画竜点睛―竜たちよ、自由意志の空へ飛べ
今にも動き出さんばかりの竜。しかし、その眼に睛(ひとみ)がなかった。
描けば、たちどころに本物となって飛び去るという。
それを信じない人々は、描き入れるよう求めた。
そこで、仕方なく彼は2匹の竜に睛を入れた。
すると、稲妻が走って壁が壊れ、その2匹は天に昇り、後には睛を入れなかった2匹の竜が残った。
-----------------------------------------------------------
この故事をいろいろな思いを持って思い出す。
本来は生まれてきたすべての人は飛べる竜。
生まれて間もなく社会や家系の壁に塗り込められていた人々が、あるとき自分を取り戻す作業をはじめる。自分の形を取り戻しはじめ、モノクロの記憶に色がつき始め、やがて活き活きと自分の力で動き始める寸前まで到達する。
が、やっとのことここまできて、壁から解き放たれ天をかける竜と、壁に閉じこめられたまま身動き出来ない竜に別れる。この差は何なのだろうか。
自由に身動きできる=心のままに体が動くということである。
それを気持ちのままに行動させないようにしているものが3つある。
・IP(ドライバーや禁止令)に汚染された思考
・封印されたICで重くパンパンになった心のコップ(衝動)
・親のために生きようとする人生脚本
さてここで、絵の達人チョウソウヨウは、竜を描いたのではなく、壁に塗り込められていた竜を復元していったのだとしよう。その竜が復元される過程は、無自覚に壁(人生脚本)の中で生きてきた竜が、自覚をしていく過程だ。
壁の中に姿が現れたと言うことは、人生脚本(壁)の中で自分がどのように踊ってきたのかを自覚したということである。脚本と一体化し、その中に埋没していたときには自らが脚本の操り人形だったわけだが、自分と脚本を分離する準備が出来たわけだ。
そして、IPと闘い自分の「意志」を取り戻して右目を入れる。
次いで、ICと向き合い、「感情」を取り戻して左目を入れる。
…でも、これだけでは奇蹟はまだ訪れない。
最後の最後の関門は、壁から解き放たれるときの自由=孤独。
この孤独が怖いばかりに、「親のために自律するな」という人生脚本(壁)にしがみつく。そこに、脚本の手先であるIPが、「親に向かうな。人とつながるな」という最大の禁止令をもって蓋をする。
そして、自らがしがみついて離れようとしない壁の中で、自分に見捨てられた「孤独、寂しさ、存在不安」というICは(無意識に)のたうち回るのである。
すると、壁の中に現れた竜はどうするだろうか。
-----------------------------------------------------------
1,壁の中でカリスマとなる
形の現れた竜は、形を持たない竜よりもパワーがある。自覚した分だけ、自覚していない竜をコントロール(支配)しやすいということだ。また、無自覚の竜から見れば覚者に見えることもある。そこを利用して、壁の世界でカリスマとなって、周囲から存在承認を得ることで不安を解消しようとする。
たとえば、自分の才能、能力、技能、専門スキルを用いて自分の周りに自分のグループを作り、そこを子宮にしていく。ヨガ、ヒーリング、セラピー、カウンセリングなど、自律に向かうための場も、そのような子宮となり得ます。
2,壁を拡張していく
点睛に至るまでは背骨が確たるものにならない。そこで、代理背骨である主義や教義、あるいは確たるものを持つ人にしがみつこうとする。むしろ、自らをそこに同化させていこうとする。そして、自分が帰依する価値世界を拡大し、自分が行動できる領域を拡大していこうとする。○○主義を広めていくこともそうだし、宗教教団の布教拡大も同じ。カルマを増やしているのだが、それを善と信じている。どんなに活動領域を拡大しようとも、空に解き放たれる自由に比ぶべくもないのだが、無限は恐怖なので本当の自由は求めていない。また、背骨がないので自由に伴う責任を負いきれない。
3,新たな壁を作っていく
上が同じ色合いの壁を拡大していくのであるとすれば、こちらは、違う色合いの壁を見つけたり、作ったりしながら、その壁に乗り移っていく。一見自律して自分の世界を作っているように見えるのだが、その行為の本質は、親が棲む「壁(ハラスメント界)」というテリトリーから抜け出さないための自己欺瞞的行為。自分をも欺いているので、他人もわかりにくい。
4,壁の中で心をわかってもらう努力を続ける
この壁の連中(親)に自分のことをわかってもらいたい、自分の苦悩をわからせたいという根強い欲求(餓え)がある。それにわかってもらえれば壁を出る必要もないし、孤独になることもない。しかも、それは親が心を取り戻すことであり、親を最終的に救うことにつながる。…という理屈をゴチャゴチャと並べて自己洗脳しつつ、壁の住人に挑み続ける。
