「FLOWERS -フラワーズ-」~凛として立つ花たち
後半はもはや涙を口元でぬぐうありさま。
妻に誘われて見に行き、何の先入観もなしに見始めた映画だった。
終わった後は、あの「THIS IS IT」の時と同じ。
しばらく通路から出られなかった。
全く…、妻の誘う映画には不意を打たれる。
妻はまたも、この映画は一人では見る気がせず、なんとなく私と見たいと思っていたそうだ。実は、この映画を見る数日前に「告白」を見に行ったときにもこの映画の話題が出ていたのだが、私はあまり気にとめていなかった……。
★「告白」-------------------------------------------------
「告白」は、見に行った娘が帰って来るや話したくてうずうずしており、聞くと、その表現力の豊かなこと。精神が追い詰められていく不気味さが伝わってきた。「パパとママも見て」と言うので、「お前一人で抱えていたくないんだろう」と冗談とばしつつ、翌日妻と見に行ったのだ。
娘の表現のおかげでかなりイマジネーションをかき立てられていたせいか、映画の方がおとなしかった(いえ、十分なんですが)。
確かに救いのない映画だった。登場人物のすべてが、自分で自分を支えられない人たち。人を道具にして自分を支えようとし、自分を道具にして自分を認めてもらおうとしている。愛に飢えた羊たち…。
気持ちこそが自分自身であるのに、その気持ちは封印された迷宮の中だから、自分はどこにも存在していない。その狂おしい空虚の中で、『馬鹿馬鹿しい』と言いつつ存在証明のゲームが憑かれたように進行していく…。
…とはいえ、私も若い頃ケンカしたときに、こいつを道連れに3、4mほど下の、殆ど水が流れていないコンクリートの川に落ちてやろうとしたことがあり、一旦転がりはじめたときの冷静な狂気を少しだけ知っている。
この時は、ケンカ相手の仲間が見届け役としていて、彼が察知して止めてくれたので今では感謝だが、自分の味方ではなくとも、ともかくそこにまっすぐに立っている人間が一人いなければ、事態は付和雷同的に浮き草のように流れていくこともあろうと思う。
敵とか味方とかではなく、まっすぐに立っている人間がいないこと―それが、救いのない世界なのだろう。
【Radiohead 「Last Flowers」 】
★「FLOWERS」-------------------------------------------
翻って、その数日後(先週の話しです)に見た「FLOWERS -フラワーズ-」。
6人の女性達のいずれもが、恨みと愚痴と嘆きの人生を歩んでもおかしくない背景を持っていた。その抱える背景を思うとき、涙があふれるのである。
この中の誰もが、どのように堕ちていてもおかしくなかっただろう。
しかし、彼女たちはその運命に負けなかった。
なぜ、彼女たちは人を道具にする共依存界に堕ちることがなかったのか。
それは、凛として立つ自律モデルを見てきたからだろう。
この3世代の女性達の源流―その名も、「凜」。
彼女が見事だった。
自分の思いを怖れず口に出した。
そして、気持ちのままに行動した。
親の愛に気づいた。
そして、謝り、感謝し、けじめをつけた。
結婚という、親別れ・子別れの儀式を立派に果たし、親子のへその緒を覚悟を決めて断ち切った。
個人の発達課題、家族の発達課題をきちんとクリアして、見事な背骨を持つ女性となった。それができたのは、凜の母親もまた、その時代の制約の中であれ自分の背骨を持っていたからだ。
そして、何より、親という愛、伴侶という愛に包まれていた。
愛が彼女を育み、まっすぐな背骨を作り上げ、
そして、自律モデルとなった彼女が、子孫の人生を支えたのである…。
【DREAMS COME TRUE 「ねぇ」】
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人は皆無意識に人生脚本を歩いている。
無意識であれ、それは自分が作った脚本だから、演ずる舞台も登場人物も自分が(無意識に)選んでいる。
そう、映画と同じ。先にシナリオがあり、その世界観に合わせて登場人物も配役も自分が選んでいる。私たちは「告白」の世界にも「FLOWERS -フラワーズ-」の世界にもいけるのだ。
どちらにいたいのか? それは脚本が決定している。
だから、脚本を書き換える意味で、「結婚」という儀式は大切だった。
「もう帰る家は無いと思え」と親が子に言うのは、親が“子ども”としての吾が子を断念する決意。
「これまでありがとうございました」と子が親に感謝するのは、それが訣別の時だからである。
この時に、親のために生きてきた人生脚本を捨てる。
それは、自己のアイデンティティの再構築せまられることになる。
また、それがなければパートナーとの新なアイデンティティを確立できない。
つまり、結婚の時点でかつての自分は一度死に、新たに生まれ直すのである。白は死に装束であり、まだ何ものにも染まっていない誕生の色でもある。そういう意味で家族心理学的には、結婚式はかつての自分の葬式であり、ハネムーンは親族や友人達が自分を野辺送りする儀式であった。
いろいろな思いで、凜の結婚式当日の騒動や白無垢の姿、そして嫁入りの道行きを見た。
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もう一つ感じたこと。
それは、人間をまっすぐにさせるために自然の果たす役割は、とても大きいということ。
人工物は、所詮人の感情の塊(表現)だ。
そこから、常時感情のエネルギーを浴びている。
人が自然の中で浄化されるのは当然なのだ。
そういう観点から、「開発」や「建設」というものを見すえれば、私たちが一体自分達に何をしようとしているのかがわかってくるだろう。誰だったか、建築というのは空間に影響を与えること―その影響力に私たちは無頓着すぎたと反省していた建築家がいたが……「開発」や「建設」によって、私たちのまっすぐな命は、守られているだろうか。
その名も「Last Flowers」というミュージックビデオ(「告白」の主題歌)は、林立する摩天楼の足元で、人が命を蝕まれて倒れていく姿が描かれているように思う。
涙のきっかけは、まさに「告白」でもテーマとなっていた「命」にかかわるエピソードだった。
が、その後も涙が続いたのは、自然の美しさ、そしてそれぞれが背景を抱えながらもまっすぐに生きようとする美しさだった。その映像の積み重ねが、ついに堰を切ったような涙となったのだろう。
「美しい」―そう思った。
よきものが世代間連鎖している。
いいものを見せてもらった―そのことへの感謝があふれた。
あちらにもこちらにも、よきものをつなごうとしている人たちがいる。
それを知ったことが、私の中のチャイルドはとても嬉しかったのだろう。
だから、「THIS IS IT」の時と同じくらいに揺さぶられたのだと思う。
ありがとう。