突然ですが、TSUNAMI!
2006/05/02(Tue) Category : 環境
ディマクコンダのTBで訪れた「西訪旅游 ~プーケット・ピピ島・諸々旅のブログ~」。
管理人ののっちさんは、2004年12月26日のスマトラ沖地震に遭われた。それを「ピピ島でのインド洋沖地震・津波被災体験記」として詳細に記録されている。一挙に読んだ。
貴重な記録だと思った。状況と行動が頭に入る。それはいざというときに、自分を助ける指針となるだろう。是非、多くの方に全編を通しで読んでほしいと思った。
そこで、このように紹介することをのっちさんにメールした。
喜んでご了承いただいた。
同時に、のっちさんは、『日本のマスコミ各社の報道にも言えることなのですが、悲惨なところだけを映して、観光客が激減し、地元の方の仕事を奪ってしまった』ように、『私も自分の記事がその「ネガティブキャンペーン」の一翼を担ってしまうようではと一時ジレンマ』もあったとのこと。
そこで、復興の様子も伝えていきたいとのこと。
のっちさんは、本日より被災後3度目の訪タイを予定しており、ピピ島にも2~3泊される。ほぼ完全に復興したプーケットとは異なり、『ピピ島は少しずつ牛歩のような復興状況ですが、自分の目できちんと見てまた、レポート』するとのことです。こうご期待!
では、下記にピックアップしたところだけでも、いろいろと伝わってくると思う。是非ご一読ください。そして、是非全編読んでみてください。
<以下、ピックアップして転載>--------------------
室内には瞬く間もなく水が浸入、ベッドや椅子などの家具が胸の高さまで浮き上がり、逃げようと思ってドアを押すも水圧で開きません。
このままだとコテージの中に閉じこめられたまま水死してしまうと直感
怪我を覚悟の上で右肘で割り、ものすごい勢いで室内に流れ込んでくる海水をかき分け、「こんなところで死んでたまるか!」と叫びながら室外へ脱出
海水の浮力を使ってそのまま隣のコテージの屋根に登りました。
あらゆるものが流されていきました。きっと人間も流されていたでしょうが、あまりに渦巻いていて、よく分かりませんでした。
恐ろしいことにその波によって、私たちの周りのコテージも嫌な音を立てて次々に倒壊しはじめました。
子供達は泣き叫び、スウェーデン人の若い男性は恐怖のあまり嘔吐していました。
次の波が来襲しないという保証もないので、浮くもの、掴まるものもないかとあちこち見渡し、水が引くのを待ちました。
水につかりながら、着の身着のまま裸足のままで山へと逃げました。おそらく、まだ周りの部屋の中や、崩れたコテージの中には、逃げ遅れた人、生きている人が残っていたかもしれませんが、次の波が来るのが怖くてそんな余裕は全くなく、大急ぎで逃げました。その時は、とにかく自分たちの命を守るので精一杯だったのです
山といっても、急角度で道なき道を登るだけです。
南ア人の連れ合いの方はぜんそく持ちで、途中でかなり辛そうな表情で吸入薬を使っていました。
山上の人間はますます増えてきました。血だらけの人や、足を引きずり肩を支えられてきた人も徐々に増え、正確な情報が乏しい現地はいっそう不安で混乱した空気になりました。
夜になって、自分の身体が傷だらけということに初めて気がつきました。必死に逃げているときは、なかなか怪我とかに気づかないものです。
この子達は両親とはぐれているにもかかわらず、寂しがることとかもせず、じっと我慢していたのです。