そこで代償行為のゲームを続けることは、不安と向き合わずにすむ時間つぶしになる。しかし、その間チャイルドは見捨てられ続けているので、次のような結末に至るだろう。
・微妙な均衡を保ちつつ、あるいは浮き沈みしつつ、またはサイクルを繰り返しつつゲームを続ける。(三角形のゲーム、怒り吐き出しのゲーム、自己投影救出ゲームなど…)
・疲れ果てて突然鬱になる。
・すべてが無駄な努力だと悟ったとき、絶望感、徒労感、自殺衝動。
・自分の脚本である壁もろともこの世界を破壊してしまいたい、という破壊衝動(←本人は、「この社会」とか「この世界」とか言うが、それは“本人が囚われている壁”の世界(ハラスメント界)。自分が不安と向き合う勇気がなくて囚われているのに、それを外の世界に投影して逆恨みしていることがよくわかるだろう。家を燃やして灰燼に帰したいと思う心理も同様)
・その間ずっと蓄積され続けている怒りと憎しみのICが臨界を越え、殺意(自殺、親族殺、無差別殺)を持つ(←本当は、ICは、気持ちを見捨て続けている自分に対して怒りを持っている)。
1~3は、ハラスメント界で生き続けることを内心決意した人。いずれ、ハラッサーへと転化していく。
4は、ハラスメント界において一見ハラッシーに見えるが、やっていることの本質はハラッサー。
-----------------------------------------------------------
欽ちゃんの仮装大賞というのがある。
全国の予選を勝ち抜いて舞台に登場するだけでも大変なこと。
並大抵の努力ではなかっただろう。
しかし、せっかく19点までいっても、あとの1点が取れないばかりに入賞ならずというチームがある。ところが、その1点が取れると見事入賞!
つまりは、
19点の人は 0点の人と同じ。
20点の人は40点満点の人と同じ。
最後のたった1点が20点に匹敵するのだ。
その残るたったの1点が「点睛」。
その1点を打ったとき、竜は覚醒し天に昇るのだ。
その1点は、IP、IC、脚本、そのすべてと闘った上で残るもの
―「寂しさ」(不安、孤独感)だ。
-----------------------------------------------------------
自分と闘い、19点まで背骨を作り上げてきた頑張りはよくやった。
ここまできたのだから、もういいでしょう、と言いたくなる気持ちもわかる。
もう休みたいほどに体もくたくただろう。
だから、休みたいだけ休むといい。
焦る必要はどこにもない。
けれど、そこまで背骨が出来るまでじっと待っていた感情がある。
それは中途半端な背骨では支えきれないから待っていたのだ。
19点まで背骨が出来たからこそ、その感情(IC)は満を持して出てくる。
それが、「寂しさ」だ。
そして、この1点だけは、あなたが自分の手で勝ち得るしかないのだ。
誰にもどうすることもできない。
ただ、祈って見守るしかない。
ここにきて、「祈る」という行為の真の意味がわかる。
もはや、その人が自分との闘いに勝つことを
「祈る」以外に手がないのだ。
このブログは、一つの「祈り」だ。
-----------------------------------------------------------
では、「祈り」の先で、あなたはどうすればいいのか。
以下は、妻からのメッセージである。
誰かにわかってもらおうとしないで。
誰かに寄り添ってもらおうとしないで。
そんな誰かに寄り添ってあげようともしないで。
寂しくて苦しい、狂いそうになる…けれど、そういうとき
誰か・・・と手を伸ばしたときに繋がった手はハラスメント界の人。
自律界の人は、ただ祈っている。
辛い木を見守る親と同じ。
誰にも見えない場所を選んで
誰にも声をかけてもらわない場所を選んで
疲れ果てるまで泣きながら自分の肩を抱きしめる。
孤独で不安なチャイルドを抱きしめる。
抱きしめて抱きしめて
泣いて泣いて
そんな瞬間ごとにたくましくなっていく
泣くのが自分を大事にすること。
そこを超えられるのは、
自分だけ。
-----------------------------------------------------------
画竜点睛―眼を描き入れるだけでは竜は飛ばない。
最後に、睛(ひとみ)の一点が必要だ。
それが、涙なのだろう。
眼の中に、涙のごとき点が打たれ、睛が点ったとき、天が力を貸す。
稲妻が走り、自分を縛っていた世界は崩壊し、あなたは自由の天地へと解き放たれる。その瞬間は、凄まじい痛みに貫かれるかもしれない。けれど、次の瞬間にはもう空にいる。
竜たちよ、舞い上がれ。
光り輝く姿となって、自由意志の空へ飛べ。
私は、祈っている。