08,ヤミーには誰もが落ちる可能性がある
■08,ヤミーには誰もが落ちる可能性がある------------------------
1,知人が囚われたケース
『本人は全く気づいていない。同士のブログを読み続けていたが、ある日から何かおかしいと思うようになった。それはほんの些細な変化だった。その変化に気づいた。そしてずっとおかしいと思っていたが、今日決定的に闇とつながっている事が判明した。
それは私にとって大変なショックであった。闇に囚われる事がないと思っていた人だったので、ひょっとしたら私の方が闇にいるのではないかとさえ思った。一瞬動揺したが、動揺すれば闇の思うつぼだと思い、自分の心を立て直した。
そして私の感覚を、もう一度考えた。私が何か変だ、何かおかしいと思ったのは、同士の変化を感じ取ったからだ。自分の感覚が何かおかしいと言っていたのは確かであった。その事に自信を持とうと思った。』
『それは私の感覚以外の何物でもなかった。私の感覚が何かおかしいと感じた。これは紛れもない事実。そして今日ハッキリとそれが判明した。けれど私が闇に入っているのではないかと思わせるほど、今回の事は私を惑わせた。頭でその事を悩んでいたが、私の魂は本当の事を知っていた。私は自分の感覚、自分の魂に従う事にした。
すべては必然である。今回闇に入った同士も必然だったのだろう。それはそれで尊いお役目を持っているのだと思う。私は今回の事を通して、自分の感覚を信じるという大切な事を学んだ。自分の感覚がすべての答えを知っている。』
http://iruka-andara.blog.so-net.ne.jp/archive/20090323
2,本人が囚われたケース
『お気づきだろうか?私たちがすでに、闇に惑わされている事を。
私たちは穴をのぞいても、変なにおいを感じなかった。洞穴は暗くじめじめしているのに、そんな場所に光の存在がいるわけはないのに、その時の私たちは、そこから離れようとしなかった。』
http://iruka-andara.blog.so-net.ne.jp/archive/20090907
3,人は誰でも、闇に落ちる可能性がある
『人は誰でも闇に落ちる可能性がある。誰でも例外なく落ちる。けれど闇に落ちる事を恐れてはならない。なぜならそこから必ず這い上がる事が出来るからである。闇に落ちたと気づく事。それは周りが落ちた波動で対応するから必ず分かる。そして光に戻る意志があれば戻る事は可能だ。
闇に落ちた事に気づかず、周りが今までと違う反応になった事に気づかず、そのまま闇にい続けると、最終的に闇から這い上がる事が困難となる。』
http://iruka-andara.blog.so-net.ne.jp/archive/20090821
★誰もが闇に落ちる可能性がある理由-------------------------------
「知人が囚われたケース」では、同士が闇に落ちたことによる『大変なショック』が伝わってきました。それは、『ひょっとしたら私の方が闇にいるのではないかとさえ思った』くらいの動揺でした。
『ひょっとしたら私の方が……』という動揺にお馴染みの方も多いのではないかと思います。
「ひょっとしたら私の方がおかしいのではないか」
「ひょっとしたら私の感じ方が間違っているのではないか」
「そう思う私のほうが変なのではないか」
「そう感じる私が神経質なだけではないか」
「私の我慢が足りないだけではないか」
「単なる私のわがままではないか」
「親の愛情を感じられない私は何か欠落しているのではないか」……
親との関係、配偶者との関係、恋人や友人との関係、上司や同僚との関係…さまざまな人間関係の中で、そのように感じられた方も多いのではないでしょうか。
信頼できた人が信頼できなくなる。それは、とても深刻なダメージを与えます。人を信用できなくなるということは、社会を信用できなくなることにつながっていくからです。それは、社会に出て行くのが怖い、社会で生きていけないという不安を生みます。
しかし、もし親と信頼関係ができあがっていれば、親以外の人間に信頼できない人がいたとしても、それは社会不安にはつながりません。バックに信頼できる人間(親)がいるからです。つまり、存在不安につながるほどの不安のそもそもの根っこには「親が信頼できる人間ではない(安全基地ではない)」という事実があるのです(それを認識しているにせよしていないにせよ)。
ここで無意識は考えます。
「親が信頼できない(親がおかしい)」と証明されれば、親から愛情を得る可能性がなくなってしまう。
「社会が信頼できない(世間がおかしい)」と証明されれば、社会が怖くて生きていけなくなってしまう。
