援助者の心構え(=人間関係の心構え)
『「虐待を受けた子供」と対する場合は、自分がその子から「虐待をされている」という認識を持って対応する必要がある』―この言葉には衝撃を受けました。私は、次のような事例をスーパーバイジングしたことがあります。
(以下、ご本人の許可を得て掲載しております)
■カウンセラーが相談者に殺意を抱く-------------------------------------
1、相談者の方がこの日、この時間しかないという依頼をしてきた
2、無理があったが、相談者が自分と同じような境遇にあったので引き受けた
3、面談で大変な思いをされているとわかるからこそサジェストした
4、その後、相談者から強烈な攻撃を受けた
5、その相談者に対して殺意まで沸いた
面談をした方をAさんとしましょう。
1、1の段階で、相談者はAさんにリミットテストを仕掛けています。
自分のわがままが通るのか通らないのかを計っているのです。そして、これが通れば相手を自分の支配下(コントロール下)に置くことができる―無意識なのですが、そういう土俵の上で生きています。ハラスメント界はコントロールしあう人間関係ですから、それ以外の人間関係をそもそも学ぶチャンスがありません。残念ながら、そういう生き方が身についてしまっているのです。
2、Aさんは、自分と同様に相談者にも小さなお子さんがいることを知り、自分を投影してしまいます。言い換えれば、同情してしまったわけですね。同情と共感の違いはいろんな観点から言えると思いますが、そのひとつとして次のように言ってもよいでしょう。
・同情とは、自分のICの思いを相手に投影すること。
・共感とは、相手の枠組みに立って相手の気持ちを想像的に理解すること。
3、さらに面談で、相談者の大変さがよくわかるからこそ、早く楽になってほしいという思いもあって自分の事例なども話しました。
4、しかし、相談者の方は楽になりたいという思いもさりながら、まずはただ全面的に受け止めてほしいだけなのです。その内容がどうあれ、外からの情報は一切受け付ける余裕はありません。心のコップには、それがどんな情報であれほんの一滴も入る余地がないのです。それが相手のためであっても、一滴であふれてキレるのです。
また、その相談者の方は怒りの中に棲んでいますから、対象が見つかれば誰彼なく吐き出そうとします。相手をコントロール下に置いた時から、いつか怒りを爆発させるときを狙っており、何らかの難癖を見つけて自己を正当化し怒りをぶつけようとします。
その怒りを自分自身が受け止めることから自律への道が始まるのですが、まだそこに到達していない、いわばカウンセリング以前の段階なのです。ですから、カウンセリング関係は成立しえません。
5、攻撃を受けたAさんは、最初はわかりません。ショックが大きすぎるときに人は感情を鈍磨させ破綻を回避するからです。そして、その後ふつふつと怒りがわいてきます。特に自分がカウンセラーであり、相談者に対して気持ちをぶつけるわけにはいかないという一方的に制限された立場におかれたときに、せき止められた怒りが憎しみとなり、ついに殺意まで沸いてきたわけです。Aさんははらわたが煮えくり返り、誰かに受け止めてもらわなければ破綻してしまう―ということで、私に電話されたのでした。
■特別な人間はいない---------------------------------------------------
Aさんは無防備に相談者に対応し、その結果、『無意識に被害に逢った後で鬱になったり、逆に激しい怒りまで起きるような心の傷を負う場合がある』という玉井先生の言葉どおりになってしまいました。私がこの話を受けることができたのは、私も同じ体験をしていたからです。
カウンセラーがこのような罠に陥るとき、上記の例にあるように、カウンセラーの側に癒されていないICがいます。そのICの存在を自覚していれば間違いは起きないでしょう。しかし、そこに無自覚な場合はそのICを相手に投影して上記のような同情を起こし、無意識のうちにイレギュラーな扱いをしてしまっているのです。