「この子達が頑張っているのだから、大人が頑張らなければ・・・」と大人のほうが励まされました。この子達には本当に感謝したいです。
何体かの亡骸も目にしました。ダイバーが打ち上げられているのも見ましたが、幼い子供の遺体を見たときは本当に悲しかったです。
変わり果てた景色を見て、まだ、沢山の人が、海の中や、つぶれた建物の中にいると思うとやりきれなくなり涙がこぼれました。
英字新聞には悲惨な写真が載っています。建物内で亡くなっていたファランの写真を見たとき、あの時、もう数秒逃げるのが遅れていたら、自分もこのようになっていたかもしれない・・・と背筋が寒くなりました。
非常時に黙っておれず、ほぼ徹夜で私たちの世話をしてくれているとのことです。また、タイ人の特有の優しさというのでしょうか、私たちが不安にならないように、いろいろと気遣ってくれ、その心配りに嬉しくて涙なしではいられませんでした。
こんなにひどい目にあったにもかかわらず、ますますタイのことが好きになりました。
日本人会の方達もボランティアで邦人支援をしてくださり、久しぶりに食べたおにぎりは本当に美味しく、感謝で胸がいっぱいになりました。
ベッドの中に潜り込むも、やはり、水が入ってきたときのことを思い出します。その日は灯りとテレビをつけて、入り口のドアを少し開けて休みました。1ヶ月たった今も、まだ灯りを消さずに寝ることができません。
タクシーの運ちゃんは(中略)、ピピから逃げて来たと一言告げたとたん、ハンドルから両手を離して哀しみのポーズを作り、オフィスまで大爆走。お金は持っているから、ちゃんと料金を払うと言ってもマイペンライを連発して受け取ってもらえませんでした。
「これだけ多くの人が傷つき、亡くなったのに、自分は多くの人に助けられ生きている。自分だけ助かって何もせずにいて良いのだろうか・・」少し体力面で不安がありましたが、とりあえず会場まで行ってみようとフロントに申し出、スネークファーム近くのチュラローンコーン病院まで運んでもらいました。(献血)
税関職員は私の「プーケットから」の一言で何も調べず「大変でしたね」の一言をかけてすぐに通してくれました。到着ロビーには今まで迎えに来てもらったことがありませんが、きっと父が待っているはず。父の姿を見た瞬間、駆け寄って抱きつき、その場で泣き崩れました・・・・。
管理人ののっちさんは、2004年12月26日のスマトラ沖地震に遭われた。それを「ピピ島でのインド洋沖地震・津波被災体験記」として詳細に記録されている。一挙に読んだ。
貴重な記録だと思った。状況と行動が頭に入る。それはいざというときに、自分を助ける指針となるだろう。是非、多くの方に全編を通しで読んでほしいと思った。
そこで、このように紹介することをのっちさんにメールした。
喜んでご了承いただいた。
同時に、のっちさんは、『日本のマスコミ各社の報道にも言えることなのですが、悲惨なところだけを映して、観光客が激減し、地元の方の仕事を奪ってしまった』ように、『私も自分の記事がその「ネガティブキャンペーン」の一翼を担ってしまうようではと一時ジレンマ』もあったとのこと。
そこで、復興の様子も伝えていきたいとのこと。
のっちさんは、本日より被災後3度目の訪タイを予定しており、ピピ島にも2~3泊される。ほぼ完全に復興したプーケットとは異なり、『ピピ島は少しずつ牛歩のような復興状況ですが、自分の目できちんと見てまた、レポート』するとのことです。こうご期待!
