に向かうこともできるのです。以前、【自律とは、どういうことでしょうね】の中で次のように書きました。
『今自覚的に自分と闘っている人は、脚本に足下をすくわれようと、IPに惑わされようと、存在不安に耐えられず時に間違った選択をしようと、既に自律しているのです。つまり、自律とは「自分の気持ちと常に向き合う姿勢」のことなんだと思います。』
結局、「今」の自分の生きる姿勢がどちらを向いているのかということだけなのだと思います。
8,「文化」と「文明」------------------------------------------
さて、「足るを知る」境地にいたれば「奪い続けるブラックホール」(共依存のハラスメント界)から抜け出せたと言えますが、その先も「与え続ける」という神のごとき境地に向かって自律の道は無限に続いていくのでしょう。
しかしそれは、ただアナログ的に連綿と続いていくのではなく、発達段階に応じて祝福(誕生祝い、お宮参り、袴の儀、髪結いの儀、羽織の儀、元服、髪上げの儀、結納、結婚式、銀婚式、金婚式、還暦などの通過儀礼)されながらのことでした。
そして、それらの通過儀礼は個人の発達課題(青年期や中年期の危機など)や家族の発達課題(子の成長に伴う家族ホメオスタシスの移行など)に気づかせるきっかけにもなっていただろうと思います。このように、人を精神的に成熟させる仕組みが社会の中にビルトインされていること―それが、「風習」や「文化」ですね。
ところが物質文明の進展とともに社会的通過儀礼がなくなり、季節の節目を祝う節句も廃れてくると、人は自分の成長を確認するけじめや尺度を失っていきました。代わりに出てきた尺度が学歴や財産や有名度(学校名、会社名他)などです。
これは、自律した人間を嫌う物質文明(←人を道具にしたいので)が、精神的成熟を測る尺度を社会から駆逐し、物質文明に貢献する尺度を社会に蔓延させたと言えるかもしれませんね。
文化は地域風土に根ざした極めて個性的なものです。しかし、今や国際分業という共依存文明がグローバルにまで拡大してしまいました。地域個別文化が駆逐され、世界的共依存文明が広がったのが現代です。
9,物質文明の踊り場---------------------------------------
現代の人類は、自律を妨げようとする物質至上主義の文明の中で自律を目指さなければなりませんので、とても大変です(--;)。でも、物質文明に踊らされた人々が自分に与える評価は、所詮人を幸せにはしないものだと達観してください。
もはやモノがあっても幸せではないでしょう?
既にモノを生産し消費させる方向の価値尺度は、人の心にそぐわなくなっていますので、やがて消えていくでしょう。
現代社会の価値尺度に苦しんでいるのは、あなたは一人ではありません。物質文明は、なるべく早く人を道具にしたいので、幼児教育に始まって休むことなく人を追い立て続けます。それは同時に、人が自分と対話する時間をなくして、ロボット化を促進していることになります。
つまり、物質文明は、人を「心」から立ち退くように追い立てているのです。
これだけ心の病が蔓延しているということは、心が置いて行かれているということ。置き去りにされた「心」の叫びなのです。
同時にそれは、物質文明の評価(押しつけ)やスピードに不満を持っている人が増大していることを示しています。人を幸せにしない文明は所詮幻。バブルがそうであったように、やがて線香花火のように消えていくでしょう。
実際、モノを欲しがらない、あるいはシェアするのが当たり前、権威をありがたがらない―そういう20代が増えています。物質文明の象徴である自動車。その運転免許もいらないという若者が増えており、時代が変わりはじめたなぁと感じて私は内心ワクワクしています。
私たちも若者に遅れず、もう踊らされるのはやめましょう。物質文明の土俵から一抜けしましょう。会社で忙しく働いて、週末は飲んで、休暇は車でレジャー…でも、「心」は空洞化している―それは幸せではありません。ただ踊らされているだけです。
今、そういう世間のレールから外れている方は、自分だけ取り残されて不幸なように思えるかもしれません。が、世間の方より先に「心」と向き合うチャンスを与えられているのです。新たな時代を拓く人たちなのです。
10,人生の踊り場--------------------------------------------
それから、外部環境がどうであれ、上記の発達階段を一つ一つ上っていくのは、いつの時代も同じなのです。
階段の途中にある踊り場で休んだり、
そこからしばし風景を眺めてみたり、
下の踊り場に忘れた物に気づいて取りに戻ったり、
同じ踊り場でグルグル回っていたり、
次に向かって一歩を踏み出しては後ろ髪を引かれて戻ったり……
そういうことをしながら、自分のペースで歩んでいくのだと思います。
人はある意味、常に人生の踊り場を生きていると言えるでしょう。
ですから、時代や社会の状況に囚われず、また上がったり降りたりグルグル回ったりする自分をも責めず、それをしたいだけすればいいと思います。
そのときに大切なことは、『自分が自分の気持ち(IC)を感じ、それを表現し尽くすこと』だと思います。
【夫婦再生物語-(10)インナーチャイルドを受け止めることが自分革命】
★----------------------------------------------------
鬼が神になることもわかり、天使が悪魔に堕ちることもわかりました。
現代社会が精神的成熟尺度を捨て、物質至上主義尺度で動いていることもわかりました。
しかし、外部環境がどうであれ、結局は自分の問題であることがわかります。
自分という「命」の原点に立ち戻って考えましょう。
「肉体」を持つ原点に戻って考えましょう。
文化や文明、天国や地獄などの“外部”がどうであれ、生きることは極めてシンプル。
感情を表現し尽くすこと―それが生きることだと思うのです。