イレギュラーな扱いをするということは、相手を“特別扱い”したということになります。人は誰しも自分を特別な存在だと思いがちですが、特に苛酷な目にあった人はその傾向が強くなります。これほど苛酷な目にあった対価として、自分は他の誰よりも大事にされてよいはずだという思いがどこかにあります。カウンセラーのイレギュラーな扱いは、相談者のそれらの思いに承認を与えてしまうことになるのです。
そして、このスタート時点で自律に至る道は閉ざされます。なぜなら、
「自律とは、どの人も特別な人間はいないと知ること」だからです。
■殺意を持つにいたるメカニズム----------------------------------------
人間である以上、ICを持たない人間はいません。
追い詰められた相談者はそこを突いてきます。追い詰められた経験があるからこそ、追い詰め方も知っているのです。つまり、相談者の方は親との関係ではハラッシーですが、Aさんにとってはハラッサーであり、Aさんは相談者から明確にハラスメントを受けたのです。(このことは、現在子にハラスメントをしている親が、かつてはその親の親からハラスメントを受けた子であったことを考えればわかる話ですね。連鎖しているわけです)
が、Aさんは自分がカウンセラーであり相手は救うべき被害者という観念に縛られ、一方的にものを言ってくる相手に対して一言も言えない自分という立場に立たされ、ついに殺意を持つまでに至りました。
ここに殺意を持つにいたるメカニズムが現れていますね。
観念に縛られて“一方的”な関係になる場合、そこに殺意が生まれる素地ができるのです。これは、親子、夫婦、先生と生徒、上司と部下などあらゆる人間関係に言えることです。また、たとえば親や夫などハラッサー側が反省するなどして立場が逆転したときも、それが一方的になった場合には同じことが言えるのです。
■ハラッサーからはただ去るのみ-----------------------------------------
相手が親であれ子であれ、
先生であれ生徒であれ、
加害者であれ被害者であれ、
援助者であれ被援助者であれ、
一切関係ありません。
そのようなカテゴリーの前に、何よりもまず、
すべての人はただ「感情を持つ人間」なのです。
その人間に対して、「あなたは○○なのだから」とカテゴリーにはめ込む発言をする人間は、その時点で相手に対してハラスメントをやっていることに気づいてください。なぜなら、その言葉は相手の自由を奪う言葉だからです。その裏には、相手を自分の都合のよいように動かしたいという意図があることが胸に手を当てればわかるはずです。
何事にも傷つかない、鉄のような人間はいません。
そして、すべての人は、自分の身は自分で守らなければなりません。
この場合、自分の身を守るとは、相手に反撃をすることではありません。
その煮えたぎる感情を自分で受け止め、その相手から、ただ去ることです。
私はいつも、血が滲むほどに唇をかみ締めて幼子が焼けるのを見届け、黙って焼き場を去った「焼き場に立つ少年」を思い出します。
■リミットセッティングの大切さ-----------------------------------------
このような罠に陥らないために、限界設定(リミットセッティング)はとても大切です。では、どのようにセッティングするか。それは、よいものはよい、悪いものは悪い、できることはできる、できないことはできない、しないことはしない、無理なものは無理と、援助者の身につけた範囲で対応すればよいと思います。
それがその援助者の枠組みであり、その枠組みを超えて無理をしてもよい結果にはなりません。相談者の方がその枠組みに満足できなければ、他へ行くだけのことなのです。
■「共感」が「同情」に転化する落とし穴---------------------------------
なお、このことは共感における枠組みとは異なります。相談者の話を聴くとき、援助者は自身の枠組み(価値観、世界観など)を取っ払って相談者の枠組みに沿って話を聴きます。いわば相談者の身になって話を聴くわけですね。そこから“共感”が生まれるわけです(それに引き換え、“同情”は、わが身に置き換えて話を聴いてしまうことです)。