では、下記にピックアップしたところだけでも、いろいろと伝わってくると思う。是非ご一読ください。そして、是非全編読んでみてください。
<以下、ピックアップして転載>--------------------
室内には瞬く間もなく水が浸入、ベッドや椅子などの家具が胸の高さまで浮き上がり、逃げようと思ってドアを押すも水圧で開きません。
このままだとコテージの中に閉じこめられたまま水死してしまうと直感
怪我を覚悟の上で右肘で割り、ものすごい勢いで室内に流れ込んでくる海水をかき分け、「こんなところで死んでたまるか!」と叫びながら室外へ脱出
海水の浮力を使ってそのまま隣のコテージの屋根に登りました。
あらゆるものが流されていきました。きっと人間も流されていたでしょうが、あまりに渦巻いていて、よく分かりませんでした。
恐ろしいことにその波によって、私たちの周りのコテージも嫌な音を立てて次々に倒壊しはじめました。
子供達は泣き叫び、スウェーデン人の若い男性は恐怖のあまり嘔吐していました。
次の波が来襲しないという保証もないので、浮くもの、掴まるものもないかとあちこち見渡し、水が引くのを待ちました。
水につかりながら、着の身着のまま裸足のままで山へと逃げました。おそらく、まだ周りの部屋の中や、崩れたコテージの中には、逃げ遅れた人、生きている人が残っていたかもしれませんが、次の波が来るのが怖くてそんな余裕は全くなく、大急ぎで逃げました。その時は、とにかく自分たちの命を守るので精一杯だったのです
山といっても、急角度で道なき道を登るだけです。
南ア人の連れ合いの方はぜんそく持ちで、途中でかなり辛そうな表情で吸入薬を使っていました。
山上の人間はますます増えてきました。血だらけの人や、足を引きずり肩を支えられてきた人も徐々に増え、正確な情報が乏しい現地はいっそう不安で混乱した空気になりました。
夜になって、自分の身体が傷だらけということに初めて気がつきました。必死に逃げているときは、なかなか怪我とかに気づかないものです。
この子達は両親とはぐれているにもかかわらず、寂しがることとかもせず、じっと我慢していたのです。
「この子達が頑張っているのだから、大人が頑張らなければ・・・」と大人のほうが励まされました。この子達には本当に感謝したいです。
何体かの亡骸も目にしました。ダイバーが打ち上げられているのも見ましたが、幼い子供の遺体を見たときは本当に悲しかったです。
変わり果てた景色を見て、まだ、沢山の人が、海の中や、つぶれた建物の中にいると思うとやりきれなくなり涙がこぼれました。
英字新聞には悲惨な写真が載っています。建物内で亡くなっていたファランの写真を見たとき、あの時、もう数秒逃げるのが遅れていたら、自分もこのようになっていたかもしれない・・・と背筋が寒くなりました。
非常時に黙っておれず、ほぼ徹夜で私たちの世話をしてくれているとのことです。また、タイ人の特有の優しさというのでしょうか、私たちが不安にならないように、いろいろと気遣ってくれ、その心配りに嬉しくて涙なしではいられませんでした。
こんなにひどい目にあったにもかかわらず、ますますタイのことが好きになりました。
日本人会の方達もボランティアで邦人支援をしてくださり、久しぶりに食べたおにぎりは本当に美味しく、感謝で胸がいっぱいになりました。
ベッドの中に潜り込むも、やはり、水が入ってきたときのことを思い出します。その日は灯りとテレビをつけて、入り口のドアを少し開けて休みました。1ヶ月たった今も、まだ灯りを消さずに寝ることができません。
タクシーの運ちゃんは(中略)、ピピから逃げて来たと一言告げたとたん、ハンドルから両手を離して哀しみのポーズを作り、オフィスまで大爆走。お金は持っているから、ちゃんと料金を払うと言ってもマイペンライを連発して受け取ってもらえませんでした。
「これだけ多くの人が傷つき、亡くなったのに、自分は多くの人に助けられ生きている。自分だけ助かって何もせずにいて良いのだろうか・・」少し体力面で不安がありましたが、とりあえず会場まで行ってみようとフロントに申し出、スネークファーム近くのチュラローンコーン病院まで運んでもらいました。(献血)
税関職員は私の「プーケットから」の一言で何も調べず「大変でしたね」の一言をかけてすぐに通してくれました。到着ロビーには今まで迎えに来てもらったことがありませんが、きっと父が待っているはず。父の姿を見た瞬間、駆け寄って抱きつき、その場で泣き崩れました・・・・。
ブログの値段 さていくら!?&ブログが紹介されました
マイミクのKOSAKAさん(ちなみに32歳で司法書士で経営コンサルタントというやり手のビジネスマン)のブログで、How Much Is My Blog Worth?(あなたのブログの価値はいくら)というサイトがあることを知りました。http://www.business-opportunities.biz/projects/ho... ...