つまり、自分はおかしくない、おかしいのは自分以外(親や社会)ということになってしまうと、親から愛情を得ることも社会に出て行くこともできなくなってしまい、そこには“絶望しか残らない”ように思えます。
ならば、まだ「自分がおかしい」と思っていたほうが救いがあるように(無意識は)思うのです。仮に「自分がおかしい」のだとすれば、自分が変わりさえすれば親から愛情をもらえるかもしれないし、その社会に入っていくことができるかもしれない―その“可能性が残される”ように思うからです。
“絶望しか残らない”vs“可能性が残される”
無意識はこの二つを比較し、「自分がおかしい」方を選択するのです。
そして、無意識にこの選択をしてしまって以降は、「自分がおかしい」ことを証明し続ける人生を歩くようになります。常に謙遜し自己卑下し、たとえば自分が認められそうになるとミスを犯したり、認めてくれる人を遠ざけたりします。
あるいは、親や配偶者の愚痴を友人や近所で言って、世間一般の反応を得て(言質をとって)、意識上では「わかってくれない」と不満を持ちながらも、無意識は「やっぱり自分がおかしいんだ」と安堵しているのです(複雑ですね --;)。
なぜなら自分が第三者から認められてしまうと、自分がおかしくはないことの証明になってしまい、その時点で「可能性を残すためのゲーム」はゲームオーバーとなってしまうからです。
一方で、自分を認めてもらいたいという欲求(飢餓)がとても強いので、ミスの犯し方や人の遠ざけ方にも無意識の“工夫”があります。自分の能力や実力に傷をつけないようなポカミス、凡ミス、天然ミスなどの類で自分の評価を落としていきます。
つまり、自分が認められたいという飢餓と、認められてしまっては親の愛を得ることができないという究極の二律背反の中を、まるで振り子のように行ったり来たりする人生になります。
この脚本にはまってしまうと、自律した人間はキャストとして選ばれません。なぜなら、自律した人はその人のありのままを「認める」からです。その上、親はハラスメント界に棲んでいますから、その舞台から降りようとはしません。
今生きている人の多くが、この「自分を信じてはいけない」という脚本を根底に持っています。ですから、「自分の感覚を信じよ」と言われても、それができずに自分を疑い、闇に囚われる人が続出することになるわけです。
★あなたが希望の光になってください------------------------------
ではどうすればいいでしょう?
多くの人は、親から愛情を得られないから自分が孤独で不安なのだと思っています。しかし、真実は、上記のように自分が自分を見捨てているから孤独で不安なのだということを知ることです。
内なる光(感情)を信じ、ICとつながったとき、あなたははじめて孤独と不安から解放されます(あなたは本来孤独ではありません)。
そのとき、それまでの生き方が上記のようなゲームであったことがはっきりとわかるでしょう。そして、ゲームを死ぬまで続けていたとしても、愛を得られなかったことがわかるでしょう。
次に、親兄弟に光を見せることができるのは、あなたしかいないことを思い知ることです。
まず、その家族システムの中で何らかの役割を担っているあなたがそこから離脱することが、必然的にその家族システムを新たな段階に移行させることになります。
また、あなたが自律し光り輝くことが、その闇のシステムのメンバー(家族)に光を見せることになります。あなたが自己を確立したら=内なる光で自ら輝くことができるようになったら、その闇の中に入っていくことも怖くはないでしょう。そのとき、彼らは初めて光を見ることになります。
ただ、向こうが怖がるかもしれません。
闇にとって光は怖いのです。
なぜなら、自分の内側を明るみに出すことを怖れて闇に逃げ込んでいったわけですから。
「外なる光」に出逢うことは、「内なる光」が刺激されるので嫌なのです。自分の周りに闇を置くことで、あるいは闇の中に身を投じていくことで、内なる光を閉じ込め続けたいのです。
ですから、あなたに光の兆しがあれば、相手は(それが親兄弟であれ)、あなたを徹底して避けるか、闇に引きずり込もうとするでしょう。
しかし、あなたが光そのものになったとき(自律したとき)、相手はあなたから逃げるか、自らの闇をぶち破る決意をするか、いずれかの道を選ぶところに追い込まれます。
あとは、相手の問題なのです。
あなたは、ただ希望の光になってください。
歌を贈ります。ピッッ…タリ!の歌です。
【BUMP OF CHICKEN 「オンリーロンリーグローリー」】