しかし、この『相談者の身になって』しまうところに落とし穴が潜んでいます。相談者の話に自分の苦悩と同じようなものを感じたとき、共感が同情に変化し、判断が甘くなる=境界を越え、依存を許してしまうことがあるわけです。
社会復帰、さらには自律を目指しているわけですから、気持ちには共感しても、行動は矩(のり)を踰(こ)えてはいけません(人の道をはずしてはいけないということ)。
まして相談者が援助者に怒りをぶつけてきたとき、その時点で相談者は援助者を道具にしたことになり、援助者は無意識のうちにディスカウントされています。そのディスカウントを許すことは、相談者の自律を妨げることになります。気づかないままに許し続けることは、援助者が相談者のイネイブラー(悪しき状態の維持者)となってしまうのです。ですから、気づいたらすぐに断ち切ることです。
■正しいフィードバックは気持ちを伝えること-----------------------------
すべての生物は、フィードバックを受けて自己修正していきます。
遭遇する人や出来事など、自己修正するための鏡は用意されていますし、気づきという自己修正のための能力も付与されています。人は、自分の責任で人生を全うできるように創られているのです。
そして、それがどのような人間関係であれ、互いを成長させるフィードバックは、「今」感じた自分の思いを相手に率直に伝えること―これが最高のフィードバックなのです。
★殺意から洞察へ------------------------------------------------------
その後、Aさんから次のようなメールをいただきました。
―あのカウンセリングによって、私の先方への憎しみは煙のように消えて行きました。と同時に、「自己責任」と「自分を責めること」の違いも真に理解できました。
ただ、理解できたからこそ、そのことをお相手に伝えたいという衝動も同時にでてきました。自分を「理解」されたいのでしょうね。
しかし、その必要がないことも感じました。なぜなら、その方は「私が正しい」ことを聞く必要がないのだと感じたからです。今はまだ、ただひたすらに「吐き出す」相手を探しているだけだから。仮に私が伝えようとすれば、むしろそうした私の行動をさらなる「特別扱い」として受け取るでしょう。
今は、自身のICへの洞察へと変わりました。
ICの憎悪、極限の悲しみは、永遠ともいえる時を従えた孤独であったのだと。
孤独ほど、人を痛めつけ醜く歪ませてしまうものはないのでしょう。
そしてその裏に在る、それでも自分をあきらめない魂の強さと輝きに深く胸を打たれたのです。
私のICの心も氷河のように厚い層の氷で覆われ、もはや手をつけることができぬほどで、いっそなかったことにしてしまいたいとの想いにかられます。しかし、その想いそのものがいっそう、ICを追い込んできたのです。
その怒りと悲鳴を受け止めながら、私に出来ることはただ一つ、
「春の一筋の光」になることしかないと。
真夏の光ほど強くはないけれど、どんな寒さとも張り合うことなくただ一筋に、か細くとも、柔らかい光を絶え間なく、もたらし続ける光に。
★★傷が傷を思い起こさせる--------------------------------------------
…しかし、そう簡単に傷は癒えるものではありません。理解することと癒えることは別物です。肉体の自然治癒能力と同じく、心も回復能力を持っています。が、自然治癒と同じく、心の傷も癒すには「時」という名医が必要なのです。
癒えるまでは、PDSD(心的外傷後ストレス障害)の症状が出るでしょう。でも、いずれ消えます。ただ、同じようなタイプの人間に出会ったときに、復活(フラッシュバック)することがあります。が、それもまた消えていきます。…こうして心がたくましくなっていくのでしょうね。
それから、肉体の傷は見えますからそこに意識がいき自然治癒が始まりますが、見えない心の傷は、気づかないままに封印している場合、いつまでも自然治癒は始まらずに生々しいままそこにあり続けるように思います。
