自分をわかってほしいエゴの最終決戦
★「お母さんを幸せにしたい」という聖戦--------------------------------
自分が深海(ハラスメント界)から浮上し、ついに水面に顔を出したとします。すると、はじめて、それまでの世界が重苦しく、はじめて見る世界が楽で生きやすいということを“実感”します。
「あぁこういう世界があったんだ」という驚きとともに、本当の「幸せ」を実感すると、親の棲んでいる世界は「不幸」だということが、身にしみてわかってきます。このとき、子どもは、「お母さんに気づかせたい」「本当の幸せは何であるかを教えたい」「お母さんを幸せにしたい」と思うのです。
「お母さんを幸せにする」―どこに出してもおかしくない立派なスローガンですね。ここに、子はお母さんの人生に介入することの大義名分を得ます。
大義名分を得れば、「義は我にあり」。
この闘いは、正しいことを行う聖戦となります。
臆することなく十字軍となって相手に挑んでいくことができるわけですね。
そして、あの手この手を使って仕掛けていくわけですが、それはマオリッツオやヴラドの事例で見ましたように、望んでもいない相手の認識世界を変えていこうとする行為―つまりは、相手を破壊する行為でした。
一方、親の方も自分が壊れるわけにはいきませんから徹底抗戦しますが、それも無意識です。実態は、これまでの「生き癖」が変わらないというだけのこと。ここで途方にくれて、再びカウンセリングとなった結果、実はお母さんが幸せであったと知り、衝撃を受けることになったのでした。
★人生脚本を賭けた頂上決戦--------------------------------------------
さて、上記では、自分が本当の幸せに気づいた結果、それまで憎んでいた母親に対して「お母さんを幸せにしたい」と思う気持ちが出てきた…という流れで書きました。それは、表層意識のすぐ下あたりの無意識に焦点を当てて書いたものです。
しかし、そもそも人生脚本は「親に認めてもらいたい」「親を幸せにしたい」という思いから作られています。つまり、「お母さんを幸せにしたい」という思いは、改めて出てきたものではないということですね。
そうですね…言ってみれば、お母さんを揺り動かす大義名分を得るために、最後の最後に、隠していた「伝家の宝刀」を無意識下から取り出したというところでしょうか。
伝家の宝刀を抜くときは、もはや後がないときです。なぜなら、それを取り出すということは、自分の人生脚本(伝家の宝刀)をさらすということになるからです。そこで玉砕すれば、人生脚本が崩壊します。それは、それまで生きてきた自分の人生の崩壊につながります。
つまり、
自分の脚本が破壊されるのか、
母親の脚本を破壊するのか、
そのやるかやられるかの頂上決戦を、Iさんはお母さんに仕掛けたのでした。
闘うは、それぞれ人生脚本を忠実に生きてきたIC-s。
(*インナーチャイルドはたくさんいますので、脚本(script)を握り締めて生きているチャイルドをIC-sと呼ぶことにします。なお、コンピューターでスクリプトというと「自動実行プログラム」のことです。面白いですね)
いずれも親への思いに引けはとりません。
言わば、武蔵vs小次郎のようなIC-s同士の果し合い
―それが、Iさんが自律宣言後にしてきたことでした。
★自分のことをわかってほしい----------------------------------------
なぜ、自分の脚本が崩壊(=それまでの人生の崩壊)することまで賭けて挑むのか。それは、自分のことをお母さんにわかってほしいという思いがあるからです。
自分は土俵を降りようとしているのに、お母さんはどんと居座ったまま。
自分のことをわかってもらうためには、なんとしてもお母さんをその土俵から引きずりおろさなければなりません。
でも、お母さんをその土俵から引っぺがすことは、マオリッツオが言っていたように『僕の足下から大地を奪い去』ることです。自分のことをわかってもらえる以前に、お母さんは精神的危機に陥ったことでしょう。
自分のことをわかってほしい―誰しもそう思います。
しかし、それを「わかれ」と相手に押し付けるのは“エゴ”です。
「お母さんを幸せにする」という大義名分を掲げることで、お母さんの人生に侵入することを正当化したのは、その実、このエゴを押し付けることの正当化だったと言えるかもしれません。
【余談】
最後の文を次のように言い換えると米国がイラクにしたことの本質がよくわかると思います。
『「民主化する」という大義名分を掲げることで、米国はイラク侵入を正当化した』
大義名分は、個人レベルから国家レベルまでいいように使われます。私達が従うのは、自分の気持ちだけです。
・自由からの逃走―(6)大義名分が人を滅ぼす