Aさんは、その相談者に会わなければ、封印されていた心の傷に気づかなかったかもしれません。何らかの出来事があったとき、そこから何を得るのかは、それにかかわった個々人の力量なのです。改めて深手を負ったこと、そしてカウンセリングによりその怒りの矛先を相手に向けず自分と向き合う原動力としたことが、Aさんを深い深いところへと導きました。
『自分の胸を観てみると真横に深い傷がついています。
改めて、あぁ・・・こんなにも自分は傷ついたんだとわかりました。
その痛みと恐怖を感じると、母親に長い時間怒鳴られ、怒りをぶつけられた時のことを思い出します。』
…こうしてAさんは、自分との深い対話に入っていきました。
そして、次のような地点に到達されました(文は再構成しています)。
★★★人は自由意志で生きている----------------------------------------
親からもらえるエネルギーは、期待に応えろという要求のエネルギーだけ。
だから、
期待に応えること=必要とされること
期待されないこと=必要とされないこと
と勘違いしてきた。
だから、相手の期待に応えようとしてきた。
お母さんは、要求だけを押し付け、私の自由を認めなかった。
だから、私もお母さんが自由になることを認めることができなかった。
無理して応え続けたぶんだけ悔しい。
自由を奪われたぶんだけ悲しい。
私は今回、相手の自由を奪うことの罪深さを学んだ。
自由を奪われてみて初めて「自由」が何なのかがわかった気がする。
私は自由なんだ。
そして相手も自由なんだって。
求めることも、求められることも、
奪うことも、奪われることも、
すべてこの「自由」に内包され、支えられているってこと。
だから、どんなに悲しくても、
相手の自由を認めることで、自分も自由になれるんだね。
心は自由だし縛れない―それがわかると、
相手の期待通りに動くということは、すごく苦しい。
自分の期待が相手を縛ってしまうとしたら、とても辛い。
相手が期待に応えるため辛い思いをしていることを知れば、とても悲しい。
そうか…相手の自由を奪えば、結局自分も不自由になる。
私が相手に期待することは自由だけど、
相手が思い通りにならないことも受け入れてこその自由なんだね。
私は、お母さんの期待に無意識だけど精一杯応えてきた。
だから返して欲しいと思うのも自然だし自由だね。
だけど、母は私の期待に応えないという自由もあるんだよ。
そうか…自由を奪われたと言っても間違いじゃないけど、
結局、私がお母さんの期待に応えてきたのは、私の選択だったってことか。
私の自由を奪った母は、不自由の苦しみの中にいた。
では、親が自由にならなければ自分は自由になれないか。
そうじゃない!
母は不自由を選択したんだ。
私は、自由を選択することができる。
私はこのままお母さんに期待して待ち続ける自由もあるし、
待たないで歩きだす自由もある。
それはお母さんも同じ。
たとえお互いの選択が、互いの意に沿わないものだとしても、
それを受け入れ認めあうことが互いの自由を認めあうことになるんだね。
自分が自由でいることと、相手が自由でいることは両立させることが出来る。でも、そうじゃないことも同じようにできる。
相手に何かを求めたいと思う時、相手の自由を奪うことなく自分の気持ちを伝えることの大切さがわかったよ。
母の期待にこたえずとも、私はここに在る。
期待されてもされなくても、自由に、あるがままにいれば、それだけでいい。
こんなにも私は、お母さんを愛することができたんだね。
それは、間違いとか間違いじゃないとかじゃない。
まぎれもない真実だよ。
私はそのことに、誇りを持っていいんじゃないかな?
こんなにも人を愛し、待ち続けることができた自分を認め、誇りに思ってもいいんじゃないかな?
愛が報われないときって、残酷だけどあるよ。
でも、捧げた愛が無駄で意味がないわけじゃない。精一杯愛したよね。
だけど、お母さんも私を愛さなかったわけじゃない。
ただ、愛する想いよりも、愛されたい想いが強すぎただけ。
だから、相手が私ではなく別の人でも結果は同じだったんだよ。
精一杯やったよ。
もう、充分だよ・・・。
これ以上自分を責めて泣いても、お母さんは戻ってこない。
戻ってこないことをそのまま、認めるしかないんだよ。
一人じゃないよ
今度は私も一緒だよ
・「アセンションものがたり」~援助者の心構え